ある庭師の話
あたたかい陽射しが降り注ぐある日の午後。
ある豪邸の広い庭で、1人の老人が庭木の剪定をしていた。
白髪の上に麦わら帽子を被り、日に焼けたシワだらけの手が愛おしそうに花に触れる。
どこまでが庭かも分からないくらい広い庭は、決して華美ではない。
自然の一部を切り取ったような、穏やかな庭である。
鋏が枝を落とす音と、鳥のさえずり、木々の葉が風でそよぐ音が静かに庭に流れていく。
「ご苦労様。榊」
穏やかな女性の声に顔を上げ、庭師の榊は帽子をとって頭を下げる。
女性は、この屋敷の主人である。
国随一の学園の理事長を務め、一流ファッションブランドの社長でもある人だ。
「どうかなさいましたか?」
榊が尋ねると、主人は少し庭を眺めてから穏やかに微笑む。
「久しぶりに、庭でお茶でもしようと思ったの」
「それでは、私はお邪魔になりましょう」
主人の時間を邪魔してはいけないと別の場所へ行こうとしたが、微笑みを浮かべた主人に止められた。
「あなたとお茶をしに来たのよ。仕事中で申し訳ないけれど、少し付き合ってちょうだい」
主人の後ろからは、老齢の執事がお茶の用意をしたカートを運んできている。
榊は、この家の使用人である。
主人と同じテーブルにつくというのは普通では考えられないことなのだが、この屋敷では主人と使用人たちは家族のような関係なのだ。
優しい主人の言葉に甘えて、榊はお茶の席につくことにした。
主人の執事が淹れてくれた紅茶を飲むと、ほっと息をつく。
榊は、この人以上に紅茶の淹れ方が上手い人を見たことがない。
さらさらと風が流れ、緑にあふれた庭には老人が3人。
白頭が3つ。
主人と出会った頃は、まだ榊は黒髪だった。
時が流れるのは早いものだと、花の咲く庭を眺める。
「時が流れるのは、早いものね」
どうやら主人も同じことを思っていたらしく、庭を眺めながらぽつりと呟く。
「私たちも、もうおばあちゃんとおじいちゃんね」
「弥生様は、まだお若いでしょう」
「70歳を過ぎた人間に言う言葉ではないわ」
榊の主人、弥生は穏やかに微笑む。
この3人の中では、弥生が一番若い。
それでも70歳を過ぎたのだから、本当に時というのは早く流れるものだ。
「どれだけお年を召されても、弥生様はお変わりありませんよ」
上品で、穏やか。
家族を何よりも大切にしていて、使用人のことも大切に思ってくれる。
そして、敵と見なしたものには容赦がない。
「それはきっと、榊たちのおかげね」
弥生はふふっと、上品な笑みを浮かべる。
「私が元気でいないと、みんなが心配するでしょう」
弥生は、カップを置いて1本の木に目を止める。
その木は昔、木登りが好きな少女のために榊が植えたものだ。
よくその木に登って笑いかけてくれた少女は、もういない。
「人は、いつ死ぬか分からないものだわ」
それは、2人ともよく分かっていることだった。
弥生は、一人娘を早くに亡くした。
榊は、若い頃に妻と死別した。
どれだけ元気でいても、若くても、明日にはいなくなっているかもしれない。
人の命は、それほど儚い。
花は、枯れてもまた次の季節に蕾をつける。
草木も、手入れをすればまた生き返る。
人は、死んだら生き返らない。
どれだけ悲しみ、嘆いても、失われた命は帰らない。
「長生きしなくては駄目よ。榊」
1本の木から目を離すと、薄茶色の瞳と目が合う。
髪の色は変わっても、瞳の色は昔から変わらない。
太陽の光に透けるような、美しい色だ。
榊はこのお茶会の意味に気付いて、少し微笑みを返した。
「この前の風邪でしたら、もう治りましたよ」
1週間ほど前、榊は熱を出した。
ただの風邪だったのだが、この年で風邪をひくと若い頃のようにすぐには体調が戻らなかった。
どうやら、主人を心配させてしまったらしい。
「ご心配をおかけしてしまい、申し訳ありません」
「心配はするわ。家族だもの」
弥生にとっては、使用人も家族だ。
苦楽を共にし、互いを大切に思っている。
血の繋がりなどは必要ない。
主従関係も関係ない。
家族を早くに亡くした弥生にとって、この家にいる使用人たちは皆大切な家族だ。
「お願いだから、長生きしてちょうだい」
主人からの頼み事に、榊は困ったように微笑む。
「努力はしましょう。それでも、先が長くないことはご了承ください」
「せめて、次のお祝いができるまでは生きてちょうだい」
次のお祝いとは、米寿のことだろう。
77歳の喜寿は、すでに弥生や使用人たちに盛大に祝ってもらった。
「あと、10年ありますが…」
あまり自信のない榊に、弥生はにっこりと微笑む。
「つまらない思いはさせないわ」
この口ぶりからして、どうやら隠居はさせてくれないらしい。
この老体を必要としてくれることに、嬉しさを感じる。
榊は、主人の期待に応えるように目尻のシワを深くさせた。
「許される限り、貴女にお仕えいたしましょう」
弥生はその答えに満足したように、微笑む。
「米寿でなくてもいいのよ。卒寿でも、白寿になってもうちの庭師をしてくれていいのよ」
「その頃には、曾孫様もいらっしゃるかもしれませんね」
「そうしたら、曾孫の好きなものをこの庭に植えてちょうだい」
弥生は、庭に目を向ける。
娘が好きだった木。
孫が好きな木。
全て、榊が植えて育ててくれた庭だ。
「私の庭を任せられるのは、あなたしかいないわ」
庭師としてはこれ以上ない言葉に、榊は零れ落ちるものを隠すように少しだけ目を伏せた。
自分が年を重ねるたびに、その分を他の誰かに渡せたらと思うこともある。
自分のような老人が長生きするよりも、若くして亡くなってしまう人が生きられたらと。
それでも、この老体を必要としてくれる人がいる。
「長生きしろ」と言ってくれる人がいる。
『妻の元へ行くのは、もう少し先になりそうですね』
それでもあの妻だったら、きっと待っていてくれるだろう。
自分と同じで、気の長い人だったから。
『もう少し…』
もう少しだけ、この生にしがみついていようと思う。
ただ1人の主人との、約束だから。