第四十四話 朝倉宗滴(1)
天文十七年(1548年)5月
正式に朝倉延景(義景)に面会を申し込んだというのに絶賛放置プレイ中でなんと3日も経ってしまった。
その間に朝倉家の本拠である一乗谷において俺は――将棋の神様に祭り挙げられてしまった。(なんでやねん!)
本気でやる事のなかった俺たちは、あてがわれた部屋になぜか置いてあった将棋の駒と盤で、暇つぶしに将棋を始めていた。
将棋の歴史は平安時代に遡る。
日本の将棋も古代インドの「チャトランガ」というゲームが起源であると考えられるのだが、どのように伝来したかはまだ解明されていない。
一応平安時代には駒が出土しているのでその頃には伝来していたようである。
鎌倉時代には「鎌倉大将棋」が楽しまれていたようであるが、15×15マスの225マスの盤面で130枚の駒で指す化け物みたいなものだ。
室町時代には大将棋、中将棋とだんだん小さくなっていき、公家や武家などの上流階級で楽しまれる遊戯として発展していった。
そして将棋にとって画期的だった「持ち駒」(獲った駒の再使用)ルールが小将棋で生まれ、さらに現在の本将棋の形が成立したのは室町後期頃と考えられる。
今上陛下(後奈良天皇)が小将棋から「醉像」という駒を省き現在の本将棋の形となったという伝説もあったりするので、戦国時代には現在と同じ9×9の81マスの盤面と40枚の将棋駒で行われる本将棋が行なわれていたとも考えられる。
現存する最古の棋譜としては慶長12年(1607)の初代名人の大橋宗桂と本因坊算砂の対局になる。
(1548年だと本将棋と小将棋は微妙なラインなのだが、すでに小将棋は衰退していた説を取ります)
史実の細川藤孝も将棋を嗜んだようすがある。
将棋指しとしても知られる囲碁の本因坊算砂や初代名人の大橋宗桂とも交流しており、将棋好きだった徳川家康とも差していたようだ。
現代の将棋駒でも書体の一つとして残る「水無瀬書」の能筆家水無瀬兼成が残したとされる「将棊馬日記」には「幽斎」の記載があり、細川藤孝が水無瀬駒を発注していたことが分かる。
余談だが「将棊馬日記」に記載されている最大の発注者は徳川家康であり、関ヶ原の戦いで贈答品に水無瀬駒を使用したのではないかと考えられている。
また「将棊馬日記」には「金森法印」の名も見え、金森長近も将棋を愛好していたようだ。
はじめはヒマ潰しに金森長近や米田求政ら我が家中のヤツラと将棋を指していたのだが、相手にならず俺のムテキング状態だった。
普段から公家連中と将棋を嗜み多少腕に覚えのあった枝賢くんも俺に挑んできたのだが当然の如く圧勝した。
枝賢の朝倉家での教え子などがその将棋を見ていたらしく、朝倉家中で俺の将棋の腕前が話題となり、なぜか次々と勝負を挑まれるはめになった。
(一乗谷朝倉館跡から駒が出土しており朝倉家でも将棋は指されていたはずだ。朝倉将棋とか銘打って町興しもやってるよ)
まあ、ぶっちゃけると初代名人である大橋宗桂すらまだ生まれていないこの時代に未来の棋譜で打っている俺が負けるわけがないのだ。
(大橋宗桂は1555年生まれ)
「加藤一二三」(ひふみん)の『棒銀速攻』や「近藤正和」の『ゴキゲン中飛車』に、『天守閣美濃』とか『左美濃』など、やりたい放題かまして朝倉家中の将棋愛好家たちをフルボッコにしていった。
ほとんどが序盤の定石で圧倒しただけの、イカサマのような実力なのだが、放置プレイされていたこの三日間で俺は越前一乗谷において将棋の神として君臨してしまったわけだ。
俺に将棋を習いたいという朝倉家中の者がひっきなりしにやってくる有様である。
そしてその名声はついに動きの悪い朝倉家を『別の意味』で動かした。
なんということでしょう――あの朝倉宗滴の爺さんまでもが手合わせを所望してきたのである。
◆
さすがは名将の誉れ高き朝倉宗滴(教景)である。
宗滴は俺に対するに将棋の「純文学」といわれる矢倉囲いを指してきた。
この将棋の黎明期において既に矢倉囲いをマスターしているその慧眼に敬意を表して、『左美濃急戦』で木っ端微塵に叩き潰した。(矢倉にとっても強い戦法なのです)
しかし宗滴の爺さんは負けず嫌いであった。
なんと俺のような若輩者に頭を下げ、是非もう一局と頼み込んできたのである。
さすがは「武者は犬ともいえ、畜生ともいえ、勝つことが本にて候」の言葉を残したとも言われる御方だ。
俺はそんな朝倉宗滴殿に最大限の敬意を表して、念には念を入れて『居飛車穴熊』で万全の守りを固めて宗滴の駒を取りまくって完膚無きまでにボッコボコにしてやった。(とにかく守りの堅い戦法です)
俺の居飛車穴熊に勝ちたければ「藤井システム」でも持って来いや!
朝倉宗滴ほどの人に勝負を挑まれようが俺は正々堂々と勝負をするわけがないのである。(藤井システムは1997年に生まれた対穴熊戦法)
なんで俺はこんなところでこんなクソ怖い爺いさんと将棋なんて指しているのだろうか?
本当はもっと義藤さまとイチャイチャしていたかったのに……
そんな鬱憤をぶつけるが如き将棋の一局であった。
(将棋ネタのオンパレードで申し訳ないです。ちなみに私は神武以来の天才と言われた加藤一二三九段の棒銀戦法で将棋を覚えました)
「まいったまいった、降参じゃ。若いのにえらく強いのう」
「恐縮です」
「速戦だけかと思いきや、このような持久戦も得意としているとはのう……貴公、底が見えぬな」(貴公の使い方には問題がありますが雰囲気で)
怖いから睨まないでくれます?
「朝倉家を代表する名将の宗滴殿にそこまで褒められると困ります」
「褒めておるのだから困らずに、素直に受けておれば良いではないか」
「いえ、誉め殺しではないかと疑ってしまいまする」
「ぐっわっはっは、そのようなことはない。貴公の将棋の腕はたしかであったぞ。将棋は強いようじゃがさて軍略はどうであるかな?」
「初陣すらまだの未熟者にありますれば」
「だが貴公は清原宣賢殿の孫と聞いた、わしも宣賢公から教えを受けたが、あの宣賢殿が手ずから育てた麒麟児と聞いておる」(え? 麒麟って十兵衛じゃなくて俺なの?)
「子供の手習いではありますが祖父の宣賢には『孫子』に『六韜』などから国学・儒学と一通りは学ばさせて貰いました」(記憶ねーけど)
「その知識に加えて、この将棋の強さよ。信じてみたくなったわ。貴公が美濃のマムシと尾張の虎を取り押さえ、両家の和睦をまとめあげ婚儀までもを結び、さらには織田弾正忠家の嫡男の上洛も手引きしたと聞くが、事実であったか」
「この五日程前には斎藤道三殿の嫡男である利尚殿(義龍)の上洛と、公方様への謁見もとりはからいましてあります」
「ふん、それはまだ掴んではおらぬことであったわ。しかし斎藤家の嫡男まで上洛させるとはな。最近の幕府の動きが読めておらなんだが、全ては貴公の策謀であったか……信じられぬことだがな」
斎藤義龍はアイツが勝手に上洛したがって、俺は特に何もしてないけどな。
「これを見るがよい」そういって宗滴殿は書状を懐から出してきた。
「拝見してもよろしいのですか?」宗滴がうなずく。
◆
【朝倉宗滴(2)へ続く】
前半は短めですいません
将棋ネタも分からない人には申し訳ないです
後半は越前編を終わらせるつもりで一気に書くつもりです
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