第四十三話 そうだ越前にも行こう(2)
【そうだ越前にも行こう(1)の続き】
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越中、今の富山県にある五箇山という所をご存知だろうか?
五箇山は越中と飛騨の国境にあり、国境(県境)を挟んで南は白川郷であり、「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として世界遺産にも登録されている。
実はこの五箇山は、織田信長と死闘を繰り広げた一向宗石山本願寺に大量の硝石を供給した日本最大の硝石生産地だったりするのだ。
五箇山での硝石(塩硝)作りは「培養法」という方法で行われていた。
硝石作りには「古土法」、「培養法」、「硝石丘法」の3種類の方法があり、このうち「古土法」は日本全国でできるのだが、一度床下の土を取るとアンモニアが足りず15年から20年が経過しないと再び硝石を得ることができないうえ、作れる硝石の量が少ないという問題がある。
「培養法」と「硝石丘法」は人工的にアンモニアの量を増やし、生産効率を上げる方法なのであるが、この二つには気候的な条件があったりする。
「硝石丘法」は風通しが良く雨露がしのげる小屋に、切り刻んだ草や木の葉に腐敗尿、糞汁、石灰石、黒い土などを混ぜて積み上げ、定期的に尿をかけて硝石を析出させる方法であり、フランスで発明されたといわれる。
幕末には日本にも導入され、主に薩摩藩でさかんに行われた方法であるが、冬季に低温になる地域では生産量が低下するという問題があったりする。
京ってめっさ寒いやん! ということで硝石作りは五箇山で行われた「培養法」を採用することにする。(小氷期、シュペーラー極小期とかいう説もあるしね)
「培養法」は「硝石丘法」とは逆で、寒冷で多雪な気候が必要であり、『合掌造り』の家が硝石の生産に適しているそうだ。
とりあえず代官になっている久多荘は山城国の最北に位置し雪深い気候であり、完全な合掌造りではないのだが、茅葺屋根の家が多くあり「培養法」を行うには適した環境に近い。
金の力で久多荘の代官職を手に入れてから、準備として頑丈そうな家を数件買い上げ、古くからの蚕の生産地である丹波の漢部郷(グンゼの発祥の地)などの周辺地域から養蚕の技術者を雇い入れたりもして材料を集めてはいた。
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「培養法」の手順
(1)培養穴の作成
家の床下の囲炉裏のあたりに縦横2m深さ2mのすり鉢状の穴を掘る。
(2)培養土の作成
水気のない乾いた土と乾いた蚕の糞を鍬などでよく混ぜる
(3)培養草の作成
ヨモギの葉や麻の葉、サク(ウドの葉といわれる)を干す
(4)穀物殻の用意
ソバ殻、ヒエ殻を用意する
(5)積み置きの手順
穀物殻を一面に敷く、培養土を深さ一寸(30cm)入れる、培養草を一面に敷く、この順で穴の中に何層にもなるように積んでいく
(6)毎年やること
夏、春、秋で同じように混ぜる
これで早ければ3年、遅くとも5年で硝石が取れる「土」が作成できる。
土から硝石を抽出する方法は「古土法」と同じであり、ようするに培養法とは古土法では1度取ってしまうと20年は取れないアンモニアを含んだ土を強制的に毎年かつ大量に生産する方法なのである。
ちなみに培養法では人の糞尿を使ったりはしないのでそこまで臭くないともいうが、やはり臭いのではないかと思う。
あと土の発酵熱で冬とかすごく暖かい床暖房になるらしい。
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「培養法」のやり方はだいたい分かっているので、久多荘まで行き、本家が薬屋で化学分野に興味を持ってくれる米田兄弟の弟の米田是澄に培養法の手順を教え込むことにする。
米田是澄を責任者にして、茶屋明延や角倉吉田家とも協力しながら久多荘で培養法による硝石の増産に取り組んでいこうと思うのだ。
来月から硝石作りをスタートできるよう準備を頼んで、俺は久多荘からさらに北を目指し若狭から越前へと向かうのである。
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久多から最近は「鯖街道」の名で有名な、根来坂峠を越える針畑越え(小浜街道)を通って若狭国に入り、姉が嫁いでいる新保山城で一泊することにした。
赤ちゃんの甥っ子がトニカクカワイイ……この子、狂歌の祖とか言われ建仁寺と南禅寺の住持になる英甫永雄(雄長老)だよな。
うーん、こんなにカワイイ生き物が偉い坊さんになるのは想像できんな。
義兄の武田信重は若狭武田家第7代当主である武田信豊の弟で、京都武田家の分家であった中務大輔家を継いでいる。
中務大輔家は奉公衆であるのだが、若狭の新保山城主にもなっており若狭武田家の親族衆になってしまっている。
義兄の武田信重には若狭と越前の通行の便宜をはかってもらい、また小浜湊の廻船商人を紹介して貰うことができた。
紹介して貰った商人の組屋行隆と関戸豊前守久興とは小浜の本境寺で面会した。
『組屋』の組屋行隆は須屋または中島を名字とし、次代の組屋源四郎宗久は鳥取城攻めの際の米買いで羽柴秀吉に協力し、秀吉の蔵入地の蔵米の運搬を担うなど小浜湊の豪商である。
『鼠屋』の関戸豊前守久興は出羽国の檜山(下国)安東家の小浜における代官でもあるとされ、檜山安東家と若狭守護武田家を仲介し、奥州戸舘馬(青森産馬)を武田信豊に献上したりしている。
組屋行隆には石鹸の材料であるオカヒジキの仕入れを交渉した。
大垣から石灰を小出石村にも運んで、こちらでも石鹸の生産を行う予定なのだ。
また組屋は能登にも伝手があるらしいので、とある物の仕入れもお願いしてみた。
関戸久興には室町幕府と檜山安東家の仲介を依頼する。
まずは室町殿に奥州産の名馬を献上して貰えるよう交渉するのだが、ゆくゆくは檜山安東家の申次にも成れれば万々歳である。
秋田安東氏の祖となった秋田の英雄『安東愛季』はまだ子供なのだが、美味しい大名家であることには違いがないだろう。
将来的には蝦夷地(北海道南部)の俵物などの交易もできればなお良いのだが……まあこれは先の話かな。
鼠屋の船に便乗させて貰い、小浜から越前の三国湊までは船旅になった。
三国湊は三津七湊の一つに数えられる越前最大の湊である。
小浜から三国湊まで船で北上し、三国湊からは陸路で南下し一乗谷の朝倉館へと向かった。
(小浜から出向の際に、思わずYES WE CANと叫んだのは内緒だ)
本来なら越前くんだりまで来る必要はなかったはずなのだ。
先に朝倉家に派遣していた清原枝賢がしっかりと朝倉家と交渉できていれば問題なかったはずだし、当主が亡くなり混乱の渦中にある朝倉家と美濃との和睦など簡単だと思っていたのだ。
だが朝倉家が美濃斎藤家の和睦に応じて来ないので越前まで出張るハメになってしまった。
実は清原枝賢ではなく朝倉家への使者は清原宣賢爺さんにお願いしたかったのだが、宣賢爺さんを越前送りにすると、老齢のため死にかねないのであきらめたのだ。
(史実の宣賢は1550年7月に一乗谷で客死してしまう。今後も何かしら理由をつけて越前への下向は阻止するつもりだ)
清原枝賢は清原業賢伯父の嫡男で清原家の現当主であり俺の従兄弟にあたる。
祖父の清原宣賢が朝倉家に招かれ一乗谷で国学の講師などをしている時に、孫の枝賢も越前へ祖父を訪ねており、朝倉家の近習などの勉強の手伝いをしていたという。
朝倉家にはコネが出来ているのだから、交渉ぐらいは簡単にできると思っていたのがダメだったようである。
まあ正直いうと清原枝賢は、一応宣賢に継ぐ名儒(儒教の偉い先生)という評価を一般的にはされているのだが、俺はこの枝賢くんはダメな子ではないかと思っている……
清原家は朝廷に家業の明経道で仕える公家であり、国学・儒学の大先生でもあるはずなのだが、後年に枝賢はなぜか『キリシタン』になってしまうのだ――マキュアンの追い込みばりに、意味が分からない。
史実では公卿の引退後に経書を講じるなど松永久秀と親しかった清原枝賢は、久秀に請われて仏僧とともに、ロレンソ了斎と宗論をおこなった。
だがロレンソに理路整然と論破され、宗論の審査役だった結城忠正や高山友照とともにロレンソに感化され受洗を受けてキリシタンになってしまうのである。
細川藤孝の嫡男である細川忠興の嫁は、明智光秀の娘でもありキリシタンとしてある意味有名な細川ガラシャ(明智玉)だ。
このガラシャがキリシタンになったのは侍女の清原マリアのせいなのだが、清原マリアはこの清原枝賢の娘だったりする。
清原マリアがキリシタンとなったのは清原枝賢のせいなので、ようするにガラシャがキリシタンになったり細川家にキリスト教が蔓延したのは清原枝賢のせいということだ。(個人のヘンケンです)
そんなあんまり信用してはいけない枝賢が一乗谷で何をしていたかというと、この野郎講師のバイトで小遣い稼ぎをしてやがった!(こいつやっぱダメだ!)
一乗谷の朝倉館で枝賢と合流した俺は早速、公方様の正使として新当主となったばかりの朝倉延景(義景)に面会を申し込んだのだが、なぜか放置プレイをかまされてしまうのであった――(俺もダメなヤツだった!)
今さら「培養法」のお話で申し訳ない
細川ガラシャの名前の方が有名ですが本来は明智玉ですね
連日更新が出来て少し嬉しいが、相変わらず物語が
進行しない……
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