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おまけ 明智光秀 解説(3)

【明智光秀 解説(2)の続き】

 ◆


遊行(ゆぎょう)三十一祖(さんじゅういちそ) 京畿(けいき)御修行記(ごしゅぎょうき)』には明智光秀について書かれた箇所があり、

惟任(これとう)方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人(ろうにん)たりしか、越前朝倉義景頼被レ申長崎(ながさき)称念寺(しょうねんじ)門前(もんぜん)に十ケ年居住故念珠(ねんごろ)にて、六(りょう)旧情(きゅうじょう)(はなはだ)に付て坂本暫留被レ申。』


 この記載で今まで採用されてきたのが、『越前朝倉義景(あさくらよしかげ)頼被』になる。

 明智光秀は朝倉義景を頼り仕えていたのだということにされてきた。

 だが明智光秀が朝倉義景に仕えていたことは近年否定されている。


 そして一番大事なものが『長崎称念寺門前に十ケ年居住故念珠』の一節である。

 明智光秀は越前の長崎(ながさき)称念寺(しょうねんじ)の門前に10年住んでいたということである。

 この称念寺は時宗(じしゅう)の寺院で当時は長崎道場とも呼ばれ日本海沿岸に勢力を持ち北陸では一番の念仏(ねんぶつ)道場として栄えていた。


 時宗では出家(しゅっけ)の僧と在家(ざいけ)の信者との中間(ちゅうかん)にあり、半僧(はんそう)半俗(はんぞく)的な存在で、『客寮(きゃくりょう)』と呼ばれる身分があり、明智光秀は称念寺ではそのような存在であり、伝説にあるように称念寺に属しながら寺子屋で子供たちに勉強を教えるなどで生計を立てていたのかもしれない。


 また称念寺は北陸で栄えた時宗の一大寺院であり、時宗といえば東山文化(ひがしやまぶんか)を支えた同朋衆(どうぼうしゅう)の母体ともなっており、茶の湯、香道(こうどう)連歌(れんが)猿楽(さるがく)など時宗は当時の文化の隆盛にも寄与している。

 明智光秀は連歌や茶の湯に通じた教養人であったというが、その教養は称念寺における10年で身につけたものであろう。


針薬方(しんやくほう)』の発見で、光秀が薬の調合に詳しく、薬の知識があるのだから医者だったのではないかという説もあるが、そんなわけはないと考える。

 この時代の医学書は漢籍(漢文)なので、漢籍が読めれば薬調合などはある程度分かる。


 この時代では医学薬学は公家や武家の一般教養であり、公卿の山科言継(やましなときつぐ)卿や西美濃三人衆の稲葉一鉄(いなばいってつ)、幕府御供衆の大和晴完(やまとはるみつ)に徳川家康などもかなりの医学薬学の知識を持っていたが、彼らは医者であったろうか? 否である。

 かなりの医学の知識はあったが彼らは公家であり武家が本分であるのだ。

 本職で専業の医者は曲直瀬道三(まなせどうさん)坂浄忠(さかじょうちゅう)など多数の者がしっかり居る。

 明智光秀の医学の知識などは連歌や茶の湯と同じく称念寺で身につけた教養の一つでしかないであろう。


 そして時宗にはもう一つ大事なものがある。

 それは『遊行(ゆぎょう)』である。

『遊行』とは、時宗の僧が諸国を行脚(あんぎゃ)して布教勧進(かんじん)することであるが、もしかしたら明智光秀もこの『遊行』を行ったのではないだろうか?

 あまりにも胡散臭い『明智軍記』に記載される、光秀の武者修行や全国の大名に会ったという話などは、『遊行』の脚色なのかもしれない。

 個人的に光秀は『遊行』をしており、その遊行中に細川藤孝に出会い、そして中間(ちゅうげん)として取り立てられた気がしているのだが、それは憶測の域を出ないものではある。


 さてさらに時代を下って、長崎称念寺門前にて10年暮らしていた前の明智光秀が何をしていたかを探ってみよう。(いい加減長くてすいません)

 また『遊行三十一祖 京畿御修行記』に戻るのだが、『濃州土岐一家牢人たりしか』の一節がある。

 やはり美濃に居たのではないかというになりそうだ……


 ここまで『明智軍記』や『美濃国諸旧記(しょきゅうき)』などの(たぐい)はあえて無視していたのだが、結局ある程度は頼る必要があるのかもしれない。

 正直いって、明智光秀が美濃に居たのか、美濃で何をやっていたのか全然分からないのである。

 まともな記録などないのだから終わりにしても良いのだが、もうちょっとだけ続けてみよう。


 ◆


『美濃国諸旧記』による系図


 明智光継┳明智光綱━明智光秀

     ┣山岸光信

     ┣明智光安┳明智左馬助

     ┃    ┗三宅第十郎

     ┣明智光久━明智光忠

     ┣原 光頼━原 久頼

     ┣斎藤道三室

     ┗明智光廉━明智光近


 明智光秀は美濃に居て、土岐明智家の一族だったと仮定して話をしてみると、

 上記の系図のような明智家の家族がいたのかもしれない。

 そしてこいつらは明智長山城に居て、明智荘を支配していた可能性が()とはいいきれない。(悪魔の証明だと思うが)


 とりあえず物語では、明智光安(あけちみつやす)が長良川の戦いのあとに、斎藤義龍に明智城を攻められ落城する。

 明智光秀は叔父の光安に明智の家名と子供らを託され、明智城を脱出し、身重の妻を背負っての油坂峠(あぶらさかとうげ)を越えて、越前国に逃れたという。

 もしかしたら叔父とかいう山岸光信(やまぎしみつのぶ)の所にも寄ったかもしれないけど、物語だからどうでもよいかもしれない。

 その後、朝倉家で500貫で召抱(めしかか)えられたというが、物語だからといって盛過ぎではなかろうか? まあ創作だからなんでもいいけどね。


 1552年に土岐明智宗家は滅んでいるようなので、その後から1556年10月に明智城が斎藤義龍に攻められるまでは、明智長山城に明智光安や明智光秀が居た可能性があるかもしれない。(どちらも史料では確認できないが)


 では1552年までの明智光秀の一族はどこにいたのだろうか?

 可能性の一つとして『奉公衆明智家』の末裔と考えるならば、1495年以降に明智玄宣の子の明智光兼が美濃に下向しているので、その末裔が美濃に居た可能性はある。

 所領を押領され土豪以下レベルに成り下がったか、土岐明智宗家に仕えたかで生き残っていたかもしれない。


 そして斎藤道三の登場により、明智光秀の一族は浮上する機会を得る。

 斎藤道三の室となったいわゆる『小見(おみ)(かた)』とその娘であろう『濃姫(のうひめ)』の存在である。

『小見の方』の名前は別として織田信長に嫁いだ女性を産んだ斎藤道三の夫人が居たのは間違いがない。

 言継卿記(ときつぐきょうき)の1569年8月1日の条に信長の「(しゅうとめ)」の記載があり、その頃までは生きていたようである。


 物語では『濃姫』は明智光秀の従姉妹で『小見の方』は叔母とされることが多いが、まったく史料では確認が取れない。

 だが、小見の方が明智光秀の一族であれば、小見の方を側室にした斎藤道三により、小見の方の一族が取り立てられた可能性はある。


 個人的には『小見の方』は正室ではないと思っている。

 物語では名族(笑)『土岐明智家』の娘だから正室だとされることが多いが、恐らくは逆であろう。

 明智光秀の一族は『小見の方』が道三に嫁いだため、道三派として取り立てられ、もしかしたら明智荘を与えられ明智長山城主ともなったかもしれないのだ。


 明智光秀が土岐明智一族であったかもしれない可能性を上げる話を一つしよう。

 それは明智光秀の妻とされる、いわゆる「妻木煕子(つまきひろこ)」の存在である。(この時代は現代の夫婦別姓のようなもので、実家の名字を名乗ります)

 妻木煕子の父は妻木勘解由左衛門(かげゆざえもん)範煕といい、土岐明智一族で妻木郷を領していた妻木家の一族ということになる。


 妻木家も系譜はかなり不明なのだが一応土岐明智家の一門であろうとは言われている。(土岐明智家が妻木郷の地頭だった)

 明智光秀が一応土岐明智の者だから、同じ土岐明智一門の妻木家から嫁を貰ったとも考えられるのだ。


 最後に明智光秀の生まれに関しても考察する。

 明智光秀が生まれた年もまったく確定はされていない。

『明智軍記』では天正10年(1582)に討死した時に55歳であったとされるので、逆算して1528年生まれとなる。

『続群書類従・明智系図』にも同じ1528年生まれの記述がある。


 肥後熊本藩主細川家の家史である『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』(細川家記(ほそかわかき))では57歳で死んだとしているので、1526年生まれとなる。

『綿考輯録』は『明智軍記』をおおいに参考にして書かれているのだが、生年が違うところは少し疑問に思うところである。

 熊本細川家が明智光秀の親族であり、光秀の遺臣(いしん)の多くが仕官していることもあり、生年に関しては何か知っていた可能性があるかもしれない。


 明智光秀の父親に関しては、光綱、光隆、光国などとする系図があり確定できるものではないのだが、明智光綱が一般的にはよく使われている。


 母親に関しては、『続群書類従・明智系図』では武田義統(たけだよしむね)の妹としているが、まずありえない。

 武田義統は若狭守護武田家の第8代当主であり家格の面からも、生年からもありえないのだ。

 武田義統は1526生まれであり、明智光秀とほぼ同年代の人物であり、その妹が明智光秀の母親ということにはなりえない。

 系図なので話を盛ってしまったのであろう。


 だが、明智光秀が若狭国と関係するような話はほかにもあったりする。

 明智光秀の父親の説として若狭の刀鍛冶(かたなかじ)藤原冬広(ふゆひろ)の次男というものが一応あったりするのだ。

 また光秀の母親が光秀の父の死後、姑(光綱母)と仲が悪くなり幼き光秀を連れ明智家を出て、侍女の伝手を頼って若狭小浜の西福庵(さいふくあん)に身を寄せたという話もあったりする。

 若狭小浜の西福庵は越前の称念寺の末寺(まつじ)であったとされ、明智光秀が称念寺を頼ったのは幼き頃の西福庵の縁であるかもしれないのだ。


 あと余談ではあるが、丹波攻略の際に光秀が老母を敵方の波多野(はたの)家に人質に出し開城させたが、織田信長が波多野家の者を処刑してしまったため、人質であった光秀の老母も処刑されてしまったという逸話は、最近では無かったことにされている。(圧倒的に勝っていたので人質にする必要がない)


 光秀が生まれた場所としては、『続群書類従・明智系図』には美濃の多羅(たら)(良)城(岐阜県大垣市上石津町(かみいしづちょう))とされている。

 ほかに有力とされるのは明知城(岐阜県恵那市明智町(えなしあけちちょう))と明智長山城(岐阜県可児市(かにし)瀬田)であるが、どこも「明智光秀生誕の地」を(うた)っている。

 恵那市明智町は『遠山明知氏』の城であり、今のところは無難に岐阜県可児市の明智荘でよいのではないかと思っている。


 長らく解説してきたが、明智光秀の前半生なんて偉い先生でも分からないのに、俺に分かるか馬鹿野郎! 以上おわり!

 最後に「ボクが考えた明智光秀の一生〜♪」を載せて逃亡しまーす。


 ◆


 奉公衆明智家の末裔が明智荘周辺のどこかに住み着く

  ↓

 明智光綱とお牧の方の子として明智荘で明智光秀が生まれた気がする

  ↓

 父っぽい明智光綱が早世(斎藤道三との戦いで死んだともいわれる)

  ↓

 母っぽいお牧の方が姑に嫌われ、子供な光秀を連れて明智家を家出する

  ↓

 侍女の伝手で、若狭国に行き、長崎称念寺の末寺である西福庵を頼る

  ↓

 お牧の方が鍛冶師の藤原冬広と再婚し、光秀は藤原冬広の養子になったかも

  ↓

 お牧の方と藤原冬広が離婚、姑が亡くなっていたのか明智家に出戻りする

  ↓

 明智光秀、叔父っぽい明智光安のもとで平和に暮らし、妻木煕子と結婚する

  ↓

 土岐頼芸が斎藤道三により美濃を追放され、ついでに土岐明智宗家が滅ぶ

  ↓

 叔母の小見の方と斎藤道三のおかげで明智家が、明智長山城主となったかも

  ↓

 長良川の戦いで斎藤道三もっくん討死

  ↓

 斎藤義龍に明智長山城が攻められ、明智家滅亡、光秀は越前に逃れる

  ↓

 西福庵の伝手で長崎称念寺(しょうねんじ)客寮(きゃくりょう)となり、寺子屋とかして10年()()()()

  ↓

 遊行(ゆぎょう)に出て、細川藤孝に出会い、中間(ちゅうげん)として拾われる

  ↓

 高島田中(たかしまたなか)城で篭城とかしてみたかも

  ↓

 細川藤孝にくっついて若狭に行ったり、越前に戻ったりする

  ↓

 細川家中では、米田求政にイジメられた

  ↓

 足利義昭に兵力がなく、細川藤孝から幕府の足軽になれと命じられたかも

  ↓

 従姉妹かもしれない濃姫の縁で信長の所へ使者としていったかもしれない

  ↓

 足利義昭の上洛に足軽として従軍、将軍護衛で何もしていないはず

  ↓

 何かの間違いで本国寺の戦いで活躍して、奉公衆に出世する

  ↓

 足利家も細川家も捨てて、従姉妹らしい濃姫のコネで織田信長に鞍替えする

  ↓

 信長の家臣として、()()()()に大出世する

  ↓

 波多野氏に母親は殺されていないはず

  ↓

 チャンスがあったので、織田信長も捨てて本能寺する、黒幕? 何それ

  ↓

 細川藤孝に捨てられ、山崎の戦いに負けて落ち武者狩りで死ぬ

  ↓

 南光坊(なんこうぼう)天海(てんかい)になってはいない

  ↓

 明智光秀のいろんな説がいっぱい出る <今ココ



 一応作中の明智光秀は、奉公衆明智家の末裔で、幼少は若狭で育ち、小見の方や濃姫は親族で、光秀の一族は斎藤道三によって引き上げられたとしています。

 明智光安などは出すかどうかは気分次第です。

 問題は明智光秀の教養の多くは、長崎称念寺の10年間で得たものと考えているので、うちの光秀くんには()()()()()()()なことである……

明智光秀解説の最終回でした

長ったらしい解説にお付き合い感謝です

最後は適当に逃げてますが

明智光秀と若狭の繋がりは結構マジかと考えてます


さて次回は越前編なのだが、

今現在は越前と関係ない解説ばかり書いている気がする

さくっと終わらせたいのに越前回終わるのだろうか……


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