おまけ 明智光秀 解説(2)
例の如く本編とは余り関係ないおまけの解説なので読み飛ばしても大丈夫です
系図が崩れる場合がありますのでスマホの場合は画面表示を横にして見てもらえると助かります
【明智光秀 解説(1)の続き】
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だが、これでは『明智光秀』の解説にはならないので、明智光秀が記載されている、かなり胡散臭い系図類に手を出さざるを得ない。
とりあえず明智光秀記載の系図としては以下のようなものがある(一部抜粋)。
『明智氏一族宮城家相伝系図書』
明智頼弘┳明智光継┳明智光綱━明智光秀
┣明智頼定┣明智光安┳三宅光俊(明智光春・明智秀満)
┣石森頼敏┣明智光久┗三宅光景
┗明智光鎮┣明智光広
┗明智光廉
『続群書類従・土岐系図』
明智頼弘━明智頼定━明智頼尚┳明智頼典━明智光圀━明智光秀
┗明智頼明━明智定明━土岐定政
『続群書類従・明智系図』
明智頼尚━明智頼典━明智光隆┳明智光秀
┣信教(筒井順慶)
┗康秀(三宅弥平次)
『系図纂要』
頼兼の7世・明智光継┳明智光綱━明智光秀
┣明智光安━明智光春
┗明智光久━明智光忠━明智光近
はい、全部胡散臭い! もう無理! これ全部創作です。
明智光秀なんて、土岐明智一族なんかじゃありません、以上! 終り!
と言ってしまいたいほど、めちゃくちゃにしか思えんのだわ……
でもめげずに解説をしなければならないだろう。
まず『明智氏一族宮城家相伝系図書』だが、『明智頼典』を『明智光継』として、一般的に知られる明智光秀の一族を繋げている。
『明智頼典』は義絶の上、廃嫡されているので繋げやすかったのかもしれないが、頼典と光継を同一人物にするのはどうかと思う。
つぎの『続群書類従・土岐系図』も同じで『明智頼典』の子に『明智光圀』という光秀の父を置いている。
その次の『続群書類従・明智系図』は語るのもアホらしい出来なのだが、『明智頼典』の子に『明智光隆』という光秀の父を置いている。
問題なのは光秀の弟たちであり、筒井順慶とか三宅弥平次(明智秀満)などがおり、多分この系図は記憶から消して良いレベルです。
一応擁護すると明智光秀の娘が筒井定次の妻になっている説や同じく娘が明智秀満室になっている説があるので、何か間違えたと好意的に解釈してみよう。
最後の『系図纂要』は、無理やり誰かに繋げることをせず、諦めがよくて潔い系図だね。
一般的に知られる明智光秀の一族だし、なんとなく好感が持てます。(苦笑)
結局のところ系図類から明智光秀を土岐明智家の者とするのは、かなり無理があると思います。
明智光秀の父として、明智光綱、明智光圀、明智光隆と三種類あり、胡散臭いどころではないのである。
正直いって明智光圀、明智光隆の名は忘れて良いと思います。
あと、『明智頼典』に無理やり『明智光秀』系を繋げるのはいいかげん胡散臭過ぎるので諦めたほうが良いと思われる。
たしかに『明智頼典』は実在しているのだが、廃嫡されたことをいいことに、そこに繋げるのは作為以外の何ものでもないだろう。
……もうダメだぁ、ここまでやっても『明智光秀』と『土岐明智家』が繋がる気がしねえ!
でも諦めない人も居たりする。
マンガ「信長を殺した男」や「光秀からの遺言」、「本能寺の変431年目の真実」などで最近有名な「明智憲三郎」氏である。
むろん私も読んだし、一部は多いに参考にもしている。
「明智憲三郎」氏は『奉公衆明智家』説を採っている。
結局のところ『寛永諸家系図伝・土岐』系図と『尊卑分脈』の系図とを繋げることをやっているのだが、いまのところ多少無理を感じる。
ただ、『奉公衆明智家』の特に明智玄宣の研究には力を入れており、「明智憲三郎」氏の説には期待もしている。
一応『奉公衆明智家』にしは、『明智光秀』が居たかもしれないという可能性を感じるので、私も『奉公衆明智家』を追いかけてはいる。
「明智憲三郎」氏の系図とは違うのだが、一応可能性として自分が考えている系図を下記に掲載するので、与太話の一つとして見てくれれば嬉しい。
あくまで趣味で作っている系図ですので鵜呑みにはしないで下さい。
それと相変わらず見にくくてすいません。画像を選択してリンク先に飛び、画像を大きくすれば見れると思います。(手間をかけさせてすいません)
あと今さらなんですが、3つ目の「明智家」などもあったりします。
遠山七頭のひとつの『明知遠山氏』である。
いわゆる『明智城』といわれる城は岐阜県可児市瀬田長山の『明智長山城』と岐阜県恵那市明智町の『明知城』(白鷹城)の二つがあったりする。
岐阜県恵那市明智町の『明知城』もなぜか大々的に、明智光秀生誕の地とか謳っているので、あまりおおきな声では言えないのだが、それ無理! 無理がありすぎる。
『明知遠山氏』は遠山氏だから。
一応、明智光秀の叔父の明智光安(宗寂)と明知城主遠山景行(宗叔)の同一人物説とかもあるのだが、コジツケご苦労様である。
ちなみに『明知遠山氏』は甲斐武田家に滅ぼされたり、金森長近と戦ったりしながらも戦国をかろうじて生き延び、江戸幕府の旗本交代寄合として存続し、血縁ではないが子孫には、かの『遠山の金さん』のモデルである北町奉行の遠山景元が居たりする。
◆
さていい加減系図のお話は終りにして別の角度から『明智光秀』を解説しよう。
明智光秀の動静が確実に分かるのは、永禄12年(1569)1月5日に三好三人衆や斎藤龍興らが京都の本圀寺を仮御所にしていた足利義昭を攻めた「本国寺の変」(六条合戦)である。
この戦いでは明智光秀は近江・若狭の国衆らと本国寺を防戦し、援軍もあり本国寺の防衛に成功している。
明智光秀は幕府の足軽衆として参加し功をあげ、戦後に奉公衆へと取り立てられたと思われる。
本国寺以前の動静としては、『大武鑑・巻之1』に修められている『永禄六年諸役人附光源院殿御代当参衆並足軽以下集覚』の後半部分に足軽衆として『明智』の記載がある。(光源院殿=足利義輝)
ちなみに同じく足軽衆に記載されている『柳澤』は柳沢元政であり、奈良御供衆のところには米田源三郎(求政)が居るし、『松井』が三名記載されているが、そのどれかが松井康之だと思われる。(細川藤孝は御供衆にいるが、松井康之も米田求政もまともな幕臣の地位ではない。松井康之や米田求政が代々将軍家に仕えたことには疑問がある)
『永禄六年諸役人附光源院殿御代当参衆並足軽以下集覚』は番帳、ようするに幕臣の名簿であり、前半部分が永禄六年に足利義輝が生存している時に作られ、後半部分は越前に居た頃の足利義昭が付け足したものといわれている。
足利義昭の時代に明智光秀は足軽をやっていたのである。(幕府の足軽なので、一般的な足軽よりは上)
また光秀の史料として、ここ最近の新しい史料なのだが、『針薬方』というものがある。
これは米田貞能(求政)が永禄9年(1566)10月20日に近江の坂本で書き写したとされるもので、その内容は沼田勘解由左衛門尉が高嶋田中城に篭城中の明智十兵衛尉から聞いた薬の調合になっている。
ようするに1566年10月20日より前に明智光秀が高嶋田中城に篭城しており、沼田勘解由左衛門尉と親しいことが分かる。
この沼田勘解由左衛門尉とは『沼田清延』のことであり、若狭熊川城主『沼田光兼』の子で幕府の奉公衆であり、なんといっても細川藤孝の妻である『沼田麝香』の兄にあたり、のちには熊本藩士沼田家の初代になる人である。
バリバリの細川藤孝関係者と言ってよい。
このころの沼田家は1560年に父の『沼田光兼』が没しており、長兄の『沼田上野介光長』は1565年の『永禄の変』で足利義輝とともに討死し、家督は次兄の『沼田弥七郎統兼』が継いでいると思われる。
弟の『沼田清延』は細川藤孝と行動を共にしていたのではないだろうか?
そこで、問題になって来るのが、明智光秀が細川藤孝の家臣や中間であったという数々の証言である。(中間は足軽の下、小物の上の身分)
『老人雑話』には、「明智始め細川幽斎(藤孝)の臣なり、幽斎の家老米田助右衛門(求政)など悪くあたられたので堪えきれず信長に仕えた。信長の元では丹波一国50万石、近江10万石を得た。明智常々米田なりのお蔭といっていた」とある。(嫌味くさい)
『武功雑記』にも、「明智という者は、本来は細川幽斎(藤孝)の家来なり」との記載がある。
『多門院日記』にも光秀は細川藤孝の中間だったのを信長に引き上げられたとの記載がある。
ルイス・フロイスの『日本史』では、「明智光秀はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には公方様の一貴人、兵部大輔(細川藤孝)と称する人に奉仕していた」とある。
同時代でコレだけの証言があるのだから、幕府に足軽として属する前に明智光秀が細川藤孝に中間として仕えていたのは、ほぼ間違いがないのではないだろうか。
では細川藤孝に中間として仕える前の明智光秀はどこで何をやっていたのだろうか?
その鍵は『遊行三十一祖 京畿御修行記』の一節になる。
◆
【明智光秀 解説(3)に続く】
明智光秀の解説が続いて申し訳ないです
本編次話も書き出していますので、あと1回だけ
お付き合いお願いします
画像の系図は見にくくてすいません
画像加工の技術不足です
あとなぜか竹中半兵衛もいますが気にしないでくださいw
感想とか、評価とか
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