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第四十一話 固形石鹸をつくろう(2)

【固形石鹸をつくろう(1)の続き】

 ◆


 御料所となった大垣であるが、全体の管理責任者は実父の三淵晴員(みつぶちはるかず)ということにしてある。

 さすがに若年であるので俺はそこまでしゃしゃり出ていない。

 父は大御所の信頼の厚い側近でもあるので、ほかの幕臣に対しても角がたたず、むろん実父なため俺も全幅の信頼がおけるから適任だったのだ。


 三淵晴員は大御所に近侍しているため、兄の三淵藤英(みつぶちふじひで)が父の代理という形で大垣に来ている。

 御料所の代官には奉公衆である淡路細川(あわじほそかわ)家と三淵家、千秋(せんしゅう)家、飯河(いいかわ)家、荒川(あらかわ)家、大和(やまと)家、小笠原(おがさわら)家、斎藤(さいとう)家などをあてている。

 大御所と公方様のコネを最大限活用してほぼ身内で固めたというわけだ。(斎藤家は利三の父の斎藤利賢(としかた)


 ほかには元々大垣に地盤のある斎藤家(土岐家)の国人領主もそのまま代官を任せたりもしている。

 竹腰重直や安藤守就であるが、かの者らは斎藤道三(土岐家)の家臣であり、将軍家の直参(じきさん)ではない。

 大垣を一方的にむしり取りたいわけではないので、斎藤家の利権も残して友好を築くためでもあるのだ。


 織田家についても大垣城代であった織田信房(おだのぶふさ)殿に一部代官職を担ってもらった。

 これも織田家との友好のためである。

 主に在地の寺社領の代官などをお願いしている。


 これから取り急ぎ、美濃・尾張の和睦の儀(手打式)と斎藤・織田弾正忠家との婚儀を(もよお)すわけであるが、式典などは本気でクソ面倒くさいので大和晴完(やまとはるみつ)殿に丸投げした。


 式典を丸投げするために有職故実(ゆうそくこじつ)に詳しい大和刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)晴完殿を代官に任命することで懐柔(買収)して連れて来ているのである。

 この時代の奉公衆は各地で領地を押領(おうりょう)されまくっているので、新たな御料所の代官職はとても美味しい役職なのである。

 大和晴完殿は喜んで引き受けてくれた。


 この大和晴完だが、1604年(慶長9年)に死んだとされ、恐ろしいことに106歳までクソ長生きしたのである。

 山科言継(やましなときつぐ)とも親しく「言継卿記(ときつぐきょうき)」には医学薬学に精通した幕臣として登場している。

 また、細川藤孝の叔父である飯河秋共(いいかわあきとも)猿楽(さるがく)の師匠でもあり、かなりの教養家なのである。

 礼法家としても後世に武家故実(ぶけこじつ)の史料を数多く残しており、身分による来客の対応方法から手紙の書き方の作法、戦場での陣幕(じんまく)の張り方の作法に勝鬨(かちどき)の上げ方など、恐ろしく多岐に渡る知識を身に着けたりもしている。


 大和晴完は大和家では嫡流ではなかったようだが、幕府内で奉公衆(ほうこうしゅう)として歴代の将軍に近侍し、走衆(はしりしゅう)から御部屋衆(おへやしゅう)へと、さらには申次衆(もうしつぎしゅう)御供衆(おともしゅう)と順調に出世の階段を登っており、主に幕府の外交や典礼の面で活躍していたようである。(足利義栄(あしかがよしひで)にも仕えてしまったようでそこだけは失敗している)


 室町幕府の崩壊後には、豊臣秀吉に有職故実の質問をされるなど重宝され、また息子のために毛利家に自ら赴いて仕官運動を行い、子孫は萩藩士(はぎはんし)として存続しており、家の生き残りにも長けていた。

 大和晴完は一般的な知名度はまったくないのだが、政治・文化の両面で活躍した、いわゆる化け物爺いの類いなのだ。(この時はまだ50歳前だが)


 叩き上げの実務家であり、室町幕府においては間違いなく有能な部類に入る御方なので、俺としては是非とも仲良くしたいのである。

(謎の数字として、この人には政治90以上あげてもいいと思っている)


 まったくもって余談だが、大和晴完の名字は祖先が大和守(やまとのかみ)の官位を代々受領したことから取られているのだが、この人の一族が相模(さがみ)の後北条氏に仕えており、その館がその地にあったがため、神奈川県の大和市(やまとし)の由来になっていたりする。

(後北条氏の家臣となったのは大和佐渡守(さどのかみ)家で北条早雲が幕府の同僚だった大和家を招いたと思われる)


 式典については、大和晴完殿にメインの差配を全て任せて、尾張方は平手政秀が手伝ってくれており、美濃方は竹腰重直殿も手伝ってくれているので、俺が特に何もしなくても問題なかったりする。

 式典などは、てきとーに無難にやっておけばよいのだ。(逃げ)


 式典を人任せにした俺は、その間にやりたいことをやっていた。

 まずは御料所での農作業の準備である。

 兄の三淵藤英を中心に代官として連れて来た、千秋晴季、飯河秋共、荒川晴宣、小笠原稙盛、斎藤利賢らに農法を教え込んでいた。


 種籾の塩水選(えんすいせん)や消毒のやり方、苗の移植栽培法や原肥としての草木灰の使用方法、田植縄を使った正条植え(せいじょう)のやり方に合鴨(あいがも)農法などを教えていたのである。ようするに農業知識チートの基本技だ。

 別に金には困ることはないのだが、兵糧の確保はやっておいた方が良いだろう。


 農作業についてある程度教えたあとは荘園の管理は彼らに任せて、俺はまた別のことにも手を出していた。従兄弟で津島(つしま)に影響力を持つ平野長治(ひらのながはる)を通して、とあるものを手に入れていたのである。

 

 手に入れたものは――()()()()()だ。


 ◆


 オカヒジキは山形県の置賜(おきたま)地方(山形市と米沢市の中間の南陽市あたり)などで食される伝統野菜である。

 置賜地方におけるオカヒジキの栽培は江戸初期から始まったとされる。

 

 本来オカヒジキは海岸や砂浜に自生する植物であり、最上川(もがみがわ)でつながっていた庄内(しょうない)地方からその種が運ばれ、なぜか内陸の置賜で栽培されるようになったという。

 ヒジキと似ており陸地に自生することからオカヒジキと名付けられたようである。

 

 食感はシャキシャキしており、お浸しやサラダとして食べられるが、おすすめの食べ方は天ぷらだったりする。

 だが、今回オカヒジキを入手した目的はむろん食用ではない。


 このオカヒジキは海岸に自生しているのだが、大垣を手に入れたことにより伊勢湾と繋がる流通路の確保が出来たため、安定して入手することができるようになったわけだ。

 伊勢湾地方ではオカヒジキはあまり食されてはいないようなので、比較的安価に手に入るのも嬉しい限りである。(室町以前ではオカヒジキはあまり文献には載っていないので食用として普及はしていないものと思われる)


 以前石鹸の話しをしたことを覚えているだろうか?

 固形石鹸を作るためには海が必要なのであるが、それは固形石鹸の元になる「バリラ」という対塩性の陸上植物である「塩生植物(えんせいしょくぶつ)」が海岸に自生しているためなのだ。

 日本における「塩生植物」といえば、このオカヒジキがそれである。


 オカヒジキなどの塩生植物を燃やして灰にするとソーダ灰、現代でいうところの「炭酸ナトリウム」が手に入る。

 バリラを海草灰や海藻灰と約することもあるのだが、本来の原料としては塩生植物灰になる。


 そして今俺が居るところは大垣であるのだが、大垣の北西には金生山(かなぶやま)という山がある。大垣を御料所とした際に、斎藤道三との交渉で金生山を領有する権利を確保しておいた。

(砦を造るという名目で確保してある。一応カモフラージュで砦は造るつもり)

 

 むろん山なので、メープルシロップのためのカエデの確保という意味合いもあるのだが、この金生山には江戸時代に美濃国赤坂の「美濃灰」と称された、良質の石灰岩(せっかいがん)大理石(だいりせき)などが掘れる鉱山があるのである。

 しかも露天掘りで掘れるので比較的安価で簡単に石灰岩を手に入れることができるのだ。


 石灰岩は砕いて高温で焼くことで生石灰(せいせっかい)、いわゆる「酸化カルシウム」になる。(生石灰は人体には有害なので取り扱いには注意しよう)

 生石灰に水を加えると消石灰(しょうせっかい)、「水酸化カルシウム」が生成される。

 消石灰はかつて学校で使うライン引きの粉として使われたり、現在では牧場や農場で靴底の消毒用に使われたりしている。(消石灰も取り扱いは危険であり、最近はライン引きの粉には使われていないらしい)

 

 これら「水酸化カルシウム」と「炭酸ナトリウム」を水に混ぜて加熱することにより、「水酸化ナトリウム」いわゆる「苛性(かせい)ソーダ」が手に入る。

 工業化以前に苛性ソーダを作成する古法であり、「ソーダ灰苛性化法」という手法だ。

 

 大垣は河川で伊勢湾と繋がりオカヒジキの入手が容易で、後背には石灰岩を産する金生山があり、固形石鹸をつくるための材料が揃っていたりするのである。

 これが大垣を御料所として手に入れたかった理由でもあるのだ。

 石灰岩については実はまだ他の使いみちもあったりするのだが、それはまた後のことになる。


 むろん大垣の御料所化の目的は石鹸作りだけではない。

 周辺国の紛争化を阻止し、美濃国の安定を狙ったいわゆる「国連停戦監視団」みたいなものである。

 大垣周辺は江北の京極家(浅井)、江南の六角家、尾張の織田家など美濃へ侵攻する場合には多くが大垣方面から美濃へ侵攻している。

 それに大垣の西にはあの関ヶ原もある。太古の「壬申の乱」から始まり「承久の乱」、「関ヶ原の戦い」など、とにかく日本史上に名高い戦いが多く行われ、非常に難しい地域なのだ。


 だがそれは逆に言えば大垣は交通の要衝ということでもある。

 この時代には近江と美濃とを結ぶ九里半街道、中山道なども大垣周辺を通り、戦乱が無ければ街道は経済活動の動脈たりえるのである。

 京から、近江、美濃、尾張へと繋がる経済圏の安定確保はとてもおいしいものとなろう。


 さて固形石鹸の話しになるのだが、ヨーロッパでは12世紀ごろから地中海地方で固形石鹸の生産が始まったとされる。

 フランスではマルセイユが石鹸の一大生産地となり「マルセル石鹸」がのちに高級石鹸の代名詞ともなった。


 この「マルセル石鹸」だが植物油(オリーブ油)とソーダ灰(炭酸ナトリウム)から作った苛性ソーダから作られている。(年代により製法は変わるらしい)

 マルセル石鹸の原料であるオリーブオイルは日本では手に入らないので、とりあえず試作品はツバキ油で代用することにする。

 コストの面から固形石鹸を量産化する際には、廃油を使うことになるだろう。


 固形石鹸の作成方法は簡単に書くと以下のような工程である。

 ツバキ油と苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)をよく混ぜる。

 よく混ぜながら釜で炊いていくと、「鹸化(けんか)」の反応が起こり石鹸水ができる。

 出来た石鹸水に塩水を加えてさらに混ぜると、「塩析(えんせき)」の効果で石鹸と水とが分離し、石鹸だけが取り出せるというわけだ。

 あとはその石鹸を型に入れて冷ませば、現代でも見慣れた固形石鹸の出来上がりである。


 ◆


 大垣城の庭で釜を使って少量の鹸化の実験をおこなっていたのだが、米田求政に声を掛けられた。


「与一郎様、客人でございます」


「源三郎、すまぬが今は手が離せぬのだ。客人はどなたであるか?」


「はっ、明智十兵衛(あけちじゅうべえ)と申す者にて、斎藤道三様より若殿の手伝いを命じられたとの由にございます」


「は? 明智十兵衛だと?? アチチチっ」


 明智十兵衛ってあの明智光秀だよなぁ……マジか。

 

「与一郎様大丈夫でございますか?」


「ああ大丈夫だ。すまんが客人には失礼のないように、ここに呼んで待って貰えるよう伝えてくれるか?」


「はっ」


 固形石鹸を作るための材料である、苛性ソーダは劇物なので取り扱いには注意をしなければならない。

 試作を始めてしまったから手が離せないのだ。


「与一郎様、客人を連れて参りました」


「明智十兵衛光秀と申します。お目通りを感謝いたします。斎藤道三様に兵部大輔様の手伝いを命じられて参りました。何なりとお申し付け下さい」


「申し訳ござらぬ明智殿、作業中にてこのままで失礼いたす。細川兵部大輔です。手が離せぬゆえしばらくお待ちいただけますかな?」


「ははっ、お忙しいところに突然伺い申し訳ありませぬ、こちらで控えさせていただきます」


「申し訳ない、すぐに終わりますので」


 少量だからもうすぐ鹸化の反応も終わるだろう。

 早く明智光秀と話しがしてみたいのだが、もどかしいものである。

 さっさと終わらせてしまおう。


「源三郎、すまぬが手伝ってくれるか?」


「与一郎様は先ほどから一体何をしておいでなのですか?」


「石鹸を作っているのだ。液体の石鹸は以前に作り方を教えたであろう。今度の石鹸は持ち運びや保管にも便利な固形の石鹸を作っているのだ」


「はあ、あいかわらず、与一郎様の知識には驚くばかりです。それでこれをかき混ぜておればよろしいのですか?」


「ああ、もうすぐ鹸化の反応が終わって、石鹸水が出来るからもう少し混ぜていてくれ」


「与一郎様、是非ともあとで詳しく作り方を教えてくだされませ」


 米田源三郎は漢方薬や硝石(しょうせき)の時もそうなのだが、俺が作る物に興味を持ってくれるので大いに助かる。

 手伝いも率先してやってくれるしな。


「大変申し訳ありませぬ。今、石鹸と申していたようですが、それは京の医家にて最近はやりのものでありますか?」


 待ってもらっていた明智光秀が興味ありげに声を掛けて来た。


「明智殿は石鹸をご存知でありましたか?」


「はい、京から美濃へ参りました医学に通じた者から一度見せていただいたことがあります」


「恐らくそれは壷にでも入った水のような石鹸ではありませんでしたか?」


「はい。大変貴重なものと言われ、使わせては貰えませんでしたが水のようなものでありました」


「明智殿、実は石鹸を作っているのは我々の医家の集まりなのです。興味がお有りのようですので、お待ち頂ければ今作っている最新の石鹸を差し上げましょう」


「非常に嬉しきことですが、よろしいのですか?」


「これからこの美濃で石鹸を商おうと思っておりますので、試作品ですがお渡ししましょう。宣伝くだされば我々も助かりますし、道三殿にもお持ち下さい」


「与一郎様、釜の方を見てくだされ、大分出来上がっているようでありますぞ」


「ああ、ではそこの桶の水を混ぜてくれ、それを入れてかき混ぜれば石鹸が分離するので、(すく)い取ってその型枠に流し込めば完成だ」

 

 桶に入れてあるのは塩水である。

 型枠に流しこんだあと本来であればしばらく時間をおいて熟成させるのだが、試作品だからとりあえず固まればよいや。


「十兵衛殿、今作っているものは固形石鹸といって固まった物になりますのでさらに便利な代物なのです。もう少しで固まりますので使い方などを教えましょう」


「私などに教えていただいてよろしいのですか?」


「十兵衛殿は土岐明智家の方でありましょう? 道三殿の重臣の方に石鹸の良さを知っていただければ、この美濃で石鹸を商うことが捗りましょう」


「恐れながら、それがしは明智とはいえ傍流の出、道三様にはお引き立ていただいておりますが、それは私が小見の方様や帰蝶様の縁者であるためだけのこと。重臣などという大層な身分ではありませぬ」


 ああ、明智光秀の出自にはたしかいろいろな説があったと思うが、土岐明智家の嫡流とかではないということかな?

 でも明智光秀だからなあ、恐らく有能だろうし仲良くしておいて損はないだろう。


「帰蝶様の縁者ということでしたら、道三殿には帰蝶様の婚儀の準備の手伝いを命じられたのでありますかな?」


「いえ、道三殿には兵部大輔様は忙しき方ゆえ、兵部様が美濃に滞在の折には何用でも手伝うよう仰せつかっておりまする。それと婚儀につきましては竹腰摂津守(重直)様を手伝いに向かわせるとのことでありました」


 何でも手伝うねえ? 道三は光秀に俺の監視でもさせる気だろうか?


「与一郎様、型枠にすべて流し込み終わりましたぞ」


「うん、では固まるまでお茶にでもしようか。茶菓子を出しますゆえ十兵衛殿も是非ご一緒にいかがですか?」


「はい、お誘いいただきありがとうございます。是非ご一緒させてください」


 恐らく産業スパイにでもなるのかもしれないが、せっかくの明智光秀だからな。

 割り切って仲良くすることに決めた。

 とりあえずもみじ饅頭とか食わせて美味い物で懐柔してみようとか思うのである。

大和晴完とか誰も知らないマイナー武将の話やら

今さら使い古された石鹸の話しでマジすまんこってす

次こそは明智光秀の解説をするはずである


話をうまく繋げることができずにまたスランプでござる

書きたいことはあるのだが、流れが上手く作れない

やはり物書きとしての技術が圧倒的にたりんな


まあでも書くのは楽しいので、ボチボチ書いていきます

のんびりお付き合い頂ければ嬉しいです

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 消石灰と生石灰と取り違えてる気がします。 ライン引きで使っていたのは消石灰です。 今は、炭酸カルシウムらしいですが。 生石灰は、水を加えると発熱するヤバいやつです。
[一言] 石鹸かガラスは西洋では結構古くから利用されているのですよね。 日本では油が貴重であったことから広まったのは明治以降だったようですが。
[一言] 明智光秀は細川幽斎と切っても切り離せない(1582年6月頃まで)関係だからね。 きっとこの作品でも主要人物となるんでしょう。
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