第三十九話 信長上洛(2)
【信長上洛(1)の続き】
◆
建仁寺で信長殿と別れて我が心のオアシスである慈照寺の東求堂へと向かう。
久々に義藤さまに逢えるので、なんとなくスキップでもしたくなる気分だ。(馬で向かってますが)
数ヶ月ぶりに逢う我が主の義藤さまは元気にしているだろうか?
そういえば、前のようにまた何かを変に拗らせていたら困るのだが……
「藤孝! よくぞ戻った大儀である!」
おや? 意外と元気というか凄く元気だ。
「ただいま戻りましてございます。公方様には息災のようで何よりであります」
「そんな堅苦しい挨拶は良い。早くこちらへ参れ。そこでは話もままならぬわ」と言って、東求堂の中にサッサと入ってしまう。
従者としてついて来させた米田源三郎たちを庭に残して、慌てて後を追い東求堂へ入る。
「まずは無事に戻ってくれて嬉しく思うぞ」満面の笑みでお出迎えされた。
「私の戻るところはいつでも義藤さまが在わすところにございます。あとこれは尾張土産のういろうです」
「う、うむ。せ、せっかくだから頂くとするぞ」何か赤くなって照れておる……やはり可愛いのう、心が和むのう。
「できればゆっくりと出先であったことなどを語りたいところではございますが、事の次第を文にて報せましたとおりでありまして、斎藤家と織田家の和議の件で急ぎ協力をお願いしたくあります」
「うむ、織田の嫡男のうつけ殿が上洛してくれたとのことであったな。両家が大垣なる所を御料所として寄進することも、織田の嫡男の上洛も大御所はいたく喜んでおる。悪いようにはなるまいと思うぞ」
大御所はともかく義藤さまは大垣とかどこだか知らないなこりゃ。
「大垣の所領は幕府の財政の改善に少なからず貢献できるかと思われます。出来ればそれに見合うだけの栄叡を両家に対し示して頂きとうございまする。幕府の調停力を示すことにもなり、また幕府に忠義を尽くすことの意義を示すことにもなりましょう。大御所や幕臣らに対して公方様からもお口添えをよろしくお願い致しまする」
意義というか見返りだな。
幕府に尽くすとこんなにも優遇されますよー、と宣伝したいのである。
「相分かった。そのういろうとやらを食したら一緒に大御所の元へ参ろうか。そなたから経緯を大御所に直接説くのるが早いであろうしな」
「分かりました。とりあえずお茶でも入れましょうか」政より美味しい物の方が大事なのが義藤さまである。偽造した尾張土産を幸せそうに食べる義藤さまを見て心が和むのであるが偽造した土産なので少し心が痛んだりもしている。
その間、外では米田鬼軍曹と筋肉馬鹿の松井新二郎が、鍛錬の談義で暑苦しく語り合っていたようだが、今はどうでもよいことなのでスルーしておこう。
政所執事の伊勢伊勢守貞孝などから慎重論も出たりはしたが、結論としては大御所と何より公方様の意向が重視され、斎藤家と織田家に対して大盤振る舞いに近い扱いが執られることになった。
何より押領されまくる世紀末状態でヒャッハーなこのご時勢に新たなる御料所を寄進し、国衙領などのこれまでの未納分として進物や銭を納めた両家の忠義が認められたのである。(このために両家を説得して納めさせた)
まあ裏では俺が自腹を切って近衛家や幕臣にワイロを渡して、同意する意見を出させたりもしていた。
現在の幕府の後見人である六角定頼もついでの細川晴元も、土岐頼芸の縁戚であるため表立って反対はしなかったことも有利に働いた。
六角定頼は美濃の安定を、婿である土岐頼芸の地位の安定を考えたのであろう。
こうして斎藤道三も織田信秀も間違いなく満足できる結果を得ることができた。
土岐頼芸は美濃守護職に正式に再任されることになり、斎藤利政(道三)には従五位上越前守への官位が奏上され、美濃の小守護代(守護又代)として美濃守護を任されることとなった。(守護代不在なので実質守護代扱い)
織田弾正忠家は奉公衆に取り立ての上、尾張海東郡の郡主扱いとされ、織田信秀は御供衆にも任ぜられることになった。
嫡男の織田信長には明後日に謁見が許され、正六位上弾正大忠への官位も奏上される。
ついでに尾張守護の斯波家から織田弾正忠家を取り上げるようなものなので、斯波家の嫡男である岩竜丸には将軍足利義藤の「義」の一字拝領がされることになった。
室町殿(将軍)からの正式な奏上であるので、斎藤・織田弾正忠両家の任官は禁裏には問題なく認められるであろう。
主上(後奈良天皇陛下)は献金での売官は嫌いな御方だが、室町殿からの正規の手続きでの任官にまで文句を言い出しはしないだろう。
それに織田弾正忠家は従前からの献金で禁裏での評判も良いし、念のため近衛家に付け届けもしておいたので問題ないであろう。
また越前に遣わしていた、従兄弟の清原枝賢から報せが届き、越前守護の朝倉孝景が亡くなったことを大御所へ伝えた。
恐らくどこの情報よりも早かったはずである。(そのために越前に張り付けておいたのだ)
朝倉孝景はこの3月22日に波着寺参詣の帰途において急死したといわれている。
これにより急遽家督を相続することになったのは孝景の唯一の男子である朝倉孫次郎延景になる。
越前朝倉家を滅亡に追いやった、のちの朝倉義景である。
朝倉義景は細川藤孝の1歳年長であり、朝倉家は弱冠16歳の若い当主を迎えることになる。(信長と藤孝は同い年)
朝倉義景と土岐頼純は従兄弟の間柄にはなるが、その頼純も今はもう亡き者となった。
朝倉家と縁が希薄となった美濃に介入する理由は最早無くなったと言ってもよい。
報復としての侵攻は可能であるが、朝倉家は当主の急逝による混乱の渦中にあり、幼年の当主への代替わりでもあるのだ。
誰が好き好んで外征などするのだ? この状況で外征とかアホの極みである。
この何故か絶好のタイミングで、朝倉家と土岐頼芸との和睦の斡旋仲介をするわけである。
朝倉家に遣わしていた清原枝賢は過去に祖父の清原宣賢と共に越前に下向したことがあり、朝倉家と縁を持っていたりする。
その枝賢から、土岐頼芸と斎藤利政が剃髪出家して責任を表し、朝倉家との和睦を幕府に願い出ている旨を伝える手筈なのである。
大御所は朝倉孝景の急な訃報に驚き非常に残念がっていたが、越前の情勢にも明るいことを示した俺に、さらなる越前の情報収集と朝倉家と土岐頼芸との和睦を急ぎすすめるよう指示を出して来た。
朝倉家は葬儀やら家督相続の混乱やらが収まれば代替わりの挨拶使者を幕府へ出すことになり、早晩美濃との和睦も呑むことであろう、実に楽な仕事である。(この時はそう思っておりました……)
あとは明後日に決まった、織田三郎信長の拝謁が上手くいけば問題なしであろう。
◆
公方様と大御所と、幕臣達が居並ぶ慈照寺の常御所にて織田三郎信長の御目見えの儀が執り行われた。
織田弾正忠家は奉公衆への取り立てが決まったため、信長は直臣の嫡男の御目見えとしての形式での謁見となったわけだ。
いわば身内の家臣の謁見なので簡易で済むというか、費用をかけなくても良いのである。
それに政所執事殿も細川晴元も六角定頼も、織田弾正忠家に何度も大仰な謁見などさせたくないという思いがあったりもする。
御目見えの場に現れた信長殿は、折烏帽子に直垂の装いでビシッと決めた見事な好青年なる姿であった。
うん、誰だお前は?
思いっきり貴重な折り目正しい信長殿を眺めていたい気分ではあるが、俺にはお役目があるのであった。
「これなる者は織田備後守(信秀)の嫡男、織田三郎信長に相成ります。公方様、大御所様にあらせられましては、お見知りおきの上お引き立ての程、宜しくお願い奉ります」
本日の御目見えの司会進行にて、信長を公方様に紹介するのは俺だったりする。
「源左中将義藤である。苦しゅうない面をあげよ」
「はっ!」
殊勝な信長を見れるとかほんま貴重じゃね?
「織田備後守の名代としての上洛、誠に大儀である。備後守によるこたびの寄進はまさに忠義の仕儀である。その方も我が奉公衆の一員となり、これよりは幕臣として励むが良い。直答を許すゆえその心意気を述べるが良いぞ」
「公方様の仰せである。お答え申せ」(信長殿に偉そうに告げるとか恐れ多いな)
「この三郎信長。公方様の忠臣として幕府に仇なす者どもを治罰することをここにお誓い申し上げまする」
「その言や良し! 織田弾正忠家の厚き忠義を期待いたす――」
こうして織田信長の公方様に対するお目見えの儀は無事に終わった。
特に問題も無く終り安堵してしまい……見事に油断してしまったのだ。
そう問題はここから起こったりする、相手はあのうつけの信長殿であるのだから。
ラブコメが書きたいのだが、最近書いてなかったから
書けなくなってしまった
ラブがコメってるマンガでも読んで修行するかなぁ
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