第三十九話 信長上洛(1)
天文十七年(1548年)4月
織田信長は馬廻りを200人ほど連れて上洛するという。
その準備があるため信長殿とは大垣城で合流することになり、我らは先に美濃へ戻ることになった。
美濃に戻った我らは稲葉山城にて斎藤道三と面会し、織田弾正忠家の嫡男であり道三殿の娘婿となる織田三郎信長を従えて上洛することになった旨を伝えた。
道三殿は非常に興味を示し、「面白いな儂も一緒に上洛しようぞ」などと言い出したのであるが、マジで丁重にお断りした。
織田信長と斎藤道三とが一緒に上洛するとか間違いなく俺の胃が死ぬ。
信長だけでもしんどいのだ勘弁してください。
「せめて儂の娘婿となる男のうつけっぷりを直に見たいのじゃが」
とかも道三が言い出したが、和睦締結の際にしかと会談する機会を設けることで我慢して貰った。
道三殿には婚礼の儀と、土岐家・斎藤家・斯波家・織田弾正忠家の四家が幕府の斡旋を受け和睦を締結する会談の場の手配などをお願いした。(斯波家はオマケみたいなものでもある)
また名代として自分が持参するので、土岐家と斎藤家から公方様や禁裏への進物も用意して貰った。
荷物は尾張で空荷になった馬借に持たせるから丁度よい。
斎藤利三には書状を持たせて、公方様に信長の上洛や和睦の条件などを報せるため走らせた。
また米田求政も織田弾正忠家の上洛の通行の安全を求めるために、六角家に使者として送った。
方々に気を使って忙しくしていたら、信長殿は早くも準備を整えわずか二日で大垣まで来てしまったのである。(早えーよ)
せっかちで困るが、信長に鍛えられまくった馬廻りの行軍速度は恐ろしく早いのだ。
大垣で急ぎ信長殿に合流し挨拶もそこそこに、西に向けて進発する。
向かうはかの関ケ原である。(この当時は南北朝時代に行われた戦いに由来し、青野原と呼ばれているのだが、面倒なので関ケ原にします)
関ケ原周辺は斎藤家に属する岩手氏の領地である。
当主の岩手信久は稲葉一鉄の姉妹を妻としており、従兄弟とされる同族の竹中重元とともに、相婿になる斎藤道三に早くから仕えていたようである。
そのためか岩手信久は長良川の戦いで道三に組して討死している。
岩手信久の死後、その子である岩手弾正信冬(長誠とも)は味方であったはずの大叔父の竹中重元に攻められ、岩手氏は滅び竹中氏が台頭することになる。
道三派だった岩手氏に対して斎藤義龍が竹中重元を調略し、岩手氏を裏切らせ攻めさせたのではないかと推察している。
ちなみに竹中重元は、あの天才軍師とか称される『竹中半兵衛重治』の父親だったりするが、竹中半兵衛が活躍するのは相当先の話である。(半兵衛はまだ4歳くらいなので出番はないだろう)
さらに余談ではあるが岩手氏は土岐一族であり、初代とされる岩手満頼は明地頼重の弟とされるので、明智(明地)氏と同族であったりもする。
西美濃では土岐一門として名族であったはずなのだが、滅んでしまったためかマイナーな家である。
◆
斎藤道三の命令が出ているので岩手信久からは歓待され、水や食料を提供して貰いながら無事に関ケ原を越えて近江に入ることができた。
近江に入ったところでは、米田求政と吉田重政殿が我らを出迎えてくれた。
米田求政を送り六角義賢には日置流弓術の相伝の件について、公方様に仲介を依頼する旨を伝えたためか好意的に対応してくれるようだ。その日置流の吉田重政殿を迎えに寄こすことで、我らに歓迎の意思を示してくれている。
織田弾正忠家の嫡子なる者を伴った旅程ではあるが一応便宜を図ってくれるようだ。
義賢自身が出迎えたりしないのは、家格の違う織田弾正忠家のせがれ風情が一緒に居るので今は歓待はできないということであろう。
名家というのも面倒なものである。
だが便宜を図ってくれたことには変わりがないので、京に戻ったら六角義賢や吉田重政殿のために動いてやらねばなるまい。
信長殿は六角家の対応などは気にもしていないようで、ガラの悪い馬廻りと物見遊山な雰囲気でこの上洛の旅を楽しんでいるようだ。
格好は相も変わらず『うつけ』の風体であるのだが、旅路ぐらいは良いでないかとのことである。
特に信長殿が立ち寄って挨拶する所もないので、うつけな格好でも今は問題は無かったりするからよしとした。
吉田家に宿を世話してもらいながら無事に近江を通過し、明日には京へ入洛できるだろうというその晩に信長殿から酒に誘われた。
「酒は嗜みませぬ」と断ったら。
「そうか実はワレも下戸じゃ」と、甘いものとお茶で談笑することになった。
なにやら頼みごとがあるようで、いわく、偉いさんへの対応を教えろということであった。
「御所での拝謁であるからな。正式な礼法を教えて欲しいのである」
「公方様が居られるのは御所ではなく慈照寺ですが、礼法は必要でありますな。分かりました。良い礼法の先生を存じておりますので、手配させましょう」
「ワレはおみゃーさんに教わりたいのであるがな」
「簡単な手ほどきは致しますが、時がありませぬ。私は明日には公方様や大御所と談合せねばなりませぬ。信長殿の拝謁は明後日以降になると思われますので、明日には礼法の先生をお連れしますのでお許しくだされ。しかとした礼法の師に家臣共々学ぶのもよいかもしれませぬぞ」
「残念であるな。それに茶の湯の手ほどきもお願いしたくあったのであるがな」
「では今宵簡単ではありますが、茶の湯の初歩などは手ほどきいたしましょう」
「うむ助かる。ワレの茶の湯の最初の師は兵部大輔殿であって欲しかったのよ」
何やら信長殿には随分と好かれてしまった。
信長の茶の湯の師は、平手政秀か不住庵梅雪だったと思われるが俺で良いのだろうか?
不住庵梅雪はマイナーだし大して活躍もせずに天下三宗匠にとって変わられるからよいか。
(一応斎藤道三や稲葉一鉄の茶の湯の師でもあったようです)
とりあえず寝るまで、信長と滅茶苦茶お茶した――
京では信長殿の一行は織田家にも縁があり、饅頭屋宗二殿の顔も効く建仁寺に逗留して貰った。
(織田信長の京の定宿としては妙覚寺が知られているが、妙覚寺と信長の縁は斎藤道三の子の日饒や日覚が妙覚寺の住持であったことだと思われるので、結婚前の信長には妙覚寺との縁はないと思われる)
昨夜のうちに報せを走らせていたので、礼法の先生も建仁寺にすぐに参じてくれた。(銭をはずんだから喜んで飛んで来たともいう)
信長殿の礼法の先生は以前に我が郎党の弓術のアルバイト講師でもお世話になった、奉公衆で京都小笠原家の小笠原稙盛殿である。
小笠原流は武家礼法の御三家でもあるし申し分ないだろう。(伊勢家、今川家、小笠原家が室町期の礼法の三大家とされるらしい)
小笠原流をみっちり習って、信長殿とファンキーな集団である信長の馬廻りも少しは礼儀作法を身につけて欲しいものである。
さて急ぎ信長殿の公方様への謁見の儀などを手配しなければならないがマジで時間がない。
義藤さまに非公式に遭うだけであれば問題はないのだが、公方様や大御所と公式な場での謁見となると、やはり何かと気を使わねばならない。
とてもかったるいが、これから頑張って調整という名の根回しに精を出すとしよう。
信長殿が大人しく饅頭でも食いながら京式の礼法の勉強を建仁寺でやっている間に何とかしなくてはならないな。
ヒマになったりしたら大人しくしている御仁ではないのであるから……
◆
【信長上洛(2)に続く】
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多分、後編はすぐに更新できると思いマスターディアボロス
この週末でばるべく更新したいものでアルテッツァ