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第三十八話 織田信長<下>(1)

 ◆


 織田信長殿と対今川戦略などで意気投合してしまった。

 桶狭間の戦いなど未来の話をできるわけがないのでそこは伏せているが、今川家の存在は織田家にとって脅威であり、この先十数年の長きに渡る戦いになるであろうことで意見を交換しあった。


「織田家にとっての大敵は今川家であるということです。斎藤道三殿との和睦は必須でありましょう」


「そうよ我が織田家の敵は今川家と、今川に結びつこうとする(やから)よ」


 今川家に結びつこうとする輩とは、織田大和守家に巣食う小守護代の坂井(さかい)大膳亮(だいぜんのすけ)などである。

 織田大和守家に巣食う小守護代らを史実より早く駆逐し、尾張を早期にまとめることができれば、織田信長は史実よりもっと有利に今川家と争うことができるだろう。


「できれば松平家も取り込みたいものです。織田家には竹千代(たけちよ)殿という(ぎょく)もござりますれば」


 通説ではのちの『徳川家康』である竹千代は1547年の8月頃に戸田氏の裏切りに遭い、駿府(すんぷ)駿河府中(するがふちゅう))に連れていかれるところを織田家に銭で引き渡されたことになっている。

 だが最近の説では家康の父である松平広忠(まつだいらひろただ)が織田信秀に岡崎(おかざき)城を攻められ降伏の証しとして、織田家に人質として渡されたともいう。(そんな説に傾いてます)

 この時期には竹千代は熱田(あつた)の有力者である加藤家に預けられていたという。


「松平広忠殿を織田家になびかせろと?」


「松平清康(きよやす)以来、松平党(まつだいらとう)は強くあります。少なくとも竹千代殿を粗略に扱うことは無きようにすべきです」(のちの徳川家康とか冷遇してはあかん)


「今の当主である松平広忠ではなく、竹千代という坊主をもてなせと言うか」


「時期を見て竹千代殿を岡崎にお返しして、松平家と結ぶことを考えてもよろしいかと。一時期とはいえ三河の大半を治めた岡崎(安祥(あんじょう))松平家です。今川家と戦う上では松平家と結ぶべきと考えます」


「そうであるな。今川家の軍勢を親父殿が今頃抑えてくれておれば、松平家と結んで今川家に対抗するのもよいだろう」


 残念ながら史実どおりの結果なら、今頃『小豆坂(あずきざか)の戦い』で織田信秀は太原雪斎(たいげんせっさい)に敗れているだろう。(1548年説を採っています)

 このあとの織田弾正忠家は今川家に押される一方となる。

 なんとか安祥(あんじょう)城くらいはこの先も確保して置きたいがそれも難しいだろうか。


 あまり織田信長に肩入れし過ぎて歴史が変わり、桶狭間の戦いが起こらなくなると、歴史が変わりすぎて先が読めなくなる恐れもあるが、桶狭間の戦いがなくても織田家は今川家には敗れはしないと考えている。


 今川義元の桶狭間における敗因は、兵力を大高(おおだか)城、鳴海(なるみ)城と、織田方の砦を攻めるために展開し、兵力分散の愚をおかしたことである。

 簡単に言ってしまえば兵力を分散し手薄になった本陣を織田信長率いる馬廻りの強襲を受け中央突破されて負けたわけだ。


 若い頃の織田信長は自らが先頭に立って味方を鼓舞し、敵将すらその手で討ってしまうほどであり、柴田勝家をも恐れさせた猛将である。

 また自らが鍛えた馬廻り衆は上杉謙信の旗本(はたもと)にも匹敵する戦闘力があったと思っている。


 桶狭間で信長が率いた2千の軍勢は寄せ集めの兵ではなく、信長の馬廻りである黒母衣衆(くろほろしゅう)赤母衣衆(あかほろしゅう)が中心の精鋭なのだ。

 信長の馬廻りは寡兵で多くの敵を打ち破っている。

 弟の織田信勝(信行)との戦いで柴田勝家を退け、林秀貞(はやしひでさだ)(通勝)の弟を自ら討ち取ったといわれる「稲生の戦い」も相手より少数の軍勢で勝利している。


 織田信長という男が健在であれば、すでに太原雪斎や朝比奈泰能(あさひなやすよし)のいない今川軍にたいして桶狭間の「奇襲戦」などという運の良い勝利が無くても、結局のところ織田家は今川家に破れることは無いだろう、それほど織田信長は「強い」のである。

 小豆坂の戦いは逆に太原雪斎や朝比奈泰能(あさひなやすよし)が健在で戦闘力では今川家の最盛期だったりするので勝ち目が無い。


 織田信長という男はやはり早い時期から公方様の味方にしておきたい存在である。

 もう織田信秀ではなく、織田信長と和睦交渉を詰めてしまってよいのかもしれない。

 織田信秀殿には公方様の力となる「時」が残されていないのだから。


「分かりました。和睦の条件をお教えしましょう。大垣(おおがき)の公方様への寄進(きしん)と、斎藤道三殿の息女と三郎(信長)殿の婚儀にあいなります」


「左近大夫(道三)の娘は美人か?」


「は? 政略結婚ですので容姿などは二の次でございましょう」


「それはまあそうなのだが、左近大夫にそっくりなおっかないマムシ娘だとしたら、すまんが少し考えさせてくれ」――と言ってニヤリと笑う。


 冗談のつもりなのだろう。


「残念ながら、私も道三殿の娘御にお会いしたことがありませぬゆえ容姿までは分かりかねます」


「であるか残念だな。それで親父殿がその条件を蹴ったらどうするのだ?」


「そうですな、斎藤道三殿率いる土岐家の本隊に、土岐頼芸(よりのり)殿の(しゅうと)の六角定頼殿からの援軍を合流させて大垣を包囲させましょう。土岐殿には織田弾正忠家への追討の御教書(みきょうしょ)でもお出ししましょうかな。あとはそうですな、織田大和守家や織田伊勢守家にも援軍を出すよう命じましょうか。ついでに今川家にも尾張攻めを公認する御教書をお出ししますかな。あるいは間違いなく勝てる戦ゆえ、公方様の親征もよろしいかも知れません。幕府軍総出で包囲網を敷きますので、信秀殿と信長殿の大垣城後詰(ごづめ)をお待ちいたしておりまする」


 ハッタリ全開である。

 さすがにそこまで上手くはいかない。


「……おみゃーさん、相当の悪だな。それでワレらを討ってどうするのだ? 何か将軍に利があるのか?」


「新将軍として武威を示すことが(かな)いましょう。ほかは残念ながら全く利がありませぬ」


 本当にまったくもって織田弾正忠家を討つ意義など全くない。織田信秀や織田信長は室町幕府の権威を認めてくれるこの時代にあって貴重な存在なのだ。

 織田信秀・信長父子の他には将軍に謁見するためわざわざ上洛までした大名など上杉謙信と最上義守(もがみよしもり)義光(よしあき)父子くらいなものなのである。


 逆に今川義元は室町幕府の権威を必要としない体制をこの数年後の1553年に「今川仮名目録(かなもくろく)追加21条」を発布して築いてしまう。(分国法です)

 これは幕府が認めていた守護不入(しゅごふにゅう)の権利を否定し、守護大名から戦国大名へ脱却するものであり、明確な幕府への反逆である。

 どちらかと言えば信長は改革者などではなく、今川義元の方が改革者だったりする。


 今川家は足利将軍家の権威を真っ向から否定し、過去において室町幕府が定めたものを無効化し、今川家は幕府の守護職としての職務も放棄するのである。

 守護の職務たる守護()けをも放棄し、本来幕府に属するはずの奉公衆の被官化(ひかんか)なども明確に実行していく。


 全国どこも似たような状況ではあるのだが、幕府的にはそれを今川家のように明文化されては困るわけだ。(どこも誤魔化してやっています)

 世が世なら今川家は室町幕府から追討されてもおかしくないほどのことをやるのだが、もはや幕府には追討する力など無いと、完全に室町幕府は今川家に舐められているということだ。


 ようするに今川家はこの(のち)には足利将軍家の存在を否定する存在となるのだ。

 足利家の敵は足利だとかつて公方様に言ったことがあるが、今川義元とは足利将軍家の新たな敵なのである。

 ()()()()()()()()私こと細川藤孝が今川家に敵対する織田家を支援する意義はもうおわかりであろう。


 ◆


「我が弾正忠家を討つことは本意でないということで良いのだな」


「私は織田弾正忠家の正式な申次(もうしつぎ)にございます。弾正忠家が公方様に敵対しない限りはお味方であり続けましょう。わざわざ尾張にまで足を運んでいる事もお考えいただきたいものです。それに話をして分かりましたが私は織田信長殿が好きになりました」

(というか元々大好きです。サイン下さい)


「おう、ワレもおみゃーさんが好きだで、美味いものをくれるしな」


「個人的なことではありますが、織田信長殿。この細川藤孝と盟約を結んでは下さりませぬか?」


「ワレとお主の盟約?」


「私からの条件はただの一つです。織田信長殿が我が(あるじ)の足利義藤公に敵対しないこと。それを信長殿が破らぬ限りは、この細川藤孝は織田信長殿に最大限の支援をすることを約しましょう」


「何やらワレが一方的に恩恵を受ける盟約と成りそうであるがそれでよいのか? ワレには今のところお主を助けることなど難しくはあるが……」


「それだけ織田信長という男を買っているとお考え下され。それにまずは織田信長殿でなければ今川家は押えられない」


「なぜお主は今川家をそこまで敵視するのだ? 今川家は足利将軍家の一門であり幕府の守護であろうに」


「いずれ信長殿もお分かりになることとは思いますが、今川義元という御仁は室町幕府を、我が主たる足利義藤公を認めない者なのです」


「おみゃーさんはなぜ今川義元をそこまで知っているのだ? いや、今は聞くまい。この三郎信長と兵部大輔殿の目的がまずは一致していることが肝要(かんよう)であるな」


「今川家を良く思っていない点では一致しております」


「相分かった。この織田三郎信長は細川兵部大輔藤孝殿との友誼(ゆうぎ)を固く誓おう!」


「いえ、私ではなく公方に敵対しないことを誓って欲しいのですが……」


「な、なんじゃ! せっかく格好良く宣言したのに台無しではないかあぁ」


 信長殿がまたもや赤面してしまった。だから男の赤面なんぞいらんて。


「あくまで私は我が主の足利義藤さまの栄達のみを望むものでありますので、申し訳ない……」


「分かった、分かった。この三郎信長は公方様の、足利左中将(さちゅうじょう)義藤公に終生の忠誠を誓おう! これで良いかぁ!」


「はい。結構であります」


「なんなら熊野牛王符(くまのごおうふ)に誓約でもするか?」


「あのような迷信は不要です。信長殿は信義に厚き御方とお見受け致しますゆえ」


 熊野牛王符はこの戦国時代で誓約などによく使われた物であり、豊臣秀吉がその臨終の際、五大老などに豊臣秀頼への忠誠を誓わせたことなどが有名だが、結果は知ってのとおりであり、ようするに意味がない。


「何やら相当見込まれておるようじゃが、ワレはうつけと呼ばれる者ぞ。よくそこまで信用する気になるものだな」


 信用というか知っているだけなのだ。

 織田信長という男は裏切られることは多くとも、自らが先に裏切ることが無いことを。

 そして戦国の世にあって、特に情に厚き男であることを知っているだけなのだ。

(晩年の林秀貞(はやしひでさだ)佐久間信盛(さくまのぶもり)の追放は除く、正直アレはない)


「織田信長という男が公方様に刃を向けることがあるとするならば、それはそれがしの不徳でありましょう。あと一応忠告しておきますが、いい加減『うつけ』な所業(しょぎょう)は慎まれるがよろしいでしょう。無駄に敵を増やす必要はありますまい」


「敵とは誰のことだ?」


「織田家中の信長殿を理解できぬ御仁達にござる」


「そのような者は放って置けばよいのだ。どうせ使い物にならぬ者どもよ」


「それが家老の林秀貞殿や平手政秀殿に、織田家でも猛将で知られる柴田権六(ごんろく)殿らであってもそう言えますのか?」


「爺や柴田だと……」


「まず、この藤孝が信長殿を支援できることがこれでありますな。忠告です。少しうつけを控えて林殿や柴田殿に歩み寄るがよろしいかと。よろしければ私から両名を茶の湯にでもお招きしますが?」


「いや分かった。それにはおよばん。まずはワレでなんとかしてみよう」


 本当に大丈夫かね? 何かやらかさなければいいけど。


 ◆


「ほかに忠告できることは織田大和守家でありますな。織田大和守家の小物どもは美濃と通じておりますので」


「それは確かな話か?」


「間違いなく確かです。清洲の小守護代とはこれから弾正忠家に対抗して共闘する話になっているとか、直接道三殿の口から聞いておりますので間違いなく確かな話でござる」


「道三もそれをおみゃーさんに漏らすかねぇ」


「まあ、弾正忠家との和睦が成れば不要な連中でしょうからな。そんなヤツらより織田弾正忠家との和睦の方が道三殿にとっては大事でありましょう。私が出張(でば)って来ましたので、和睦の実現性はかなり高いとふんでおいでのようでしたな。和睦が成れば証拠を道三殿から貰ってまいりますので、そのような輩は討ってしまいますかな」


「織田大和守家を滅ぼしてしまえと?」


「滅ぼす必要はありません。坂井大膳亮などの小守護代どもを追放するだけのこと。守護も守護代も信長殿が傀儡(かいらい)にすればよろしいかと」


「幕府がそれを認めるのかね」


「必要ならば公方様に非公式のお墨付きを貰って参りますが?」


「もらえるのかよ!」


「既に役に立たぬ守護や守護代より、公方様に忠義の厚い織田弾正忠家を厚遇するのは当然のこと。守護代も守護代の取りまきも、なるべく命は取らずに追放してくれれば、こちらとしては特に問題はありませぬ」


 まったくもって余談なのだが、細川藤孝の一番家老である松井康之(まついやすゆき)股肱(ここう)の臣が、なぜか坂井大膳の息子といわれる「坂井与左衛門(よざえもん)一良」だったりする。まだ生まれてないし息子だと確定しているわけではないのだが、尾張坂井氏の一族なのは間違いが無いらしい。

 そんなわけで坂井大膳の一族が族滅(ぞくめつ)するとちょっとだけ困ったりする。


「ようは君側(くんそく)(かん)を討つということで良いのだな」


「別に守護の斯波家や守護代の織田彦五郎を君主扱いしなくてもかまいませんよ。織田弾正忠家は公方様の直臣(じきじん)にしてしまいますれば」


「は? 公方様の直臣だと?」


「はい、大垣の寄進がなれば奉公衆の御供衆(おともしゅう)か、あるいは準国持ちの外様衆(とざましゅう)として取り立ても可能でありましょう」


 そのためには俺は相当金を使うと思うがな……


「御供衆になれば守護不入の権利が認められるわけよな」


「むろんです。公方様の直臣でありますので本来守護の権限は及びません。まあ奉公衆などは各地で所領や代官職を押領されまくりで形骸化(けいがいか)(はなは)だしいものですが……そういえばこの尾張の国の那古屋という所の奉公衆であった那古野氏も、どこかの誰かさんに滅ぼされてその所領は押領されたままでありましたな」


(ちなみに今二人が喋っているのがその那古野城である)


 那古野氏とは一般的には『今川氏豊(いまがわうじとよ)』と呼ばれる人物で、駿河の今川本家以外は「今川氏」を名乗れないといことになったため今川那古野氏とも称される。

 今川義元の弟とされるのだが、どうにも出自は今川本家ではなく傍流の出から那古野氏の養子になったようである。


 その今川氏豊は1538年に織田信秀に那古野城を追い出されている。

 今川氏豊は奉公衆の今川那古野氏なので駿河の今川本家とは実は全然関係なかったりする。

 桶狭間の戦いにおける今川家の目的がこの那古野城の旧領回復を目的とするなどの説もあったりするが、那古野城は駿河今川家の物でもなんでもないので、その説には少し無理があったりする。


「今さらこの那古野を返せとは言わんのだろう?」


「まあそうですね、ですがこの那古野の分の代官も公認させましょうか。いくらか年貢を納めてもらうことにはなりますが」


「那古野の領有について公方様から公認が出るなら安いものであるな」


「そういうことです。公方様の持つ権限は使いようですので」


「おみゃーさん本当に公方様の忠臣なのか?」


「最近よく言われます……私は公方様を助けることしか考えていないのですが、何故か最近よく疑われて困っておりまする」


「まあよい、ようするに斎藤家の娘を正室として迎え、大垣城から我らは撤退すれば良いのだな?」


「できれば大垣城にて、会盟の機会を設けたいと考えております」


「会盟とは?」


「土岐家・斎藤家と斯波家・織田家の会盟に相成ります――」


 ◆

【織田信長<下>(2)に続く】

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[一言] 「…本当に公方様の忠臣なのか?」 こう言うのを「清濁あわせ飲む」で良いのかな? なんか違うような? あっ!「凄く有能な小判鮫」とでも呼べば良いのかも(笑)。
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