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第三十七話 織田信長<上>(2)

 ◆


 信長殿との出会いはアレだったが、とりあえず今は那古野(なごや)城に無事に逗留(とうりゅう)させて貰っている。

 あのあと鉄砲の発砲音を聞きつけたであろう平手政秀(ひらてまさひで)殿が飛んで来て場を納めたのだった。

 平手の爺さんは俺を見つけ平謝りであったが、信長殿は悪びれもせず知らん顔である。


 軟弱な京の幕府の使者とやらを、脅しのつもりで少しビビらせてやろうとでも思ったのであろう。

 ただの脅しに鉄砲20挺の一斉射撃で返されるとは思っていなかったであろうがな……


「失礼(つかまつ)りまする。兵部大輔(ひょうぶだゆう)(藤孝)様、お(くつろ)ぎ頂けておりますかな?」平手の爺さんが、落ち着いたであろう我らの様子を見に来て挨拶をする。


「ええ、平手殿のおかげで十分快適であります。配下の者や馬借(ばしゃく)にまでご配慮頂き感謝致します」


 郎党は那古野城内で馬借たちは城下に逗留させてもらっている。

 我々があてがわれた部屋は上等な部屋であり、しっかりと歓待されている。


「殿(信秀)が不在で誠に申し訳なく。殿が戻られるまで何卒お寛ぎいただき、お待ちいただければ幸いでありまする――」


 と、そこにドカドカと足音を立てて部屋に入って来ようとする者がいた。


「爺! 席を外せ。その者と話がしたい」


「若っ、くれぐれも――」


「分かっておる。兵部大輔殿と話をするだけじゃ、無礼はせぬ心配いたすな」


 平手の爺さんは心配気な顔をしつつも追い出されてしまった。


「源三郎も席を外せ。織田の若殿は二人だけでの話を所望のようじゃ」


「隣室に控えておりますので何かあればおよび下さい」


 平手殿も米田源三郎も部屋から出ていき、二人きりとなる……沈黙を破ったのは足音のでかい来訪者の方であった。


「織田三郎信長にござる。兵部大輔様には、先ほどは失礼いたした」


 名乗りをあげ、頭も下げる。

 礼を尽くす場面では織田信長は礼を尽くせる男のようだ。

 まあ悪ガキ共の前では頭は下げたくなかったのであろう。


「細川兵部大輔藤孝にございます。茶の湯の用意をしておりましたので、しばしお付き合い頂けますかな?」


「頂くとしましょう」


 信長にも道三と同じく、宇治茶に京釜(きょうがま)茶杓(ちゃしゃく)を手土産に持参している、あとであげよう。


 とりあえず二人して静かに茶を喫する。

 信長をこうして見ると、まだ若いだけあってか覇王とか天下人という威圧感は余り感じない。

 これまでに三好長慶(みよしながよし)とか斎藤道三(さいとうどうさん)とかいう、既に化け物じみている相手で慣れてしまったというのもあるかもしれないが、まだ信長は俺と同じ15歳でしかないのだ、……うん、まだ若いな。


「お茶請けにもみじ饅頭もどうぞ」


「おおこれは! 以前に食したことがあったが、う、うまいだぎゃー!」


「お喜び頂けたようでなによりです」


「これは以前貰った饅頭と同じ物であるな。このような美味いものは食したことはなかった。以前送ってくれたのもそのほうであったか」


「ええ、そういえば信秀殿の上洛の折お持ち帰り頂いておりましたな。今回はかなりの饅頭を持参しておりますので好きなだけ食してくだされ」


「遠慮のう頂くとするわ」


 織田信長は実はかなりの甘党であったという。満面の笑みでもみじ饅頭を食べている。

 信長の満面の笑みとか貴重だよなぁとか思いながら眺めていたら、信長殿が赤面してしまった。(貴重ではあるが男の赤面とかいりません)


「茶の湯というものは、このように二人で静かにお話をするには持ってこいだとは思いませんかな?」


 信長殿がバツの悪そうな表情をしているので話題を振ってあげた。

 茶の湯の普及活動でもある。


「密談にちょうど良いということであるか」


「信長殿と私とが密談をする必要はありませんが、交友にはよろしいでしょう」


「ふん。しかし兵部大輔殿アレはないぞ」


「アレとは?」


「鉄砲だ。20挺はあったか?」


「こたびは60挺ほど持参しております」根来から定期的に購入し、ついぞ60挺になったのでハッタリかますために全部持ってきた。

 連れて来た郎党が40人なので鉄砲武装率150%である。


「ろ、60挺だと? それほどの数をど、どこで手に入れたのだ? それにあの鉄砲隊の統率力。どれほどの訓練を積んで来たのだ」


 ()()()に鍛えられた鉄砲隊だからな相当な練度ではある。

 それに硝石(しょうせき)も十分な数があるから訓練回数は日本一という自負もあるぞ。


「訓練は相当こなしております。鉄砲の入手先はまだ秘事ということで……」


  信長は間違いなく鉄砲に興味を持っているであろうから、あの場面で20挺の鉄砲をぶっ放すなんて真似をしたのだ。

  織田弾正忠家のお膝もとでの愚連隊(ぐれんたい)なぞ、信長以外には居ないであろうと踏んでな。

 案の定信長は鉄砲に興味を持って、俺を訪ねてまいり食いついて来たわけだ。


「まだ、ということは、和睦が成ればいずれは教えてくれるのであるか?」


「はて、和睦とは一体なんのことでござろう?」


「おみゃーさん、美濃と尾張の和睦をまとめる魂胆であろう?」


「なぜそうだと?」


()()にも伝手はある。おみゃーさんは稲葉山の土岐館で歓待されているであろうに」


「ええ、結構な(うたげ)でありましたよ。左近大夫(道三)殿と一緒に舞なども楽しみましたゆえ」


「左近大夫と舞だぁ? なんじゃそのけったいな宴は」


「たしか三郎殿も舞はお好きでしたな。今度一緒にどうですかな? それがしは観世流(かんぜりゅう)太鼓方(たいこがた)宗家の直弟子です。小鼓(こつづみ)には自信がありますぞ」


 そういって、目線で小鼓を見せる。さっき乾燥のために出しておいたのだ。

 残念ながら信長殿は今は興味がなかったようで一瞥(いちべつ)をくれるだけで、舞の話題には乗ってこなかった。


「舞もよいが、それよりまずは和睦の件だ。で、条件は何であるか?」


「それは織田弾正忠殿との交渉の席にて披露(ひろう)されましょう」


「ワレは親父殿(おやじどの)(信秀)の前に聞きたいのだ」


「それは無理なご相談でござりましょう」


「ワレが和睦に協力すると言ってもか?」


「信長殿が和睦に協力を? なぜ信長殿は斎藤道三殿と和睦すべきとお考えでありますかな?」


「今の時期にあの斎藤道三を敵に回して美濃で領地を得ても旨みがないわ。それに清洲が邪魔で結局のところ美濃を維持はできまい」


 この頃の清洲城には尾張守護の斯波義統(しばよしむね)がおり、それを推戴(すいたい)する尾張守護代である大和守家(やまとのかみけ)の織田彦五郎(ひこごろう)信友(のぶとも)が清洲城を支配していることになっている。

 先代の守護代織田逹勝(たつかつ)の代には織田信秀とは友好関係にあったが、この頃には逹勝は家老どもに隠居に追い込まれ、織田信友が当主となっている。

 清洲城は小守護代(家老)の坂井(さかい)大膳亮(だいぜんのすけ)や坂井甚介(じんすけ)、織田三位(さんみ)河尻(かわじり)与一郎重俊(しげとし)などといった者共らの専横を許し、守護を傀儡(かいらい)とする守護代をさらに傀儡とする小守護代に牛耳(ぎゅうじ)られるといった有様なのである。

 家老逹に主導権を握られた織田大和守家と織田弾正忠家は今後対立していくことになる。


「それに、今は今川に全力であたる時ぞ、親父殿にはそれが分かっておらぬのだ」


「弾正忠(信秀)殿は、三河で今川家の太原崇孚(たいげんすうふ)(雪斎)殿と相対しているとか」


「今川が東三河を押えたからな。西三河を押えた我らと中三河の奪い合いじゃ。ワレも出陣したかったのじゃがな……」


「信長殿は現状の尾張をどのようにお考えか?」


「今川家が東と北を固めたという。後顧の憂いなく西を、三河を併呑(へいどん)しようとしている。尾張はまとまっておらぬ。斯波様ではまとめられぬのよ。守護代の彦五郎でも同じこと。このままでは三河を今川に奪われ、さらには尾張にまで今川家は出てくるであろう。ここは全力で今川家に対するべきなのじゃ!」


 ◆


 まだ若いがさすがは信長である。

 しっかりと先のことを見すえている。

 織田信秀の嫡男である信長殿が賛同してくれるのであれば、織田弾正忠家と斎藤道三との和睦はなるかもしれない。


 今川義元を『海道一(かいどういち)弓取(ゆみと)り』や、駿三遠(すんさんえん)の太守(駿河(するが)三河(みかわ)遠江(とおとうみ))とも称するが、今川家は実はそれほどこの三国に安定的な支配体制を敷いていたわけではない。


 まず本国の駿河だが、ようやくこの2年前の1545年における『河東(かとう)の乱』で戦い勝利することによって富士川(ふじがわ)から黄瀬川(きせがわ)一帯の駿河国の半国を北条家から奪い返したばかりなのである。


 遠江も今川家の領国となったのは最近のことだ。

 女城主(おんなじょうしゅ)で有名な『井伊直虎(いいなおとら)』の井伊氏や、今川氏の分家である堀越氏(ほりこしし)などが今川家に服属したのもこの10年以内の話であり、今川義元死後には『遠州錯乱(えんしゅうさくらん)』などと呼ばれる遠江国人の叛乱がすぐに起こる有様で、今川家による支配が完全であるとはいえない。


 三河についても、今川家の進出はつい最近の話で、東三河の豊橋(とよはし)(吉田)城を支配下に置いたのは1546年であり、わずか1年前の話である。

 1510年頃の北条早雲(ほうじょうそううん)が今川家の武将として健在であったころに、今川家が三河にまで攻めてくることもあったが、今川家のお家騒動の『花倉(はなくら)の乱』や、三河における松平清康(まつだいらきよやす)(家康祖父)の台頭により、今川家の三河再侵攻は織田家より遅くなった。


 いまさら『桶狭間(おけはざま)の戦い』を今川義元の上洛(じょうらく)作戦であったと思っている人は少ないと思うが、一応言っておく。

 桶狭間の戦いは、この1547年より始まった今川家と織田弾正忠家との三河争奪戦の延長上の戦いでしかないのだ。

 逆に言えば桶狭間の戦いまで、この先13年間も織田弾正忠家は今川家と死闘を続けることになり、小豆坂(あずきざか)の戦い以降はほぼ今川家に圧倒され続けることになる。


 そもそも織田信長と今川義元との戦いである『桶狭間の戦い』は日本三大夜戦(やせん)(奇襲戦)の一つに数えられるが、言われるほどの奇襲戦などではない。

 織田家と今川家が、真正面からぶつかり合った戦いが真相なのである。


 今川義元は上洛など目指しておらず、三河の掌握(しょうあく)と尾張の知多(ちた)半島の奪取あたりが目的であったのだ。

 この時代の知多半島は米が取れないので石高は低いが、伊勢湾貿易の中継地であり、常滑焼(とこなめやき)塩田(えんでん)が発達した経済地域であるのだ。

 織田家と今川家の争いは経済先進地域であった、伊勢湾商業圏をめぐる争いなのである。


 それに主目的は信長の兵糧攻めに遭い窮地に陥っていた大高(おおだか)城の救援、いわゆる後詰(ごづめ)が優先目的である。

 また織田信長が尾張をほぼ統一したことで焦ったこともあるだろう、時をおけば織田家の尾張支配が強固になってしまうからだ。

 だから今川家は無理を押して攻め込んだ。


 桶狭間の戦いにおいて、今川軍4万5千〜2万5千vs織田軍2千などとも言われ、絶望的な数字が喧伝(けんでん)されているが、さすがにそれはない。

 物語として盛り上げるための虚構(きょこう)であろう。

 絶望的な状況で勝った信長様スゲー! だから家康様が信長様に従うのもしょうがねー……である。


 慶長(けいちょう)三年の石高では織田家の尾張一国で実に57万石であり、1万石あたり250人〜300人という動員兵力の通説にしたがえば、尾張一国で1万4千〜1万7千人の兵力となる。


 今川家はどうであろう、駿河15万石、遠江25万石、三河29万石の合計69万石で計算すると1万7千〜2万程度の兵力となり、そこまで絶望的な差にはならないのである。


 1560年時点でいえば信長はなんとか尾張を統一したばかりであり、北の斎藤(一色)に押さえの兵も必要で、2千しか動員できなかったとされるのが通説だが、そんなわけがない。

 1558年の浮野(うきの)の戦いとその翌年の岩倉(いわくら)陥落(かんらく)において織田伊勢守家を滅ぼすなか、信長には上洛する余裕すらあるのだ。

 

 たしかに今川方に転じた沓掛(くつかけ)城や大高城など尾張の一部に伊勢長島(いせながしま)一向門徒の勢力の強い海西郡(かいせいぐん)(水浸しで2万石程度)、葉栗郡(木曽川の流路変更のせいでほぼ美濃10万石)などは支配下においてはいないが、それでも40万石程度の領国は支配していたと考えられるし、それにプラスして、津島と熱田の経済力が10万石以上の経済価値があったと見込まれる。


 統一したばかりで完全に支配などしていないと言われればそうだが、それは今川家も似たようなものである。

 沓掛城は国人が優勢な今川方に転じただけであり、大高城は信長の包囲下で、遠江や三河も国人が完全に服したわけではない。

 織田信長には北に斎藤家という敵がいるから兵を割けないというのも、今川だって同じである。

 今川義元ともあろう御方が、武田信玄との甲斐国境、北条氏康との伊豆・相模国境をがら空きにするわけがないのだ。


 ようするに桶狭間における『奇襲攻撃』なんてものがなくても織田家は簡単には今川家に破れたりはしないということだ。

 戦力比も1万〜1万2千vs1万7千〜2万程度の兵力差であり、地の利と戦場までの距離は織田家が圧倒的に有利なのである。

 実際に桶狭間で今川家が2万以上の兵力を投入できていたとは思えない。

 桶狭間の戦いは言われるほど絶望的でもなければ、今川家もそれほど圧倒的なわけではないのだ。


 ましてや現状から三河に再侵攻したばかりの今川家に対処し、早期に対今川を戦略の中心に置けば、史実の桶狭間の戦いほど今川家の攻勢に晒されることもないだろう。

 あえて言おう、美濃などにかまけている場合ではないのだと。

 お前ら(織田家)の敵は今川家だ。(幕府としても今川家は敵だといえるのでな)


 織田信長が家督相続時に絶望的な状況になったのは、ひとえに織田信秀が耄碌(もうろく)したせいといっても過言ではない。

 晩年の織田信秀は病魔に侵され判断をいろいろ誤っているのである。

 できもしない今川家との和睦を目指し、嫡男の織田信長と対立し、織田信長の家督相続権を危うくなどもしている。

 織田信秀は尾張国中を敵ばかりのままで、信長への家督譲渡をまともにせずに死んでしまったのだ。

 そりゃあ葬式で信長に位牌(いはい)抹香(まっこう)()()()()()()()()

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