おまけ 美濃守護代・斎藤家の歴史(2)
おまけの続き、例によって読み飛ばしても良いです
<斎藤道三の父>
一般にいわれる斎藤道三(利政)の前半生は未だ解明はされていない。
「岐阜県史」の編纂過程で発見された古文書の「六角承禎書写」において、六角承禎義賢(定頼の嫡男)が家臣に送った書状に、斎藤義龍の祖父と父について書かれており、斎藤道三は二代で成り上がったことが最近の定説になった。
まずは斎藤道三の父親の足跡を少したどってみる。
道三の父の出身としては一般的には北面の武士であった松波左近将監基宗の子といわれる。
北面の武士(禁裏の警備隊)とか言うがこの時代にそんなものはまともに機能していない(1221年の承久の乱後に廃止されている)。
また山城国の西岡に「松浪」という地名があり、実際はそこに北面の武士であった者の子孫が帰農したか、油売りの子であった者が、のちに松波基宗の子と仮冒したともいわれている。
道三の父の幼名は「峰丸」とされるがこれも確証はない。
その峰丸は京の妙覚寺に入寺し「法蓮房」という法華宗の僧になったといわれる。
だが法蓮房は還俗してしまい「松波庄五郎」(庄九郎とも)を名乗り油問屋の奈良屋又兵衛の婿となり、山崎屋の屋号で油売りを始める。
油の行商で永楽銭の穴に油を通す芸で売り歩いたエピソードなどが有名ではある。
このあたりは江戸時代の創作感が強い。
油の行商人として松浪庄五郎は法蓮房時代の妙覚寺で同僚であった「日運」を頼り美濃において商売に成功したという。
法蓮房は日運の兄弟子で2歳年上であったとされる。
この「日運」だが実は美濃国守護代の斎藤利藤の末子で船田合戦において担がれた「毘沙童」であるとされる。
(日運を長井氏という説もあるが、斎藤と長井は同族でもなんでもない)
毘沙童は船田合戦で敗れたが、幼少であったため助命されて、京の妙覚寺に入寺した。
僧となってからは「南陽坊、日護坊」などの名でも呼ばれる。
日運は1516年に美濃の常在寺(妙覚寺の末寺)の住職となっている。
常在寺は斎藤道三に菩提寺とされ道三・義龍の肖像画(重要文化財)が残されていたりする。
油商人として美濃で商売をしていた松浪庄五郎だが、小守護代の長井藤左衛門尉長弘に仕え足軽となったといわれる。
小守護代とは守護代の代理(代官)であり又守護代と似たようなものである。
小守護代・又守護代・守護又代などともいわれる。
守護や守護代は在京することが多かったので在国して現地を治めていたのが小守護代であるが、応仁の乱以降は守護も守護代も在国したのでただの家老みたいなものになる。
斎藤道三の父の活躍の時期は日運が常在寺住職となった1516年以降と思われるが、その翌年から美濃はまた荒れまくる。
その動乱の中で長井長弘に仕えた松波庄五郎は次第に重用され、長井長弘の家老であった西村三郎左衛門の名跡を継いで「西村勘九郎正利」を名乗るなど次第に頭角を現したのだろう。
この時の美濃で何が起こっていたのかというと、またもや守護の後継者をめぐる御家騒動である。
美濃守護の土岐政房と嫡男『土岐頼武』の争いである。
土岐政房は次男『土岐頼芸』に家督を継がせようと考えたのだが、土岐頼武に守護代の斎藤利良がつき、守護vs守護代との争いともなった。
(土岐家は素直に嫡男に継がせたくない遺伝子でも持っているのかと疑ってしまう、何代連続で御家騒動やってるのだ?)
1517年の合戦では斎藤利良がまずは勝利する。
だが1518年には尾張に逃れていた前守護代の斎藤彦四郎が土岐政房につき、土岐頼武と現守護代の斎藤利良は縁戚の朝倉孝景(母が斎藤利国の娘)の元へ亡命する。
この状態で守護の土岐政房が死ぬのだが、暗殺されたような気がしないでもない。
これ以降の美濃は『頼武派』、『頼芸派』に分かれヒャッハーな状態になってしまう。
西村勘九郎正利はこの頼武派・頼芸派の戦いの中で、土岐頼芸にも寵愛されるようになり、1518年「長井」の名字を与えられ『長井新左衛門尉』と名乗りを変える。
直接の主君の長井藤左衛門尉長弘は長井越中守長弘にランクアップしている。
(長井豊後守利隆を斎藤道三の父とする説もあるが活動時期から疑問であり、長井利隆の名字は斎藤だと思われるので別人であろう)
1519年には朝倉孝景の妹婿になった土岐頼武の逆襲が始まる。
朝倉孝景の弟の朝倉高景の軍勢とともに美濃に攻め入った。
頼武派は美濃北部を制圧し、大桑城を拠点とする。
美濃は北部の頼武派と南部の頼芸派に二分されるが、朝倉家の支援を得た頼武派が優勢となり土岐頼武が美濃守護となる。
斎藤彦四郎はこの時に戦死したか病死したかで歴史から消える。
美濃は守護に土岐頼武、守護代に斎藤利良でしばらくは治まるかに思えたのだが、まあそんなことにはならない。
美濃はずっと世紀末な気がして来た。
1521年頃に守護代が『斎藤利茂』に代わる。利茂は帯刀左衛門尉を名乗るので、斎藤惣領家の帯刀左衛門尉家を継いでいると思われる。
船田合戦後に隠居させられた斎藤利藤のあとは『斎藤利為』が養子になり、その子が斎藤利茂であるとされるが、先にも述べたように斎藤利為からして誰だか分かっていない状態だったりする。
そして1525年についに斎藤道三の父親が歴史の表舞台に登場する。
長井長弘と長井新左衛門尉(道三父)が土岐頼武に対してクーデターを起こし、美濃守護所の福光館や斎藤利茂の稲葉山城を落城させるのである。
土岐頼芸派の逆襲である。
さらには江北の浅井亮政(浅井長政の祖父)が美濃の内乱に介入して美濃西部に侵攻する。
「牧田の戦い」で浅井亮政と土岐軍(頼芸派か?)が戦っているのだが、西美濃三人衆で有名な稲葉良通(一鉄)の父、と兄5人が討死して稲葉家は壊滅。
高僧の快川紹喜の下で僧となっていた稲葉良通が還俗して稲葉家の家督を継ぐようなこともあったりした。
浅井家の美濃侵攻に対抗して土岐頼武は舅の朝倉氏に救援を頼んだ。
朝倉家は援兵を送り、朝倉宗滴と六角定頼が美濃の内乱に介入した浅井亮政を牽制する。
浅井亮政といえども朝倉宗滴と六角定頼なんざ相手にして勝てるわけがないのである。
宗滴は小谷城の金吾丸に5ヶ月程居座り、浅井・六角両家の間を調停し朝倉家と浅井家に縁ができる。
(朝倉家としては浅井家が六角定頼に滅ぼされるのは避けたかったようである)
一方の朝倉家本隊は朝倉景職を大将に美濃へ攻め込んでいる。
美濃の内乱は正直いい加減にして欲しいぐらい隣国を巻き込みまくるのである。
内乱は1527年には一応落ち着くが、頼芸派は頼武派の切り崩しを行い1530年に土岐頼武はまたもや越前へ亡命する。
だがこのあたりで斎藤道三の父の活躍は終りとなる。
晩年は『長井豊後守』と名乗っていたようだが1533年頃に病に倒れたようである。
ここからようやく長井豊後守の子の『長井規秀』のちの斎藤利政(道三)の活躍が始まる。
<斎藤道三>
1533年にまず長井規秀は直接の主君であった長井長弘を内通の容疑で土岐頼芸に讒言し、上意討ちを名目に殺害する。
また長井長弘の子の長井景広ものちに殺害し、長井規秀は小守護代の長井家を完全に乗っ取ってしまう。(長井長弘も長井豊後守もふつうに病没したとする説もある)
まったくもって余談だが、長井景広の子の長井源七郎は生き延びており、長井源七郎の娘は越後新発田藩初代藩主の溝口秀勝に嫁ぎ2代藩主の母となったりしている。
長井源七郎の子の長井清左衛門の家系は遠く越後の国で現代まで続いていたりする。
(さらに余談だが忠臣蔵の堀部安兵衛の親戚になっていたりもする)
土岐頼芸の後ろ楯は長井長弘と長井新左衛門尉(道三父)であったのだが、その両者の没後には、小守護代長井家を乗っ取った長井規秀(道三)がその後ろ楯となり、頼芸に重用されていくことになる。
長井宗家は乗っ取られたが、長井一門は残っていたようであり、斎藤道三とこの後戦っていたりする。
道三は1535年頃から『斎藤新九郎利政』を名乗っている。
まだ持是院家の斎藤利良も帯刀左衛門尉家の斎藤利茂も存命していると思われるので、「守護代斎藤氏」の名跡を継いで斎藤氏を名乗ったという説はおかしいと思われる(偉い人早く研究しろ)。
斎藤道三の斎藤はただ斎藤同名衆となっただけなのかもしれない。
1535年に土岐頼芸は調子に乗って父政房の十七回忌の法要を執り行って、自身の正当性をアピールした。
実はまだ正式に美濃守護になっていないので焦ってしまったのかもしれん(美濃国内では実質守護)。
だがこれに頼武派が激怒した。
土岐頼武の子の土岐次郎(頼純)を担いで、朝倉・六角勢も巻き込み美濃へ侵攻する。
美濃はまたもやヒャッハー状態になる。
マジでいい加減にしろ。
土岐頼純は少し前まで父親の土岐頼武とともに「土岐政頼」として一緒くたにされ同一人物とされてきたが最近分裂した。
だが名前が「頼純」だったり「頼充」だったりしてまだ固定されていない。
1535年から1536年にかけて、美濃国内の頼武(頼純)派に、北から朝倉、西から六角、さらには南から尾張勢も攻めて来たようである。
このとき道三は頼純派の長井玄佐や斎藤利直(八郎左衛門、宗祐、宗雄、宗久とも)らと戦っているが、非常にピンチだったらしく、のちの斎藤義龍を尾張の知多半島や伊勢へと避難させている。
この騒乱の結果、土岐頼純は大桑城に入り北美濃は頼純派(旧頼武派)となるが、土岐頼芸は美濃守に推挙されて正式に美濃守護となっている。
頼純と頼芸の二頭体制で美濃は二分されるが、一応和睦した。
この和睦で大きなものは六角家の方針転換である。
これまで六角家は頼純派であったのだが、土岐頼芸が六角定頼の娘を娶り婚姻関係となった。
(土岐頼芸の娘が六角義賢に嫁いだともいわれる)
六角家が頼芸派に鞍替えしたのである。
また、美濃守護代の斎藤利茂も六角家の仲介により頼芸派に鞍替えした。
六角定頼と婚姻関係となり、正式に美濃守護と公認され、美濃守護代も自分の配下となった。
土岐頼芸はこの時が絶頂であったかもしれない。
このころ斎藤道三は守護・守護代・土岐家親族衆の次くらいで四番手あたりのポジションだったりする。
その後美濃では頼純派と頼芸派の小競り合いが続き、美濃守護代であった斎藤利茂は斎藤道三により追い落とされたのか1541年あたりで記録から消える。
斎藤八郎左衛門利直が斎藤利茂の後継だと思われるが、いまいち不明である。早く偉い人研究しろ。
ついでに土岐頼満の毒殺なんかもあったらしいが、1542年の土岐頼芸追放が今ではなかったことにされているので、土岐頼満の毒殺も年代と人物間違えているだけの気がしている。
(頼満、頼充、頼純が同一人物じゃね?)
結局頼純派は劣勢となり1543年に土岐頼純は大桑城を落とされ、今度は尾張の織田信秀のもとへ逃亡する。
これが翌年の朝倉・織田両家の再侵攻を呼び込むことになる。
知らないとか言われそうだけど、史上に名高い1544年の「加納口の戦い」である。
美濃守護たる土岐頼純が越前守護の朝倉孝景と尾張守護の斯波義統に出兵を求める形で要請されたが、実際に軍勢を率いるは朝倉宗滴と織田信秀である。
朝倉宗滴率いる朝倉軍の南下にあわせて、織田連合軍(織田信秀が中核だが、織田大和守家も軍勢を出している)が、西美濃から侵攻する。
赤坂で斎藤道三方と戦い、織田軍が勝利し大垣城などは放棄され織田方の掌中になる。
斎藤道三の本拠である稲葉山城まで攻め込まれるが、夕刻に兵を引いた織田信秀に対して、斎藤道三の奇襲が決まり織田方は多くの死傷者を出して撤退した。
その被害は5千人ともいわれ織田信秀の大敗である。
(朝倉宗滴と織田信秀相手に大勝するとか、斎藤道三マジパネぇ)
加納口の戦いのあとも頼純派との小競り合いは続くが、1546年に朝倉孝景や幕府の仲介により頼純と頼芸・道三は和睦する。
和睦の条件は土岐頼芸の守護退任だとされるが、はっきりとはしていない。
翌1547年に土岐頼純が急死したためである。
斎藤道三による毒殺ともされるが詳細は不明である。
土岐頼純の急死後に斎藤道三は大垣城を攻めるも織田信秀が後詰で出兵し大垣城を落とすことはできなかった(出兵は翌年とも)。
朝倉家は厳冬期で出兵ができなかったとされる。
正直このへんは不明な点が多く偉い人にもっと研究をしてもらわないとどうしようもない。
1547年に土岐頼芸と土岐頼純が大桑城に一緒に居た説や、このとき土岐頼芸も追放された説など、諸説あってはまだ謎のままなのだ。
だが、斎藤道三は1550年10月までは土岐頼芸に従い続けていたと考えているので、1547年の土岐頼純の死は単なる頼純派と頼芸派の争いであり、1546年の和睦が崩れただけと考えている。
大桑城は斎藤道三に攻められ落城し、土岐頼純は毒殺というか討死したのか自害したのではないかと思っている。
同時期に相羽城も落とされ長屋景興が討死し、揖斐城も落城し土岐頼芸の弟の揖斐光親が逃亡している。
1548年の斎藤正義の死なども頼純派と頼武派の争いの中のことであろうと考えている。
何にせよ、斎藤道三の研究や守護代斎藤氏の研究などはまだ全然始まったばかりのような有様なので、今後どんどん変わるかもしれない。
もしかしたら斎藤道三のイメージはもう少しだけクリーンになるのではないかと思っていたりします。
【参考 美濃斎藤(一色)氏四代】
(1)峰丸→法蓮房→松浪庄五郎→西村勘九郎正利→長井新左衛門尉→長井豊後守
(2)長井規秀→斎藤新九郎利政→斎藤左近大夫道三(山城守)
(3)斎藤新九郎利尚→斎藤高政→一色義龍(治部大輔、左京大夫)
(4)一色龍興(式部大輔)
さあ本編次話を書かねばなるまい、いや書いてますけどね
さすがに時間下さい
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本編次話の織田編がリニアホイールオーバーロードします(謎)