おまけ 美濃守護代・斎藤家の歴史(1)
「第三十六話 斎藤道三」を書くために自分なりに美濃情勢を
整理していたものを「おまけ」として組み立てたものになります。
本編とは関係ないので、本編の次話を書き上げる間のヒマな時にでも
読んでくれたらと思います。読み飛ばしても大丈夫です。
<美濃斎藤氏>
美濃守護代斎藤氏の家系の祖は、いわゆる藤原北家利仁流斎藤氏とされる。
鎮守府将軍『藤原利仁』の子の『藤原叙用』が斎宮頭に任ぜられ官職名と姓に因んで「斎藤」(斎+藤)を号した。
その子孫で越前斎藤氏の分家で河合斎藤氏の景類の子の「斎藤帯刀左衛門尉親頼」が美濃目代(国司の代官)となり1220年頃に美濃にやってきたことで、美濃斎藤氏の歴史は始まることになる。
多くの史書や系図では斎藤親頼の子に斎藤祐具を置くが、その間には実は数世代あったりする。
斎藤景類-斎藤親頼-斎藤親利-斎藤頼利-斎藤利行-斎藤利康
-斎藤祐具(頼茂)-斎藤宗円-斎藤利永-斎藤利藤
美濃国目代となった斎藤親頼から美濃守護代斎藤氏の直接的な祖とされる「斎藤祐具(頼茂)」までは系図的には上記の流れである。
(諸説ありますが自分が整理した結果ですので参考までに)
斎藤利行などは斎藤太郎左衛門尉といわれ、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚した1324年の「正中の変」で活躍したりしている。
正中の変が発覚した原因とされるのは、土岐頼員(舟木頼春とも)が愛する? 妻に倒幕計画を漏らしたことなのだが、その土岐頼員の妻の父が斎藤利行なのである。
娘から事の次第を聞いた斎藤利行は六波羅探題奉行人でもあり、倒幕計画をすぐさま六波羅へ通報し、後醍醐天皇の倒幕計画第1回目は頓挫した。
斎藤利行の娘が土岐氏に嫁いでいるように、このころから美濃の斎藤家は土岐家と繋がりを持っていたことがわかる。
室町幕府成立直前の時代の人になる。
そして利行の孫の斎藤祐具の子の『斎藤宗円(利政または利明)』から美濃守護代斎藤氏が始まるのだが、のっけからストレートに下克上まっしぐらである。
その当時の美濃守護代だった富島氏を京の土岐家の守護館で襲撃してぶっ殺している。
1444年に美濃守護土岐氏の被官になっていた斎藤宗円が、守護の土岐持益の命令で守護代の富島高景を誅殺した事件で、背景には守護の土岐持益と守護代の富島高景との対立があったと思われる。
その対立を利用して斎藤氏はのし上がっていく。
その後も美濃国内でも富島氏の勢力と戦いつづけ、斎藤宗円は望みどおり美濃守護代に就任する。
だが宗円は京の街中で富島氏残党に暗殺されちゃったりする。
守護代斎藤氏の実質初代からこんな有様なのである。
ちなみに京の評判では宗円の死は「悪党ザマー」であったそうな。
斎藤宗円の子の『斎藤利永』は父親を暗殺されたお返しにさっくり富島氏をぶっ潰して、1450年を過ぎた頃に無事に美濃守護代に成りおおせ、以後の斎藤氏の守護代の座を安泰にする。
ここに美濃斎藤氏の下克上が完成する。
だが斎藤利永は守護代に成ったらなったで、今度は主家である守護の土岐氏と揉め始めやがる。
守護の『土岐持益』の後継者問題に介入して、持益を隠居させたあげくに、出自が若干あやしい『土岐成頼』を1456年に美濃守護に据えて実権を握ってしまう。
利永の最後は中風になって死んだといわれるのだが、実権握って贅沢三昧でもしていたのだろうか。
この利永は清廉潔白な人だといわれるのだが、政敵ぶっ潰して、主人を隠居に追い込み当主を挿げ替えているので、個人的にはとても清廉潔白男にはまったく思えないのですが……(個人の感想です)
<持是院家台頭>
1460年の斎藤利永の死後はその嫡子の『斎藤利藤』が若年だったためか、利永の弟の『斎藤妙椿』が利藤の後見という形で実権を握り歴史の表舞台に登場する。
この斎藤妙椿がこれまた大暴れするのである。
応仁の乱で守護の土岐成頼とともに西軍に属し、美濃国内の東軍勢力を駆逐し、幕府の奉公衆に公家、寺社の荘園と国衙領を押領しまくる。
実に8万石ほど押領したともいう。
勢力を拡大した斎藤妙椿は近江や伊勢にまで攻めこんだ。
越前や飛騨にも介入するなど完全に主家の土岐家を越える勢力に成ってしまう。
あげく「応仁の乱」における西軍の最大級の実力者とまで言われるようになり、西軍の動向を左右する存在となる。
これ以降の守護の土岐家はもはや存在が空気みたいなものに成り下がる。
この斎藤妙椿の暴れっぷりにより、美濃は戦国時代に突入したといっても良い。
美濃国内の奉公衆はほぼ壊滅に追い込まれる。
奉公衆とは室町将軍の親衛隊であり将軍の軍事力であるのだが、その所領を斎藤妙椿に押領され美濃の所領を持つ多くの奉公衆が没落したと思われる。
有名なところでは美濃佐竹氏などがある。
美濃佐竹氏の奉公衆であった北酒出氏系の佐竹基親(馬場基親)などは所領の維持ができずに、後年同族の佐竹氏の嫡流である常陸佐竹氏を頼り常陸に下向するはめになっている。
美濃の奉公衆の多くは没落するか斎藤氏の被官になってしまったと推測する。
古今伝授で有名な東常縁なども奉公衆であり美濃に所領があったのだが、妙椿は当然のごとく東常縁の城も攻め落としている。
それを嘆く歌を東常縁が作ったら、感動したといいはり、常縁が直接自分に歌を十首送ったならば所領を返還しようなどと言い出している。
実際に所領の返還はしたらしいが、評判を気にして返しただけともいう。(個人のヘンケンです)
このように斎藤妙椿は、幕府の主流である東軍に反する西軍の将として暴れまくった。
まだ一応形だけ土岐家を推戴しているので越前の朝倉氏などよりはマシかも知れないが、室町幕府にとっては、山名宗全と近江の六角高頼とともに、この斎藤妙椿は悪魔みたいなものである。
その斎藤妙椿が1480年にようやく死ぬと、美濃では当然の如くお家騒動が勃発する。
守護代であり惣領家である斎藤利藤に対抗して、斎藤利藤の異母弟で斎藤妙椿の養子となっていた『斎藤妙純(利国)』がその基盤を受け継ぎ、斎藤惣領家と当然の如く争いだす。
斎藤妙椿・斎藤妙純の系統は『持是院家』という。美濃斎藤家は惣領家の『帯刀左衛門尉家』と『持是院家』に分裂して争うことになる。
斎藤妙純は義父妙椿の死後半年後には合戦におよび、異母兄で守護代の斎藤利藤を美濃から追い出してしまう。
斎藤利藤は7年後に幕府の仲裁で守護代に復帰するのだが、美濃の実権は持是院家が握ることになる。
斎藤惣領家の帯刀左衛門尉家の存在は空気になり、持是院家がとって代わってしまう。
<船田合戦と持是院家衰退>
美濃の影の実力者になった斎藤妙純は主家の土岐家の後継問題にも最早当然の如く介入した。
いわゆる船田合戦である。
守護の土岐成頼が嫡男の『土岐政房』ではなく、溺愛していた四男の『土岐元頼』に家督を継がせようとゴネて起こった戦いなのだが、この戦い周辺国を巻き込みまくることになる。
正直迷惑この上ない。
土岐元頼方は小守護代の石丸利光と帯刀左衛門尉家が主力で、斎藤利藤の末子の『毘沙童』が担ぎ上げられている(利藤の嫡男は早世、嫡孫の「斎藤利晴」は担がれた瞬間に風邪ひいて死んだ)。
元頼方には近江守護の六角高頼と尾張の守護代大和守家織田敏定・寛定父子が参戦している。
土岐政房方は持是院家の斎藤妙純にその弟たちと持是院家の家老の『長井秀弘』が主力で、そこに妙純の娘婿の越前守護の朝倉貞景に同じく妙純の娘婿の北近江の京極高清、尾張の伊勢守家の織田寛広までもが味方している。
正直、なんだこの豪華さは? と言いたい。
船田合戦は1495年3月に開戦し1496年の6月に終結する。
結論からいえば、土岐政房と斎藤妙純の勝利である。
この勝利により守護代斎藤利藤は隠居させられ、美濃守護代は完全に持是院家のものとなる。
持是院家による下克上の完成である。
斎藤惣領家の帯刀左衛門尉家は「斎藤利為」が斎藤利藤の養子になり継いだことになっているが、利為って誰? という研究レベルだったりする。
系図類も適当で胡散臭いし、同時代資料で人物比定ができてない。
歴史家の先生はもっと頑張れ。
勝利した斎藤妙純は翌年に調子に乗って、船田合戦で敵対した六角高頼を攻撃するため近江に攻めこむ。
連戦連勝していたらしいのだが、和睦成立後に油断していたところを土一揆に襲撃され全軍壊滅とかしたりする。
まあ間違いなく六角高頼の謀略であろう。
1497年1月のことである。
近江出陣の失敗で当主の斎藤妙純とその嫡子の「斎藤利親(妙親)」と家老の長井秀弘も討死してしまい、持是院家は大打撃を受ける。
守護代の地位こそ継承していくが、もちろん大幅に弱体するハメになる。
斎藤妙純の死後は嫡孫の『斎藤勝千代』が幼かったため、利親の弟の『斎藤又四郎』がまず守護代となるが翌年の1499年にあっさりと死んでしまう。
その後継は又四郎の弟の『斎藤彦四郎』が守護代となる。
このへんの家督相続には斎藤妙純の正室の『利貞尼』が絡んでいる。
利貞尼は京の妙心寺に多額の寄進をしているのだが、持是院家をおかしくしたのはこの女じゃないかと個人的には疑っている。(個人の感想です)
さらに斎藤彦四郎は守護の土岐政房と対立し、尾張の織田氏と結んで争うも敗れて1512年に尾張に逃亡している。
その後は斎藤利良(勝千代か大黒丸か?)が守護代となったようである。
【参考 斎藤持是院家の家督継承】
初代:斎藤妙椿、斎藤宗円の次男で僧籍のままであった
2代:斎藤利国(妙純)、斎藤利永の子で妙椿の養子、斎藤利藤の異母弟
3代:斎藤利親(妙親)、父の斎藤妙純と共に戦死、子に勝千代
3代:斎藤又四郎、利国の次男、子に大黒丸
4代:斎藤彦四郎、利国の三男
5代:斎藤利良(妙全)、利国の嫡男である斎藤利親(妙親)の子?
6代:斎藤正義?
斎藤又四郎、彦四郎あたりの持是院家は最早まともに研究もされていないので、実名も不明で誰が誰だか良く分かっていない。(人物比定できてない)
偉い人に早く研究しろと言いたいものである。
持是院家は上記のような当主交代の連続でさらに弱体化し、妙純の家老であった長井秀弘の子の『長井藤左衛門尉長弘』が台頭してくる。
この長井長弘に仕えたのが、『松波庄五郎』であり、のちに『西村勘九郎正利』、『長井豊後守』を名乗る。
ようするに斎藤道三(利政)の父親である。
おまけまで読んでくれた方には感謝しかありません
本編次話は今頑張って書いてますのでお待ちいただけると
助かります
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