第三十二話 根来(1)
天文十六年(1547年)12月
いわゆる「鉄砲伝来」以前にも日本には蒙古襲来の「てつはう」や明(中国)製の銃など、その他の火器も伝わっていたと思われる。
実際に使用されていたと記す史料もある。
だが種子島に伝わった火縄銃「種子島銃」の性能は圧倒的だったのだ。
根来や堺、国友などに伝わり製造された鉄砲は全てその「種子島銃」を源流とする。
種子島銃はその性能で「鉄砲伝来」以前の火器を駆逐した。
種子島銃は実は世界的にみても最新式だったりする。
日本の戦国時代に広く使われた鉄砲は、いわゆる「瞬発式火縄銃」なのである。
鉄砲の機構について細かく書いてもしょうがないので簡単に書くが、引き金を引くと「ばね」の力で火縄の火種を火皿に叩き付けることで、引き金を引いてから弾丸を発射するまでの時間、「タイムラグ」が非常に短くなっていた。
ヨーロッパで同時代に主流となっていた鉄砲や中国製などの鉄砲は「緩発式」で引き金を引いてから弾丸を発射するまでの時間、「タイムラグ」が長かったりする。
緩発式は引き金を長く引くことで点火するので瞬発式に比べると暴発の危険性が低い。
だがタイムラグにより命中精度ではやはり瞬発式に劣るのである。
後年のことであるが、朝鮮出兵において李氏朝鮮は日本の火縄銃を「鳥銃」と呼び非常に恐れた。
「鳥銃」は飛ぶ鳥も撃ち落とすという意味である。
瞬発式火縄銃は一瞬で発射でき命中精度が高く、動く標的への射撃や、狙撃などに向いていたのである。
この命中精度の高さは、古くから「弓戦」に特化していた大和民族の心を掴んだのであろう。
「種子島銃」はそれ以前のものと違い弓と同じ感覚で放つことができたのである。
また日本の鉄砲鍛冶師を悩ませたであろう「ネジ」が銃身の尾栓に使われており、尾栓のおかげで銃身の掃除が可能で暴発の危険性が減っている。
種子島銃の尾栓によるメンテナンス性の良さ、信頼性の高さはそれ以前の火器に比べると高かったと思われ、これも種子島銃が急速に普及した要因と思われる。
先にも述べたが、いわゆる「鉄砲伝来」以前に、倭寇などにより南蛮製の緩発式の鉄砲や明製の緩発式の鉄砲、それに銅製の銃、「てつはう」などのその他の火器類も日本に持ち込まれ実際に使われもしている。
だがそれらは瞬発式で命中率が良く、メンテナンス性にも優れた種子島銃ほどは受け入れられず普及もしなかったのである。
種子島銃はライフリングや元込め式、雷管などの銃のさらなる新技術が開発普及するまで、その性能で一線級の鉄砲であり続けたのである。
「圧倒的ではないか種子島銃は!」
(瞬発式については、日本で瞬発式に改良された説と、そもそも種子島に瞬発式の銃が伝来したとの両説があります)
日本の鉄砲の運用については当初は配備数も少なかったため集団による一斉射撃ではなく、少数の兵による狙撃的な運用方法であった。
織田信長を狙撃したことで有名な杉谷善住坊は一説によれば根来衆であったともされる。
鉄砲を買い付けに向かう根来には戦国時代において雑賀衆とともに鉄砲傭兵集団として恐れられた根来衆が居る。
雑賀衆と根来衆はよく同じような鉄砲傭兵集団だと思われるが実態はまったく違うものである。
雑賀衆は紀ノ川下流域の雑賀荘周辺を根拠とする「国人領主」である。
雑賀荘周辺の地頭職であった国人領主の連合体「惣」であり農民一揆などではない。
雑賀衆は本願寺に協力することが多く、その構成員には一向宗の門徒も多かった。
ただ雑賀衆は国人の連合体なため、一致団結して本願寺に協力していたわけではない。
根来衆は紀ノ川中流域の真言宗の寺院、根来寺のいわゆる「僧兵」である。
根来寺は戦国時代において寺領72万石ともいわれる大寺院であった。
根来寺は広大な敷地を有しており、いくつかの子院「僧坊」から成り立っていた。
それらは杉ノ坊や泉識坊、岩室坊などの名称で呼ばれる。
鉄砲伝来に関わった津田算長は杉ノ坊算長とも言われるが、津田算長の弟の津田妙算が杉ノ坊の院主であったといわれる。
根来衆もまったく一致団結などはしておらず「僧坊」単位で利権争いや合戦などもしていたりする。
新兵器の鉄砲である「種子島銃」を調達するべく、俺と米田求政が向かうのは、その根来衆の杉ノ坊である。
津田算長や芝辻清右衛門に会い、何としても鉄砲を獲得しなければならない。
◆
根来には、饅頭屋宗二殿に依頼して饅頭の行商の格好で向かった。
京から伏見、木津を通って大和に入り、饅頭屋(林)宗二殿のコネで奈良の林家に宿を借りた。
さらに大和を南下して大和南部の三光丸を作る米田本家でも宿を借りたりしている。
別に宿代をケチっているわけではない。
大和国におけるコネの強化の一環である。
せっかく伝手があるのだ、お知り合いは増やしたい。
大和南部では米田求政と相談して、求政の地元の縁者を足軽として雇い入れた。
地元では求政が淡路細川家で立派な侍大将になったと知れ渡っており結構人材が集まった。
木崎大炊助や小川権六、沢井対馬守らを取り立てた。
人材確保もこの旅の目的であったりする。
米田求政は故郷へ錦を飾ることが出来て喜んでいた。
大和南部からは紀の川沿いの大和街道を通り紀伊国に入り根来へ向かった。
根来寺ではこの1547年に国宝の大塔が建築されている。
根来寺で幕府の御部屋衆である身分を明かして、津田算長との面会を申し込んだ。杉ノ坊は現在の愛染院の場所にあったといわれる。
「御部屋衆の細川兵部大輔藤孝と申します。このたびはお会いくださり感謝いたします」
「杉ノ坊の津田監物にござる。京からはるばるお越しいただいたようであるが、この監物に何用でございますかな」
「単刀直入に申します。監物殿は種子島において鉄砲を手に入れ、それを生産することに成功したと聞き及びました。それがしは公方様に鉄砲を献上したく、購入の相談にまいりました」
「鉄砲とは一体何のことでありましょうかな?」まあ、やはりすっとぼけますかね。予想はしている。
「実は監物殿に土産がございます。まずはこれをご覧いただければと思います」
「これは……火薬でありますな」
「はい。純国産の黒色火薬になります」
「国産ですと?」うん、ツカミはOKだ。
鉄砲に使う火薬は黒色火薬である。
黒色火薬は木炭、硫黄、硝石からなる。
木炭と硫黄はまったく問題なく日本で手に入る。
だが硝石は日本では普通では手にはいらない。
硝石は国外から交易で手に入れるしかないのだが、まあ知識があれば作れたりするのだ。
「監物殿。できれば探りあいは不要に願いたい。我々は倭寇との交易以外に焔硝(硝石)を入手する方法を知っております。鉄砲の件、もう少し込み入った話を期待したいのでありますが、いかがですかな?」
「……分かり申した。しばしお待ちくだされ。種子島をお持ちいたそう」
どうやら話しに乗ってくれそうだ。
何の手土産もなしに根来の杉ノ坊に来たとして、金で鉄砲を買ったとしても何も面白くないというか、ただの客で終わってしまう。
根来の価値は鉄砲生産地であるだけではないのだ。
根来衆は戦国最強の鉄砲傭兵集団でもある。
ここはしっかりと手土産を持参して、確たるコネを杉ノ坊と作りたいと思って来ているのだ。
(基本的には根来衆は紀伊守護の畠山尾州家に属して行動することが多いので、完全な傭兵集団というわけでもないです)
◆
【根来(2)へ続く】
鉄砲伝来にはいろいろ説がありますので
あくまで私見ですけどね
最近の悩みは公方様が居ない回は書いていて
自分が物足りないことだったりする
書くスピードも落ちてるな