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第三十一話 鉄砲(2)

 ◆


 ――良く分からない騒動があったりしてダメージを受けまくったが、アレは思い出してはいけない何かだ。

 うん、さっさと忘れよう。


 俺はやるべきことをしなければならないのだ。

 まだ小さいが領地を得て地盤もできた。

 兵も雇用し訓練も始めている。

 ここからさらに戦闘力を上げるために、新兵器の購入を開始したいのである。


紀伊(きい)の国の根来(ねごろ)まで行きたいのだ。道案内を頼めるか?」


「紀伊の国の根来まで? 生薬(しょうやく)の買い付けで紀伊の国には何度か行っておりますが、何用で根来まで向かわれるのでありますか?」


「うむ、鉄砲を買いたいのだ」


「鉄砲……でありますか?」


 米田求政に頼みたいことは生産が始まったばかりの新兵器、『鉄砲』の購入のお供である。

『根来』に鉄砲の買い付けに行くにあたり求政に道案内や準備をお願いした。


 そして次にいろいろあって、非常に言い出しにくいのだが、公方様に根来まで鉄砲の買い付けに向かう旨の報告だ。

 だがまた慈照寺を留守にするわけで絶対怒るよなぁ――


「武器購入のため、紀伊の国の根来へ向かうことを、お許しいただけますでしょうか?」……(義藤さま、怒ってます?)


「ほう、今度は根来とやらに行くと申すのか。そなたは良いのう、いろいろな所へ遊びに行けて。まったくもって羨ましい限りである。そなたのことなどを心配することは金輪際(こんりんざい)まったく無いので、どこへでも好きなところへ行くがよかろう」……(べ、別に怒ってないぞ)


「あ、遊びに行くわけではございませぬ。鉄砲と云う新兵器を調達に向かうのであります」……(お土産も必ず買って参ります)


「新兵器の鉄砲とな? それがどれだけ大事な物かは知らぬが、恐らくは御部屋衆(おへやしゅう)が忠誠を尽くすべき将軍よりもよほど大事な物であるのだろうな」……(で、いつごろ帰ってくるのだ?)


「この与一郎にとっては公方様への忠節が第一、鉄砲は公方様を守るために必ずや役に立つと存じます」……(10日ほどかと)


「相変わらず口だけは達者であるのう。まあよい。もう挨拶はこれでよかろう。早くどこへでも行くがよい」……(無事に早く帰ってくるがよい)


「しばらくの留守をお許し下さい」……(必ずや)


 口では怒っていたが一応許しはもらえた。(と思う)

 どうしても鉄砲は必要なのである。

 ここは一時涙を飲んででも公方様の元を離れ、断腸の思いで行かねばならないのだ。


************************************************************

 鉄砲伝来について

************************************************************

 1606年に書かれた「鉄砲記」によれば、1543年の8月に種子島にポルトガル人が漂着し、領主の種子島時堯(たねがしまときたか)がポルトガル人から鉄砲2挺をボッタクリ価格でお買い求めになった。

 また火薬の調合もこのとき伝来したとされる。

 だが鉄砲記の記述はかなりいい加減だったりする。


 面倒なのですっとばして結論をいうが、ポルトガル人は種子島に漂着したのではなく、平戸や五島を拠点にしていた後期倭寇(わこう)頭目(とうもく)の一人である王直(おうちょく)(五峰と名乗る)が鉄砲を売りつけたいポルトガル人とともに種子島に交易のために来島したのである。


 鉄砲記では1544年には再度ポルトガル人が来島し、種子島の刀鍛冶の八板金兵衛(やいたきんべえ)が娘を生贄にして鉄砲の尾栓(びせん)(銃身の末端)に使うネジの製造技術を習得し、国産の鉄砲を完成させたとされる。

 日本人は昔から世界的にも技術のコピーの習得は変態級なので、さっさと鉄砲の自作をはじめちゃったわけだ。

 鉄砲の生産が日本で始まったわけであるが、種子島からソッコーで各地に生産技術が伝播(でんぱ)し始める。

 根来や堺、国友、伊豆、日野などに伝わっていった。


 まずは「根来」であるが、種子島時堯が最初に購入した鉄砲2挺のうちの1挺は根来衆の津田監物(けんもつ)算長(かずなが)が種子島に渡り、これまたボッタクリであろう価格で購入し根来に持ち帰っている。

 根来衆はどうやら紀伊-土佐-薩摩-明や琉球という交易ルートで(あきな)っていたふしがある。

 津田算長は鉄砲記では種子島の住民のようになっているが間違いなく根来衆である。


 津田算長は持ち帰った鉄砲の複製を根来の刀鍛冶の芝辻清右衛門(しばつじせいえもん)妙西(みょうさい)に依頼し、芝辻は1545年に「紀州一号」を完成させたという。

 鉄砲鍛冶となった芝辻はのちに「堺」に移り、堺における鉄砲の生産の祖となったともいわれる。


「鉄砲記」には、もうひとつの堺ルートも記されている。年は不明だが堺の貿易商の橘屋(たちばなや)又三郎(またさぶろう)が種子島に渡り、1年滞在して八板金兵衛から鉄砲の製造技術を学んだという。

 鉄砲製造技術の習得後、橘屋又三郎は堺に戻り、大々的に鉄砲製造と販売を行い「鉄砲又」の異名で呼ばれるようになる。


 この時代の堺は関西圏最大の貿易都市であり、軍事工場でもあった。

 武野紹鴎も今井宗久も皮革商人・武具商人である。

 また堺には河内鋳物師(いものし)といわれた鋳物師の集団が移住している。

 鋳物師とは仏像や梵鐘(ぼんしょう)(寺の鐘)などを作ってきた金属加工の技術集団で、彼らの中から鉄砲鍛冶となり堺で鉄砲を造るものが現れた。

 堺は芝辻清右衛門や橘屋又三郎、後年には今井宗久らの手によって一大鉄砲生産拠点になる。


 次に「国友」である。

 1663年に書かれた「国友鉄砲記」では種子島時堯が島津貴久の仲介で1544年に将軍の足利義晴に鉄砲を送ったとされる。

 この鉄砲は細川晴元の手で近江の国友村の国友善兵衛(くにともぜんべえ)らに渡り、国友での鉄砲生産が始まったとされるが、これはちょっと早過ぎるうえに突っ込みどころが多過ぎる。


 国友村に細川晴元から鉄砲製造の依頼があったとするならば、1548年6月から1549年6月の間ではないかと考える。

 種子島の慈恩寺(じおんじ)から京の本能寺を経由する法華宗ルートを使って細川晴元に鉄砲が献上されており、細川晴元から本能寺への礼状もあったりするのだ。


 国友村における鉄砲製造開始については、少なくとも1553年には国友製の鉄砲が贈答されるなどしており、国友村でもその前には間違いなく鉄砲の生産は始まっている。

 国友村の鉄砲製造開始については、個人的には1544年ではなく、上記の1549年ごろだと考えている。


 織田信長が1549年7月に国友村に鉄砲500挺を発注し、翌年の1550年の10月に受け取ったという話もあったりするのだ、が間違いなく無茶な話である。

 織田信長は少なくとも1553年の正徳寺における斎藤道三との会盟時には数十挺は所持していたようだが、1549年の国友村が半年で鉄砲500挺を完成させるとかまずありえない。

 全盛期の生産能力でも半年でそんな数は製造できません。


 国友と同じ近江の「日野」でも鉄砲は生産されている。

 だが日野の鉄砲生産開始時期は1555年以降といわれており、生産開始は遅かった。

 日野の鉄砲製造は国友から鉄砲鍛冶を招聘して開始したのであろう。


 細川晴元への献上の件で触れたが、京の「本能寺」は種子島で生産された鉄砲を京で販売するルートとして機能していたと思われる。

 織田信長が本能寺を重視していたのは鉄砲購入ルートと関係しているのだ。

 近年の研究では本能寺でも鉄砲の製造が行われていたとする説も出ているが、鉄砲製造については確証がまだない。


 以上のように、畿内において鉄砲を購入することを考えた場合、「根来」、「堺」、「国友」、「本能寺」、「日野」などが購入先となるのだが、作中の1547年11月の時点において、間違いなく鉄砲の製造開始が始まっているのは、畿内で真っ先に鉄砲製造が開始された「根来」である。


 鉄砲を購入するのに普通考える「国友」や「堺」ではなく、わざわざ根来まで買い付けに行くのはこのためなのだ。

鉄砲については次の話でも解説を続けます

「鉄砲伝来」により新たに日本にもたらされた

「種子島銃」とそれ以前の火器との違いですね

解説が続いて申し訳ないです


あと今回の公方様との会話は分けて読んでもらえれば

「口頭」と(心の声)てきな感じです

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[一言] フィクションではあるけれども、史実も併せて描かれていて、昔の様子というかイメージが殺伐としていたものが、人が活き活きと日常生活と文化を営んでいたんだなぁと感じた
[一言] 出張する旦那の浮気を心配する妻ぷれい おかしいなあ、衆道じゃないのにそんな関係になるはずがない
[一言] 資料としては2級ですが「北条五代記」では1510年、「三河物語」では1530年で鉄砲が確認されてます。いずれも明の銃ですが堺で大っぴらに売買されていたようです 武器というより趣向品として扱わ…
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