第二十七話 麗しの姫君(1)
天文十六年(1547年)8月
清原業賢伯父から早馬で知らせを受けた俺は、小石出村から急ぎ吉田神社に戻った。
京の混乱が落ち着いたので帰って来いの便りを出したそうで、越前の朝倉家の元に下向していた祖父の清原宣賢が帰ってきたためである。
久しぶりに実家である吉田神社に帰って来た清原宣賢は、吉田神社の変貌ぶりに驚いていた。
天文法華の乱などで荒れ果てた京を離れ、金を稼ぐために越前一乗谷までわざわざ講師として出稼ぎに行っていたのに、帰ってきたら、清原家も吉田家も金持ちになっているのである。
そりゃあ何のために出稼ぎに行ってきたのだと思ってしまうだろう。
しかも寺に入寺したはずの息子は二人とも還俗して医者と蕎麦屋の親父になっており、何だか知らないが孫が記憶喪失になり、すんげえ金持ちになっているのである。
ハッキシ言って、おもしろカッコいいぜ! ではなくむちゃくちゃ意味が分からないと思う。
だが、さすが日本一の学者である。
切り替えが早かった。戻った俺を見つけては、さすがは我が孫であると褒め称え、俺を昇殿させようと早くも朝廷工作を画策しだす始末である。
俺は今のところ無位無官なのだ。
昇殿するには最低でも従五位下以上の位階と昇殿の宣旨が必要になるのだ。
だが今の主上(いわゆる『後奈良天皇陛下』)は清廉な人柄で、ようするに金で官位を売るのが嫌いなタイプであるのだ。
俺はそれを知っていたので直接主上に献金するような真似はしていない。
朝廷工作に関しては清原家に任せていたというか、(ワイロが効かないので)実質何もしていない。
なので、そう簡単に宣旨など出るわけがないと思っていたのだが、漢学や和学の師である清原宣賢が京に久しぶりに帰ってきて、冥土の土産に我が孫へ授爵をと言われ、主上もウンといってしまったそうな。
――マジですか。
出そうな雰囲気ということで逆に焦ってしまった。
急ぎ慈照寺の義藤さまのところへ向かった。
俺は義藤さまの忠実な臣下でありたいのだ。
義藤さまの許可のない授爵などはもってのほかである。
「貰っておくがよいぞ」うんあっさりOKだしますか。
「そんな簡単に許してよろしいのですか?」
「うん。次の参内にはお主も一緒にいけるのだ。何を断る理由があろうか」
連れションならぬ、連れ参内とか恐ろしく不敬なのだが、一瞬思ってしまった。
大御所には義藤さまから話をしてくれるというので、障害はなにも無くなってしまったのである。
こんなに簡単に貰っていいものかと悩みつつも貰えるものは貰っておくことにした。
こうして従五位下の位階の授爵と兵部大輔への任官、昇殿の宣旨までまとめて貰ってしまうことになる。
そこら辺にうじゃうじゃ居る、僭称ではない本物の任官である。
史実での任官は6年か7年先のことであるので大分早いなおい。
さすがに宣旨は出たが、参内までは時期尚早ということで、次の正月にでも公方様と連れ参内の予定である。
授爵のお礼兼お祝いであるので朝廷関係者に「吉田の神酒」と「もみじ饅頭」に加え、川端道喜(まだ渡辺弥七郎だが川端道喜で)と一緒になって販売を準備していた「草加煎餅」の商品化第一号も宣伝をかねてまとめて配った。
もちろん、主上にも全て献上してもらった。
そして俺の元へどこからともなく秘密のお便りが来てしまうのである。
とある高貴なやんごとない御方が打ち立ての蕎麦と焼きたての鰻重を所望しているというお手紙である。
なんのことはない。
清原宣賢爺さんがこういう理由もつけて俺の授爵に動いていたのである。
俺は生まれて初めて禁裏に参内することになるのだ。
モチロン非公式ではある。
非公式だろうが一応参内である。
朝廷における装束の専門家である山科言継卿の屋敷と工房に無理やり押しかけ、急ぎ束帯(参内用の装束)を作ってもらうことを頼み込んだ。
見返りに米田求政が担っていた薬局の生薬の仕入れルートの利権を売り渡すことになったが、山科卿とは懇意になって損はないので喜んで売り渡した。
あとついでに公家の衣装ととある物をお借りする約束をした。
しかし、県民共済でオーダースーツを作るのが関の山だった俺なのに、戦国時代では凄くど偉いもの着ることになったものだ。
しかし束帯で蕎麦って打てるのかな? 多分無理だと思うからどこかで着替える必要がありそうだけど、どうすりゃいいねん。
まあよい、全部山科卿に丸投げすればいいだけだ。
◆
洛中に出たついでに下京にも寄っていった。
無茶な訓練で郎党の服がボロボロになっているので、追加購入のため呉服屋に行ったのだ。
そこは小出石村に行く前に郎党の揃いの服を買った店である。
店の主人の名は中島四郎左衛門尉明延という。
信濃の深志城主の小笠原清宗の子貞興の子孫で元は武士であり、父の中島宗延が戦死して、自分も怪我をしたため京で呉服屋を始めたという人だ。
ぶっちゃけ分かりやすく言えば、徳川家康の伊賀越えを助けた徳川家の御用商人として名高い、茶屋四郎次郎清延の父である。
このころはまだ「茶屋」の屋号は使っていない。
茶屋の屋号は実は足利義輝の命名だったりする。
屋号は茶屋だが呉服屋とか分かりにくいけどな。
武田信玄にフルボッコにされた小笠原長時が京の三好家を頼りに上洛して、足利義輝の弓馬指南役となったそうな。
足利義輝と小笠原長時はしばしば中島明延の茶室に寄って茶の湯を楽しんだ。
「中島の茶室に寄って行こう」が「茶屋に寄ろう」になって、「茶屋」が屋号になったという。
結構胡散臭いので伝説の部類だろう。
今も伝承しているので大きな声では言えないが、小笠原流弓馬故実の本家はどう考えたって、義輝の元服式でお馬初めを勤めた京都小笠原家が本流である。
信濃の小笠原家や今も伝承している赤澤家などは京都小笠原家から習ったのだと思うぞ。
でもまあ、茶屋の屋号に関してはそういうことなら、さっさと義藤さまを連れて来て、茶屋の屋号にしちゃいましょう。
そうしましょう。(茶屋の屋号については諸説あります)
中島明延殿は63人分の衣服を一括注文した俺を上客として扱ってくれていたのだが、さらに60人分の追加注文にまた来たのでVIP待遇をしてくれた。
おまけに自分用と米田求政用のお高い服も仕立てを頼んだのでよろこんだ。
おいしい客の自覚はある。
茶屋はこのあと御用商人として服以外にも手広く扱うようになるので誼を通じて損はない。(今でいう商社みたいになる)
お得意様になったので中島明延殿に新しくこしらえたばかりという茶室に案内されて接待された。
どうせなので思い切って聞いてみた。
「今度食いしん坊な幕府の関係者を連れて来てよろしいですかね?」
「これはこれは、いつもありがとうございます」(これは客を紹介すると勘違いされたかな?)
「茶の湯は初心者なのですが、連れて来たらこの茶室で指導してもらってもよろしいですかね?」
「ええ構いませんよ。いつもお世話になっております細川様のお頼みですので、私でよければ是非手ほどき致しましょう」
俺って別に嘘ついてないよな? 言質とったよな? よしOKだ。
「それともう一つ頼みがあるのですが」
「はい? なんでしょうか」
「追加で購入したいものがありまして、上等な女性物の小袖と被衣と――」
◆
そして後日、束帯が出来上がると、山科卿と従兄弟の清原枝賢に根回しやセッティング等はすべておまかせして、禁裏に非公式に参内した。
参内してびっくりだが、禁裏の台所とかボロボロだし、参内するときも門じゃなくて崩れた築地塀からも普通に入れそうで正直まいった。
禁裏の荒れようは川端道喜殿じゃないけど心を痛めるわ。
正式に参内して草加煎餅でも儲かったら、道喜殿と一緒に築地塀の修理でもしようかな。
そして山科卿に料理用の着替えを借りて、ボロボロの台所で蕎麦を打って、ウナギを焼く。
出来上がったら、また束帯に着替えて献上に上がるのである。
非公式なのでそこまで気を使わなくて良いのだが、個人的に礼を尽くしたかったのである。
御簾越しではあるが打ち立ての蕎麦と焼きたての鰻重を献上さしあげた。
細かいところは山科卿や従兄弟任せで、俺は作って持っていっただけである。
特にトラブルも失礼なことをしでかすこともなく無難に終えることができた。
心臓はバクバクだったけどね。
これで終わればいい話なんだけど、そうは問屋が卸さなかった。
次の日から清原業賢伯父が蕎麦屋と鰻屋が御用司(御用達)になったと喧伝し始め、またもや来店者が増えるのである。
どうせ、そんなことだとは思ってはいたが、もうコイツら(祖父と伯父です)何でもアリだな。
この時代に御用司なんてあったのか知らんが、まあ言ったもん勝ちの世界なのであろう。
健康食ブームは収まっていたのだが、またもや蕎麦屋と鰻屋に客が群れてやって来た。
だが俺はやることがあって忙しいので店はもう手伝わないことにした。
だから蕎麦屋と鰻屋はもう十分儲かっていると何度言えばいいのだ。
それに俺にはこの戦国時代にやってきて、最も重要かつ最大のイベントが待っているのだ。
これをこなさなければ何も始まらないのである。
◆
【麗しの姫君(2)へ続く】
個人的には茶屋四郎次郎とか有名人なんですけど、どうなんでしょうか?
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