第三話 戦国リアルチート
天文十五年(1546年)9月
捜索隊に発見された俺は慈照寺から実父と義父に無理やり連れ出されてしまった。
俺に記憶がないことは次期将軍である足利義藤様が二人に説明してくれた。
俺の無礼な態度や挙動不審なところは、記憶がないことで二人共納得してくれたみたいだったが、親父たち二人はとにかく義藤さまに平謝りであった。
さっさと連れ出されてしまったので、義藤さまにちゃんとした別れの挨拶が出来なかったことは残念だった。
次期将軍とやらじゃ、もう会えることもないかもしれないな……
夕暮れの中を三人で30分ぐらい(一刻)歩いて岡崎という所に向かっている。
草履で普通によく歩けるものだと、我ながら変なことに感心していると父達に話しかけられた。
「熊千代、本当に記憶が無いのか? 実の父であるわしのことも分からないのか?」
「では、育ての親であるわしのことはどうじゃ?」
「すいません分かりません。私は養子になったのですか? 大変申し訳ないのですが、自己紹介などお願いできますか?」
要領を得ない俺の返答に二人も困惑気味になる。
だが諦めたのか道すがら自己紹介をしてくれた。
「わしは、そなたの実の親で名は三淵掃部頭晴員だ」
三淵晴員? どこかで聞いたことのある名前だな。
「わしは、お主を養子にした細川刑部少輔晴広である」
「とすると、私は細川熊千代という名前なんですね。生まれは三淵家の次男ということですか?」
「そうじゃ。わしの次男で初めは万吉という名であったが、晴広殿の養子になり熊千代という名に改めたのじゃ」
――正直心当たりがある。
三淵晴員の次男で「細川」といえば、俺はもしかして『細川藤孝』なのではないだろうか?
晩年に名乗った「細川幽斎」の名の方が有名かもしれない。
だが……細川晴広という名前を俺は知らない。
細川藤孝はたしか和泉上守護家の細川元常の養子だったと思うのだが……俺の記憶違いだろうか?
記憶喪失の俺が言うのも変ではあるが、知っている知識と違うような気がする。
二人のおっさん(父たちです)の説明によれば、俺は洛中の細川家の屋敷から岡崎にある三淵家の別邸に避難して来たそうだ。
だが、いつの間にかに俺は別邸から居なくなっていたらしい。
(岡崎は京市街の南東にある地名で、愛知県の岡崎市ではない)
俺が居なくなったことに気付いた二人は、方々探していたところで慈照寺に居た俺を発見したという。
一方、三淵家の別邸から居なくなった俺は、白川という川のほとりで血を流して倒れていた。
そこを義藤さまに発見されて慈照寺で手当てをして貰った。そして気がついてからは義藤さまと呑気に勉強なんかしていたわけである。
◆
しばらく歩いて岡崎の三淵家の別邸に到着した。
見た感じは田舎の旧家とか庄屋といった感じだな。
屋根に穴が空いていなくて、屋敷の周りが草生えまくりの薮になっていなければ……であるが。
中に入ってもとにかく泣けるぐらいボロかった。
その岡崎の別邸では母親と兄だという人が中で俺を待っていてくれていた。
「わたしのこともわからないのね……」と泣き出す母親と、「義母上に心配かけるな」と叱る兄上である。
兄上の名前は三淵弥四郎で、恐らくのちの三淵藤英であろう。
腹違いの兄上というが、義理の母上を気遣う良い人だった。
実の父に実の母、それに養父と兄の4人ともが俺を熊千代だという。
この人たちは間違いなく俺の家族なんだろう。
記憶がないのが残念なほど良い人達だった。
この俺は幸せに育ったのかもしれない。
一応確認もした。記憶はないけど俺は熊千代で間違いがないのかと。
「記憶がなかろうと間違いない。お主は我が子で、今は細川刑部殿の養子である」
実父の三淵晴員が断言してくれた。少し嬉しくて涙が出そうになった。
これからはちゃんと父上とお呼びしよう。
「あなたは間違いなく私が腹を痛めて産んだ我が子です」
母上が涙ながら俺を抱きしめてくる。記憶はないけど母上だと感じることができる優しさがあった。
「わが養子になってまだ数年ではあるが、記憶がなくともお主は我が家の嫡男の熊千代である。心配しなくともよい」
義父の細川晴広も同じく断言してくれた。ありがたくてこれも涙が出そうになった。
これからはちゃんと義父上とお呼びしよう。
「大丈夫だ、いずれ思い出す。それに思い出さなくともお主が我が弟であることに変わりはない」
兄の三淵弥四郎もいいやつだった。人が良すぎるのでこの先損な生き方をしないか心配になってしまう。
食事をしながら家族四人との再会を喜ぶ。
屋敷のボロさと圧倒的な「飯マズ」がなければ感動の名場面である。
しかしなんだこの不味い飯は……聞くと「ソバの粥」と「そばがき」らしい。
洛中の屋敷から避難して来た先であるので、ろくに料理ができないらしいのだが、とにかく感動の再会の場面を台無しにするほどの飯の不味さだった。
クソ不味いがとりあえず飯は食い終わって腹は膨れたので、記憶のない俺から家族の皆への質問タイムになる。
皆の説明によると、俺は三淵晴員の次男として今居る岡崎の別邸で生まれ、幼名は万吉と名付けられたそうな。
母上は公家の清原宣賢の娘で、父の後添えになるという。
兄弟は長男の弥四郎のほかに、姉が二人に弟が一人いる。
だが二人の姉はすでに嫁いでおり、弟はまだ生まれたばかりの赤ちゃんだ。
今は母上がその弟を抱いているが、ちっちゃくて可愛いかったな。
三淵家は室町殿(室町幕府の将軍)に仕える奉公衆の家柄で、先祖はあの3代将軍の足利義満だという。(若干胡散臭いです)
実父の三淵晴員は和泉上守護家の細川元有の子で三淵晴恒の娘を娶って、三淵家に養子に入ったそうだ。
和泉上守護細川家の名が出て来た。
やはり俺はのちの『細川藤孝』のようである。
俺が6歳を過ぎたころ、次男として生まれた俺は細川晴広殿の養子になり、名を細川熊千代に改めた。
幼名が万吉と熊千代と二つあるのはそういうことのようだ。
養父である細川晴広の細川家は淡路守護家といわれる家だ。
家祖は近江の佐々木一族で大原氏出身の細川政誠という。
本来の淡路守護細川家の血筋が断絶したため、その名跡を8代将軍の足利義政の側近であった細川政誠が継いだ家である。
滅んだ名家の名跡を継ぐということは実はこの時代珍しくはない。
有名どころでは武田四天王の山県昌景や高坂昌信などがその例である。(武田信玄の重臣です)
細川政誠の子で俺の義理の祖父にあたる細川高久は、既に亡くなっているそうだが内談衆という12代将軍の足利義晴の有力な側近であった。
細川高久の子が俺の養父の細川晴広で、今は義晴の側近として幕府の御部屋衆を勤めている。
三淵家も淡路守護細川家も共に将軍の足利義晴の側近の立場である。
どうやらその縁で俺は三淵家から淡路細川家に養子に行くことになったようだ。
義父の晴広は室町殿の宿直の仕事があると言って慈照寺に戻っていった。
それに灯り用の油が少ないので早く寝ようということになり、俺の質問タイムは終わった……もしかしたら三淵家って貧乏かもしれないな。
義父を送りだしてから床に入った。
床に入るといっても布団もなく板の間に寝て、着物をかけるだけである。
所々に穴が空いている屋根を見上げながら今後のことを考えた。
――とりあえず状況を整理して見よう。
ようするに俺は生まれ変わったのか?
よくある『転生』というヤツなのか?
この時代について少し知っている知識と違いがあるようだが、状況から察すると俺は『細川藤孝』なのだろう……記憶が無くてもこの時代で生きて行かねばならない。
現代に戻る術などはまったく分からないのだから。
だが、なぜか『現代』での知識は豊富にあるのだ。
それに、この時代の知識もある。
転生して記憶がないとはいえ、家族がちゃんと居るだけ随分ましではないかと思えてきた。
「家族」か……記憶はないのだが、現代でも俺には「家族」が居たのだろうか――
◆
そして翌朝、兄上にたたき起こされた。
いろいろ考えて寝付きが悪かったので、正直まだ眠いのだが……兄上直々に剣の稽古をするといわれてしまっては、弟としては断れないのである。
「剣の腕がなまっていないか確かめてやろう」
兄上が木刀を持って俺に相対する。俺も木刀を持って構える。
木刀というか棒切れに近い、この時代に竹刀はまだ無いのだろう。
当たると痛いというか下手すると怪我するぞコレ。
だが――当たらなければどうということはない!
見えるぞ……私にも、敵(兄上です)がみえる!
なんというか兄上弱いぞ……いや、俺が強いのか?
この『細川藤孝』の元々の体のポテンシャルが高いのもあるのだろう。
さすがは戦国リアルチートなだけはある。
それに俺は現代で剣道の有段者だった気がするのだが、単純に体さばきや剣筋が兄上よりも俺のほうが上であった。
剣の稽古はなんだか一方的になってしまう。しばらくして兄上が降参した。
「すごいな熊千代。腕を上げたな。いつのまにそんなに強くなったのだ? 少し前までは俺の方が強かったはずなのだがな。一体どんな稽古をしたのだ?」
「すいません兄上。どのような稽古をしたのか覚えていないのです」(現代の剣道の知識ですとは言えません)
「そうだったなすまん。だが暇があったらまた稽古に付き合ってくれ、強い相手と戦うのは面白いものだ」
普通弟に負けたら悔しいはずだと思うのだが。
ほらよく言うではないか、「兄より優れた弟なぞ存在しねえ!!」とか。
しかし、あいかわらず兄上は人が良い。
兄上との剣の稽古を終え朝食タイムとなるが、ちくしょう相変わらず飯マズだ。
玄米と麦と雑穀の雑炊だと思うのだがまともな味がしねえ。
腹は減っているからなんとか食べたのだが、正直これは堪らないな……
朝食を終えどうしようかと思っていたら、義父上が慌てた様子でやって来て俺に声をかけた。
「熊千代、公方様がお主をお呼びである。急ぎ仕度をして慈照寺に参るぞ」
「は? 公方様ですか? そんな偉い人に会えるのですか?」
「何を言う、お主はすでに公方様へのお目見えを済ませておるぞ。ああ……すまん覚えていないのであったな」
とっても偉い人のお呼びであり、断れるものではない。急ぎ支度をして向かう。
実父の三淵晴員も出仕するというので昨晩と同じ三人で慈照寺に歩いて向かった。
慈照寺に着いたのだが少しごった返している。
どこかの郎党であろう武装した兵が、慈照寺の表門の周辺にたむろしているのだ。
義父が馬を預けに行っている間に、その集団の指揮官らしき騎馬武者が近づいて来た。
「おおこれは三淵掃部頭殿ではありませんか、お久しぶりにござる」
騎馬武者が馬から降りて父上に話しかけてきた。
「おお沼田上野介殿ではないか、熊川から参ったのか?」
沼田? 聞いたことあるな。
「うむ。洛中の噂を聞いて公方様の警護が必要であろうと参った次第だ。ん? そこに居るのは万吉殿ではござらぬか? いや今は熊千代殿であったな。大きくなったのう息災であったか?」
「ああ上野介殿じつはな……」――父上が俺の記憶喪失を沼田殿に説明している。
「それは大変な目にあわれたのう。改めて挨拶させていただこう。わしは沼田上野介光兼と申す。熊千代殿の乳母の兄であるのだぞ」
「わたしの乳母ですか?」
「そうだ……懐かしのう、わしは熊千代殿が生まれた頃から知っておるのだ」
「申し訳ありません。おぼえておりませんで……」
「気にするでない。いずれ思い出すこともあるであろう。だが、落ち着いたら妹には会いに行ってやってくれ。妹は築山殿と西岡にいるからな」
「はい。ありがとうございます」
義父上が馬を置いて戻って来たので沼田殿と別れ、公方様との面会に向かった。
◆
公方様が居るのは慈照寺で一番大きな建物である常御所である。
常御所は将軍が日常生活を送る場所であるのだが、こうした行事などでも使われている。
(残念なことに慈照寺の常御所は焼失しており現存はしていない)
「御所様にあらせられましてはご機嫌麗しゅう存じます。これなるは我が嫡子の細川熊千代にて、御意により参上させましてございます」―-義父が俺のことを公方様に紹介する。
「苦しゅうない面を上げよ」
「はっ」
「大納言、源義晴である」
「ははーっ」
室町幕府第12代将軍の足利義晴だ。
やはり公方様ともなると威圧感がはんぱないな……いや俺が緊張しているだけか。
「熊千代であったな。そちのことをえらく菊童丸が気に入ったようでな。いやすでに菊童丸ではないな義藤であるな。義藤がそちを兵法の指南役に請うてきてな。聞けばそちは清原宣賢の孫で勉学に秀でているとか。それに歳も近いので適任と思うてな。いかがじゃ? 許す。直答でよい」
「御意。未熟者にございますが粉骨砕身勤め上げまする」
というか断れるわけねーだろ。腐っても将軍直々だぞ。
「その心意気やよし。細川刑部少輔、熊千代に義藤の藤の一字を与えるゆえ、元服させよ。かりにも指南役じゃ元服させぬわけにはいかぬであろう。」
「はっ、仰せのとおりに。一字拝領恐悦至極に存じます」
「三淵掃部頭よ、弥四郎にも藤の字を与える。一緒に元服させよ。あれもよく仕えてくれているのでな」
「ありがたき幸せにございます」
「熊千代は来週には出仕させるようにな。あとはよきにはからえ」
「ははーっ」一同で頭を下げる。
急展開すぎて頭がついていけない……
とりあえず大急ぎで元服式の準備をすることになった。
結局のところ洛中の淡路細川家の屋敷は使えず。三淵の別邸もボロボロなので親戚の縁から吉田神社で元服式を行うことになった。
烏帽子親は先ほど会った奉公衆の沼田上野介光兼殿である。
そして元服後の俺の名はむろん――「細川与一郎藤孝」だ。
この経緯が史実どおりかは俺には分からないけれど。
こうして無事に? 俺は戦国リアルスーパーチートな「細川藤孝」になったわけだ。
読みにくいと思ってなるべく旧字体は使わないようにしてます。
「細川晴廣」「萬吉」「彌四郎」などが本来の字ですね。