第十七話 織田信秀(2)
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リング中央でなぜか織田信秀と神経戦を戦うはめになった俺に救世主が現れた。
トップロープから初代タイガーマスクばりにフライング・ボディ・アタックをかますヤツが現れたのだ。
そう、我が主である。
「弾正忠、そなたの嫡男の三郎信長とやら、誠に『うつけ』なのか?」
「はっ?」
いきなりの公方様の問いに返事に窮する信秀。
ボディアタックが強烈過ぎたかもしれない。
「吉法師様は『うつけ』などではありませぬ!」
声を詰まらせた信秀に代わって抗議の声を上げたのは、後ろに控える家臣であった。
「陪臣風情が公方様に対して無礼であろう!」
「この痴れ者めが」
「さすがは田舎侍。作法も分からぬでおじゃるか」
「黙れこわっぱ!」
大御所の側近や昵懇衆などから次々と非難の声があがり、場が騒然とする。
「控えよ政秀! 公方様にあらせられるぞ」
信秀が、声をあげた家臣をしかりつける。
あれが平手政秀なのかな? たしかに苦労しそうな顔をしている。
「その者は弾正忠殿の家臣か? 宴席じゃ、構わぬ直答を許すぞ」
「皆の者静まるがよい。宴席じゃ大樹もかまわぬと申しておるではないか」大御所も場を鎮める。
「公方様が仰せだ申し上げよ」大御所と公方様の言葉を受けて親父の三淵晴員が発言を促す。
「政秀、公方様に非礼を詫びるのだ」
「はっ。く、公方様、た、大変申し訳ございませんでした」
「よい、許す。それで三郎殿はどのような御仁じゃ?」
「はっ、尾張では三郎様のことを『うつけ』と称する者もおりまする。たしかに遠乗りや狩りなど少々活発なところもございますが、民や女子には心厚く接し、町衆にも気安くお声をかけ、この爺の体調なども気遣ってくれるなど、大変やさしき心をお持ちでございます。決して世評のような『うつけ』ではございませぬ」
「……そうか。三郎殿はそなたに好かれておるのだな。弾正忠は良い家臣をお持ちのようじゃ」
「はっ、ありがたきお言葉いたみ入りまする。しかし、京の都にまで我が倅の『うつけ』の噂が届いているとは思いもいたさぬこと」
「ああ、それか。そこの与一郎が教えてくれたのじゃ。その者はやたら尾張のことにも詳しくてな。そのものがお主や三郎殿のことを楽しく話してくれるのでな。わしは今日、そなたらに逢うことを楽しみにしておったのじゃ」
「はてさて、どの様なお話でありましたのやら」微笑んだ顔して俺を睨むな信秀。怖いってば。
「弾正忠、そなたは信心深き男とも聞いたぞ。伊勢の神宮の式年遷宮の費用を出したとも聞く、それにこたびの上洛では建仁寺の摩利支天堂の再建費用まで出したとか。そなたの行いにはわしも感心しておるのだ」
「こ、これは、お褒めを頂き恐悦至極にございます。しかし建仁寺の件は先日のこと、よくぞそのようなことまでご存知で、いえお耳汚しで申し訳なく」
「ああ、建仁寺の件も与一郎から聞いたのじゃ」
「ほほう。しかし与一郎殿は本当にいろいろとよくご存知でありますなぁ」
だから、睨むなよ信秀。建仁寺の摩利支天堂の件は饅頭屋宗二からの情報だ。
宗二の林家は代々建仁寺に一族を入寺させており、建仁寺の住持(住職)を何人も出すほど、建仁寺とは付き合いが深いのだ。
まあ「細川」も建仁寺とは縁が深いけどな。
「弾正忠、大樹もそなたの嫡男には興味を持った様子じゃ。次の上洛のおりには、その者も連れてまいれよ」
「はっ。仰せのとおりに」
「実は大樹から推薦があり、わしも与えてもよいと思ったのじゃが、そなたに毛氈鞍覆いに赤傘袋の使用の許可を与えることが議題になったのじゃ……だがな弾正忠。そなたの幕府に対する働きが足りぬと反対意見が多くてな。今回は見送りとなった」
「はっ」
「これから織田弾正忠家が幕府に忠義厚きことを示せば、次の上洛の折にはその許可が出せよう。それとな朝廷を敬う気持ちは確かに大事であるが、武家としては幕府をこそ大事とせよ。今後は幕府のほうに官途推挙をしかと求めるようにな」
織田信秀は朝廷に多額の献金を行い官途を受けていたりする。
幕府を無視して朝廷と繋がりを持とうとする信秀を、大御所は苦々しく思っていたという説もあったりする。
「はっ。申し訳ございませぬ」
「弾正忠、今宵は楽しかったぞ。これからはしかと幕府のために励めよ」
「弾正忠、わしも今後のお主の忠勤に期待しておるぞ」
「はは〜」
「織田弾正忠信秀、この度の上洛誠に殊勝なり――」
こうして、ともかく織田信秀の上洛を祝う? 宴は終わりをつげた。
ようやく俺の修羅場が終わったのである。
と、思ったら修羅場は違うところにあったりしたが……
◆
暗がりの中を慈照寺から宿舎にあてた建仁寺へ帰路をとる主従があった。
「政秀よ、此度の公方様への挨拶はなかなか難儀であったな」
「申し訳ございませぬ。私の不調法にていらぬ恥をかかせてしまい。これは切腹にてお詫びをするほか――」
「別に気にしてはおらぬ。おぬしは昔から何かあると切腹切腹とうるさいのう……、三郎などが真に受けたらどうするのじゃ」
「申し訳ありませぬ気をつけます」
「三郎といえば、これはあやつを嫡男にせねばならぬのう」
「はい。公方様よりも三郎様への太刀が下賜されました。これは公認されたも同義かと。大和守や我が家中の者も文句はいい出せますまい」
「そうだの」
「……殿の望むとおりになりましたな」
「ふん。別にわしは三郎を嫡男にすると決めていたわけではないわ」
「はて、そうでありましたかな?」
「しかし、これはあの細川与一郎とやらのせいじゃ」
「誠にありがたき仕儀にて」
「有り難くなんぞないわ! いまいましい。あのような若造にまんまと」
「してやられましたかな? 私には殿が上手く話しに乗られたように感じましたが」
「ふん」
「今後は細川与一郎藤孝殿が我が家の申次とのことであります」
「そうであったな。政秀はこの書状をどう見る」
信秀の手には細川藤孝からの書状がある。
それをヒラヒラと振りながら平手政秀に見せる。
「細川殿から津島の平野大炊頭宛ての書状でしたな。なにやら縁戚であるとか」
「そのようだな」
「平野家は津島十五家の一つでありますが、現在当家と争っているわけではありません」
「今のところ平野家と問題はないな」
「この書状を我らに託した意味は、まずは敵意がないこと。それと内々のことは平野家を通せということでしょうな」
「わしもそう見る」
「平野家を取次に取り立てる必要がありますかな」
「そうだな、お主に任せる。しかしあの若造が小癪なことをする」
「ですが、若いからこそ長くお付き合いすることも可能ではありませんかな。公方様もお若く、その側近の細川様もお若い。三郎様とも末長く誼みを通ずることも可能かと」
「細川与一郎藤孝とは何者ぞ?」
「申し訳ありませぬ。詳しくは情報がなく、淡路細川家の嫡子にて、先日、あの歳で御部屋衆に抜擢されたとしか」
「あやつ建仁寺の件も知っておったのう」
「お若いのになかなか情報通のようですな。ですが我が家に対する敵意は特には感じられませんでしたな」
「申次として我が家が栄えれば、かの者にも利益とはなるからな」
「はい。あとは毛氈鞍覆いに赤傘袋の使用の許可への言及でありますな」
「家格の上昇は我が弾正忠家の悲願である。これまでは朝廷や伊勢の神宮に多額の献金を行なってそれを目指しておったが、今後は幕府重視の姿勢も必要であるな」
「はい。我が弾正忠家を守護代と同格とみなすと幕府が認めることにでもなれば、三郎様のご時世においては尾張を手にすることもできるやもしれませぬ」
「わしの代ではそれは叶わぬと申すのか?」
「お急ぎ過ぎるは、敵を多く作りますれば」
「ふん。分かっておるわ」
「しかし此度の上洛、土産話が多くなりましたな」
「土産物もな」
「公方様から下賜された太刀もありまするが、酒にもみじ饅頭とやらもありましたな。三郎様は甘いものがお好きなのでもみじ饅頭とやらはお喜びになるのではありませんかな」
「まだまだ子供であるわ」
「たしかに――」
そしてこの尾張の主従が国許に帰ったその日、尾張のとある那古野城という城において、まだ若い血気盛んな武将の絶叫が響き渡ったという。
「うまいだぎゃーーー!」
その若い武将が歴史に登場するのは、まだもうちょっと先のことである。
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おまけ突発シリーズ その2
謎の作家細川幽童著「どうでもよい戦国の知識」より
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「尾張平野家と平野長泰」
今回話題にあがっている平野大炊頭は平野長治のことです。
賤ヶ岳七本槍の中でもマイナーな武将の一人である平野長泰の父になります。
尾張平野家の歴史を紐解くと、平野長治の養父である平野賢長の祖父である平野宗長は横井政持の子でその姉が清原業忠(良宣)に嫁ぎ、清原家と縁戚になります。
平野宗長は清原業忠の猶子になったとも言われます。
清原業忠は南朝に属していた時期に津島に住んでいたことがあります。
その時に尾張の横井家と繋がりができたのでしょう。
その後清原業忠は清原氏で初めて公卿となり清原氏中興の祖と呼ばれますが、その2代あとが清原宣賢になります。
平野賢長は史実では織田信長と争ったようで、津島を追われて加賀に逃れたり北条氏康を頼って駿河の善徳寺に行ったりしています。
北条早雲の母は横井氏といわれていますのでその縁を頼ったのでしょうか。
平野賢長は流浪の末結局また津島に戻るという人生を送るのですが、その平野賢長の養子になったのが平野長治です。
平野長治は信長、秀吉に仕えましたが目立った武功はありませんでした。
平野家が歴史に登場するのは賤ヶ岳七本槍の平野長泰まで待つことになります。
平野長治は清原宣賢の長男の清原業賢の次男になり、細川藤孝の従兄弟であったりします。
本編では藤孝は清原家の縁で平野長治に書状を出していますが、史実ではあまり接点はなかったようです。
平野長泰は1559年の生まれで、生まれるのは本編の12年後です。
平野長泰が活躍する賤ヶ岳の戦いなどは1583年であり、正直その年代までこの小説が続いている気がまったくしないので、平野長泰を紹介する機会が永遠に来ないと思われるので、ここに書きました。
平野長泰は賤ヶ岳の戦いで七本槍と称される活躍をあげ、豊臣秀吉の家中で頭角を現すかに見えるのだが、実にマイナーに終わる。
小牧・長久手の戦いなどでも手柄を上げるのだが、他の七本槍が大名に取り立てられる中、結局、江戸幕府で5,000石の交代寄合どまりで終わってしまう。
もう少し早く生まれてくれれば活躍のさせようもあるのだが、なんとも惜しい人物である。
作者の気が変わって、この平野家が活躍するようになったら、このおまけ文書は消えることになるので、その時は忘れて欲しい。
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織田信秀の上洛時期は多分まだ確定されてないと思います。
1547年に建仁寺の摩利支天堂の再建費用を出しているし、
年表とにらめっこしてまあこの時期かなと思って書いてます。
別の時期に上洛していたのが分かったら、藤孝が転生して、
なんと歴史が変わった! という技でも使いますかね(逃げ)
最近少しポイントの伸びが落ち着いたのでプレッシャーを感じず
のんびり書いてます。それでもきついですが。
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