第十五話 祭りの後(2)
【祭りの後(1)の続き】
◆
1月になり、メープルシロップ用の「カエデ」の樹液の採取量がジョジョに増えてきた。饅頭屋宗二に任せているもみじ饅頭の製造も順調である。
「それではよろしくお願いします。こちらがもみじ饅頭の物納分です」
「ありがとうございます。公方様と大御所様にしかとお渡しして参ります」
今後も幕府には便宜を図って貰う必要があるので、宗二殿に用意をして貰ったもみじ饅頭を上納するのである。
まずは大御所の居る慈照寺の常御所に向かった。常御所で父の三淵晴員に大御所へのもみじ饅頭の進上を伝え、取り次いで貰う。
「おお与一郎か。本日は何用じゃ?」
「本日は大御所様のご助力を頂き、無事にもみじ饅頭の生産が始まりましたので、御礼に酒とそのもみじ饅頭を進上しに参りました」
「おお、そうか無事に生産が出来たか。ではさっそくなので味見をしてやろう。一箱持ってくるがよい」
「ははっ」
箱入りのもみじ饅頭を、父の晴員が持っていって大御所様に手渡す。
「美味である! 天晴れ天晴れ」
一つ食べた、大御所はご機嫌である。
そして酒も開けてもらい、大御所に献上する。
「ほう、なかなか良い酒であるな。どれ……な、なんじゃこの酒は、かつての柳の酒にも匹敵する味わい。こ、これはどこで手に入れたのじゃ」
そういえば大御所にはまだ酒を献上していなかったな。正直忘れていたのだ。
「大御所様、それはこの与一郎が吉田社にて造っている酒になります」
「掃部頭ィ! そちはこの酒を呑んだことがあるのかぁ!」
「先日、吉田神社の節分祭にて少々でありますが」
おい親父、嘘付くんじゃねえよ。死ぬほど呑んでいただろうがー。
「この馬鹿者が、こんな美味い酒を知っていたなら早く教えんか」
「こ、これは面目ございません……」
うん、なんか親父が上司に怒られているところを見るのってキツいな。しょうがない助け舟を出してやろう。
「恐れながら申し上げます」
「なんじゃ与一郎、申してみよ」
「この酒は今まで増産の体制が整わず、吉田神社のみでしか販売が出来ておりませんでした。本日この酒を献上しましたのは、酒の増産体制が出来つつある報告と、今後毎月この酒を献上してよろしいかのお伺いに参りました次第であります」
「なんと、毎月持って参ると?」
「幕府におかれましては吉田神社における酒の製造につきまして、格別のご配慮を賜りましたゆえ、その御礼にございます」
「配慮とは?」
「はっ、先日酒税の減免の許可を頂いてございます」
「おお、伊勢守(伊勢貞孝)がそんなことも言っておったの。まあよい、与一郎まことに大儀である。今後も酒ともみじ饅頭の生産に励むように」
「ははー」
「それと、大樹の面倒も引き続き頼むぞ」――やはり大御所は公方様に甘いと思うな。
そしていつもの東求堂である。俺の教えた腕立て伏せに精を出す、新二郎に声を掛けて、腕立てなんかやっていて警護になるのか? とか思いながら東求堂に入る。
「公方様どうぞこちらをお納め下さい」
「お主も悪よのう。饅頭屋にいったいどれだけ稼がせておるのじゃ?」
「いえいえ、これも公方様のお力添えのおかげ。饅頭屋も公方様のお力添えに感謝しておりましたぞ、ふえっふえっふえっ……くしょん」
なんだかどこかの越後屋か回船問屋か悪代官と私腹を肥やす町奉行との会話みたいになっているけど健全よ?
ただのもみじ饅頭よ?
中身が黄金色の饅頭とかではないよ?
賄賂でもないよ?
ただの献上品よ?
一介の御部屋衆と公方様との健全な会話よ?
俺と義藤さまの愛の語らい――ではないな。
「どうした藤孝、健康でも優れぬのか?」
「いえ、大丈夫でございます。鼻がむず痒かっただけであります」
「そうか、まあよい。それよりもはやく饅頭をよこすのだ。わしは早く美味しいものが食べたいのだ」――はいはいと、もみじ饅頭をあげる。
「おお、さっそく頂くとしよう。うん甘いのう美味しいのう」
「義藤さま。新二郎にも分けてあげてよろしゅうございますか?」
「ダメじゃ。新二郎はこの前、わしのもみじ饅頭を黙って持っていったからな。これはぜーんぶわしの物じゃ♪」
「バレてただろぉぉぉー!」
外から新二郎の叫び声が聞こえ、義藤さまと俺は顔を合わせて笑い合った。そう、今日も慈照寺は実に平和であったのだ――
だが、京の町では動きがあったりした。洛中を長らく占拠していた細川国慶がついに洛中から撤退したのである。
◆
細川晴元と細川氏綱との争いの中で、洛中を占拠していた氏綱方の細川国慶が洛中から撤退するはめになった。
国慶は洛中の民からの支持を失ってしまったのである。
「京」、それは応仁の乱や天文法華の乱で荒廃したとはいえ、それでもこの戦国時代における日本最大の都市であり、その当時の世界においても有数の大都市なのである。
その人口は10万人を超えるともされる。
(人口推計にはいろんな説があります)
一般的に「京」は応仁の乱により荒廃したと思われるが、実は天文法華の乱による被害の方がはるかに酷いものであった。
天文法華の乱は天文の法難とも呼ばれるが、まったく知名度がない。
京都の人の冗談に、
「先の戦争で家が焼かれてしまって」
「太平洋戦争で被害にあわれたのですね」
「いえ、応仁の乱どえす」
などと言うものがあったりするのだが、天文法華の乱も入れておけとか思ったりする。
京の市街はその当時は内裏や今出川後御所が有り、公家や武家の邸宅が広がる「上京」と、町衆中心の「下京」とに分かれていた。
天文法華の乱では延暦寺と六角軍により下京のほぼ全域と上京の一部を焼かれる被害を受けている。
この時代は一向宗と法華宗、延暦寺などが血みどろの宗教戦争をぶちかましていたのである。
まずは細川晴元の要請により一向一揆が起こり、晴元と対立していた三好元長らをぶち殺した。1532年のことである。
次に、なおも暴れまくる一向一揆を、今度も晴元の要請により京の町衆中心の法華一揆と六角氏が攻め、その当時の本願寺の本拠であった山科本願寺を焼討ちし壊滅させた。
そして最後に法華宗徒により自治が行われていた京の市街に比叡山延暦寺の門徒と六角軍が襲いかかり、下京を壊滅させた天文法華の乱となるのである。
乱後には比叡山と幕府というか細川晴元に弾圧された法華宗徒は京から追い出されるハメになる。
それは1542年の後奈良天皇による法華宗帰洛の勅許まで続くのである。
後年どこかの第六天魔王が比叡山を焼討ちし、かの吉田兼見にその行為の評判を聞くなどしているのだが、かつて延暦寺の門徒に焼討ちされた京の人々がそれを責めるわけがないのである。
逆に喜んだんじゃね? とか思ったりする。
1547年当時の京は法華宗徒の帰還が始まって5年が過ぎ、再建が進んでいた時期となっており、いわばアホどもが始めた宗教戦争という盛大な祭りのあとだったのだ。
そこに細川国慶が乱入したわけであるが、京は一大消費地であり、そこに兵站の概念も無い軍隊が駐留し続けるのは結構無理がある。
結局、細川国慶は京に居座り続けるために京の市中から強引に税金を徴収せざるを得なくなった。
それは法的根拠のないものであり、幕府と公家と、なにより京の町衆を怒らせることになった。
公家や町衆が結託し、その世論に押された幕府も国慶の追討の動きを見せると、国慶は洛中から撤退するほかなかったのである。
この時、細川氏綱方も幕府と連絡を取っており、細川国慶は幕府と敵対するわけにはいかなかったからである。
細川国慶はこの後、細川晴元の追撃を受けることになり、丹波へ落ち延びる。
そして再度丹波から京を目指すのだが、大将軍(地名)で討死することになる。
さんざんぱら名前があがっていた細川国慶だが、大して見せ場もなくフェードアウトしてしまう。
こうして京から細川国慶が去ったわけだが、大御所の足利義晴は洛中の今出川御所には戻らずに、慈照寺に留まり続けた。
今出川御所とは足利義満が築いた花の御所の跡地に建てられ、1542年頃から使われた義晴の御所である。
花の御所(室町御所)より規模は小さかったとされる。
足利義晴が慈照寺に留まったままであったのは意味があったりする。この時、実は新たな城を築いているところであったのだ。
――このように細川藤孝と足利義藤が平和ボケをかましている間にも、歴史の歯車は少しずつ動いていたのである。
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