第八十五話 大津の戦い(2)
【大津の戦い(1)の続き】
◆
「ご、ご安心ください。このように三好軍の動きは手に取るように分かっているのです。三好軍が山科から大津へ攻め寄せるのであれば大津で待ち受けるだけのこと。この藤孝にお任せくだされ。源三郎、鉄砲隊の半数を率いて大津へ向かうから光秀に命じて選抜させてくれ」
「……与一郎さま、光秀は美濃にございます」
「あっ、そ、そうであったな。では鉄砲隊の選抜は俺がやるとして、五郎八と利三に急ぎ出陣の準備をさせてくれ」
「うろたえるな藤孝、金森五郎八は尾張に送ったであろうが」
「こ、これは失礼しました。で、では利三と有吉を率いて大津へ参りますれば、この勝軍山城の指揮は源三郎に任せるぞ」
「与一郎さま……」
「藤孝、その方はとにかく落ち着くがよい。源三郎ではここの指揮を執ることはできぬぞ。それが分からぬそなたではあるまい」
「あっ……」
そうだった、源三郎は和泉細川家の侍大将でしかないのだ。間違いなくここの守備を任せられるだけの能力を有しているのだが、京兆家や近衛家の内衆や奉公衆らで構成される幕府軍にあっては源三郎では位が足りないのだ……
源三郎がすまなそうな顔をしているが悪いのは俺なのだ。義藤さまの言うとおり少し落ち着こう。まだ慌てるような状況ではない。
「恐れながら申し上げます」
だがそこに今度は斎藤利三が慌てて駆けつけて来るのであった。
「斎藤内蔵助のであったな。入室を許す。何事か報告するがよい」
「公方様がお許しだ。報告をしてくれ」
「はっ、恐れながら申し上げます。吉田兼見殿の使いと申す者が参りまして、白川路を三好家の大軍が進軍して来ると伝えて参りました」
「大軍じゃと……久しぶりにこの城へ攻勢を掛けるつもりか?」
三好勢の動きは山科への進出をカモフラージュする作戦であろうか。それとも大津に兵を裂けなくするためのものか……うん、落ち着いている場合ではないな、少しは慌てても良い状況だ。
「与一郎様、大津へはそれがしが和泉細川家の軍勢を率いて参りましょうか?」
和泉細川家の軍勢だけであれば源三郎が率いることには問題がない。この勝軍山城の守備も俺であれば位負けすることなく全軍を指揮することができる。だが鉄砲隊など和泉細川家の軍勢の半数は城の守備に残さねばならないのだ。それでは手勢が足りなく大津へは細川家以外の兵も率いて向かわなければならない……
「藤孝、勝軍山城の指揮はわし自ら採ろう」
「は?」
俺が考え込んでしまっていたら義藤さまが恐ろしいことを言い出した。
「案ずるな。実際の指揮は源三郎に任せる。米田源三郎がわしに助言をするのであれば問題なかろう」
「ですが……それは危険で」
「大丈夫だ危険なことはしない。わしの周りは新二郎らにしかと守らせる。少しはわしのことを信用して欲しい。源三郎もそれでよいな」
「ははっ。非才の身ながら公方様のため働かせて頂きます」
「……分かりました。義藤さまに勝軍山城をお頼みいたします。ですが、本当に危険なことはしないでくださいよ」
「分かっておる。そなたを心配させるような真似はしない。それよりも大津のことは任せたぞ」
◆
『武士の矢橋の舟は速くとも急がば回れ瀬田の長橋』
室町時代後期の連歌師である宗長が詠んだとされ「急がば回れ」の語源にもなった短歌である。(平安時代の源俊頼が詠んだものという説があり、個人的には宗長じゃないと思っている)
この短歌で詠まれている「矢橋」は大津からみて琵琶湖の対岸にあり、大津の松本(石場)と渡し舟で結ばれていた。近江八景の「矢橋帰帆」としても有名であろう。
急がば回れの意味は、矢橋の渡し舟は比叡山から吹き降ろす強風で渡れないことが多々あったので、舟をあてにしないで南にある瀬田の長橋(唐橋)へ迂回して歩いた方が早いんじゃね……という旅の助言のようなものなわけだ。
琵琶湖から流れ出る瀬田川(宇治川になる)に掛かる瀬田(勢田)橋はこの当時は現代の瀬田唐橋よりさらに南に下った場所になり、恐らくは螢谷の東海道新幹線や名神高速の瀬田大橋のあたりであったと思われる。現代よりもさらに遠回りだったのだが、それでも迂回した方が良いということだったのだろう。
瀬田は壬申の乱や藤原仲麻呂の乱、源平合戦、承久の乱、南北朝の争いなど、幾多の戦役で戦場となり瀬田橋は重要な軍事拠点であった。瀬田橋を押さえられるということは京と東国とを分断する意味があるのだ。
【この時期に瀬田橋が有ったのかは実は微妙だったりする。天文13年(1544年)に六角定頼が瀬田橋の改修の勧進(寄付)を集めていて、本願寺第10世の証如(顕如の父)が50貫を出しているので架橋されていたと思いたい。確実なのは織田信長による1575年の架け替えであり、本能寺の変後に明智軍を妨害するために山岡景隆によって焼き落とされている】
ここまで言っておいてなんだが、琵琶湖の水軍衆(湖賊)と敵対していなければ瀬田の確保はそこまで重要ではなかったりする。琵琶湖には幾多の舟運があり、大津は矢橋と、坂本は志那と、堅田は木浜と渡し舟で結ばれているからだ。
我々も坂本さえ確保しておけば東国や六角家との連絡はなんとかなるのだが、三好軍の大津方面への進出は面白くないし、大津を抑えられると大津から坂本を狙われてしまう危険がある。
坂本の安全確保のためには我らが大津にも兵を出せるというところを見せておきたい――今回の出陣はそのための戦なのだ。
山科から逢坂越を越えて大津の町へと進軍して来る三好勢がよく見える……旗印からするとあれは松永勢のようだ。
松永勢は上関町で大津の町へ向かう軍と松本村へ別れる軍の二手に別れた。そして松永勢は凶悪にも大津の町と松本村に火をつけ始めたのである。そのような無法を許してはならないだろう――
いつの世にも悪は絶えない。その頃、室町幕府は火付盗賊改方という特別奉公衆を設けていた。凶悪な三好の賊軍を容赦なく叩き潰すためである。
強力な鉄砲隊を与えられた、この火付盗賊改方の御屋形様こそ細川平三、人呼んで──「鬼の細川平三」である!
「火付盗賊改め、細川平三であーる、神妙に縛につけい! ファイエル!」
パパパパーン
「有吉隊行くぞーっ!」
「レンジャー隊も遅れを取るな!」
といわけで本日のお仕置きタイムである。大津の町の裏手にある山に潜んでいた我ら幕府軍は、火付けを始めた松永勢の後背から満を持して襲いかかったのだ。
(今のJR琵琶湖線の大津駅のあたりなどはこのころは市街化しておらず山になっていて隠れるところは結構あったりした)
洛南の動静から山科、そして大津へ三好軍が進出することを読んでいた我々は、勝軍山城から軍勢を抽出して素早く出陣したのだ。白鳥越を通り穴太に出て、下坂本の湊で堅田衆の居初宗助と猪飼正光の軍船と合流。
そこから堅田衆の舟で琵琶湖を南下して三好軍の先回りをして大津に上陸していた。大津に上陸した我らは大津の裏の山手に潜伏して、虎視眈々と三好軍を待ち構えていたわけである。三好軍がなかなか来ないものだから山の中で昼飯まで食べる余裕っぷりであった。
さて、村に放火しまくってヒャッハーしている松永軍が裏山から突然現れた軍勢に対応ができると思うか? うん、できる訳がないのだ。
我らはいつもどおり鉄砲隊の一斉射撃後に混乱した松永勢に、斎藤利三と有吉立言を先頭に磯谷勢と堅田衆とで突撃したわけである。
ちなみに鬼の細川平三とか言いながら、俺は鉄砲隊を指揮していたので突撃はしていません。
二手に分かれた松永勢のうち松本村を襲っていた方に攻撃を集中してあっさりと壊走させた。松本から逃れた松永勢は大津の町に逃げ出すわけだが、そちらの敵勢も松本から逃げて来た味方によって混乱しまくってしまった。
大津の町や松本村は燃やされて煙をあげている。煙で視界が悪くなってしまい敵の指揮官である松永長頼は襲ってきた我らの全容を掴めずに苦労しているであろう。
苦労しているところで悪いのだが、我らは松本から逃げた敵を追って大津の松永勢にもむろん攻め懸けた。
ファイエル――ダダーン
壊走してきた味方の兵、煙による視界の悪さ、そこに鉄砲の轟音と我らの鬨の声が重なり、大津の松永勢の心は折れた。
混乱を収拾できないまま松永勢の雑兵らが逢坂越の道へ我先にと逃げ出していってしまう。これでは松永長頼も戦うことは無理であった。松永勢が大津の町から撤退を始めたことで勝負は決したのである。
我らは撤退を始めた松永勢を追うことなく北の坂本へ引き上げていく。
大津へ進出した松永勢は3,000を越える兵であり、対する我らは実は1,500の兵であって敵の半分でしかなかったのだ。
我らが半数ほどであると見抜かれてしまってはマズイのでとっとと逃げ出すに限るだろう。
三好勢に一撃を与えて大津の制圧は難しいと思わせることが出来ればそれでよい。戦略目標を達成したからには義藤さまが頑張って守ってくれているであろう勝軍山城にすぐさま戻るべきなのだ。
こうして大津の戦いは終結したのだが、戦闘時間はわずか四半刻(30分)という短いものであった。そしてこの戦いによって俺は三好勢から「鬼の細川」と恐れられるようになるのであるが、あだ名が増え過ぎで自分でもよく分からなくなって来たので、いい加減にしろとしか思わないのであった――
こんな時間ですがなんとか書けたので




