第八十五話 大津の戦い(1)
天文十九年(1550年)11月
「ではおやかたさまー行って参りますぞー」
「行って参ります」
「頼んだよー」
斎藤道三への使者として明智光秀を、織田信長への使者として金森長近を送り出した。
東美濃を斎藤道三に抑えさせて東美濃から下伊那の小笠原家を支援させる段取りとなったのだ。東美濃を抑えたあとはそこから今川家の三河進出に圧力を掛けることにもなるので織田家にも協力させる。
美濃の東の山間部になるのだが、そこの恵那郡は東濃とも呼ばれて遠山七頭と呼ばれる遠山一族が割拠している。その中でも岩村遠山家、苗木遠山家、明知遠山家が有力で三遠山とも称されていた。
だが遠山家は応仁の乱において土岐家・斎藤家とともに西軍に属しており、1473年に東軍だった松尾小笠原の小笠原家長と木曽家豊に攻められて両家に服属する状態だったりしていた。(諸説あります)
その松尾小笠原家は小笠原貞忠の代の1534年に府中小笠原家の小笠原長棟に攻められ下伊那(飯田市)を追われて甲斐の武田家を頼って落ち延びている。
下伊那の地は今のところ小笠原長時の弟である小笠原信定が松尾城に拠り、鈴岡城にはその家臣の溝口長勝が頑張っている状態だ。
東濃に影響力のあった松尾小笠原家が追われたことで、岩村遠山家の遠山景前は苗木遠山家に弟の遠山正景(正廉)を養子として送り込むなど勢力を拡大していた。
だがそこに美濃斎藤家が尾張の織田家の支援を受けつつ、幕府の命令という大義名分を掲げて攻め込むのだ。史実では斎藤道三は東濃を支配しきれていたわけではないのだが、ここではがっちり支配して貰いましょう。
<キングリムゾン――時が少し先に進みます>
久々利城の久々利頼興や小里城の小里光忠を攻めて中濃から東濃への入口をすでに確保していた斎藤道三は、嫡子の斎藤利尚(義龍)を東濃攻めの大将に任じ、中濃の諸将からなる大軍で遠山一族の割拠する恵那郡に攻め込んだ。
斎藤利尚の侵攻に明知遠山家の遠山景行が戦わずに降伏したことで形勢は一気に決まってしまった。
岩村城を大軍に包囲されてしまった岩村遠山家の遠山景前は抵抗を試みたものの斎藤家の攻勢に抗し切れず、織田弾正忠家の仲介で数日のうちに降伏開城することとなった。
降伏の条件として遠山景前は隠居することになり、嫡子の遠山景任が岩村遠山家の新しい当主となり美濃斎藤家に臣従した。
苗木遠山家も遠山正景(正廉)が隠居し遠山景武が当主となって美濃斎藤家に同じく臣従している。
岩村・苗木の両遠山家は斎藤道三の承認のもとで降伏を仲介した織田弾正忠家と婚姻関係を結んだようである。
三遠山を降した斎藤利尚は大井城を占拠し、東濃支配の拠点として大井村(恵那市)を直轄領とした。
小笠原長時は赤沢経智を使者として大井城の斎藤利尚の所へ送り、小笠原家は東濃を放棄し美濃斎藤家の恵那郡支配を承認した。また幕府の仲介により府中小笠原家と美濃斎藤家は同盟を結ぶことにもなった。
木曽谷の木曽義康もこれまた幕府の仲介で美濃斎藤家と同盟を結ぶことになる。
東美濃に拠点を構えた斎藤利尚(義龍)が下伊那の小笠原長時と木曽谷の木曽義康を支援して、武田晴信に対抗する形となったのである。
この辺の話は美濃から帰って来た明智光秀の説明によるところであるので場面と時を勝軍山城から光秀達を見送った所に戻しましょう。
<キングクリムゾン――時が捲き戻る>
「ところで藤孝、明智光秀は鉄砲隊の指揮官で、金森長近はそなたの先駆け大将であろう? 二人を美濃と尾張に送ってしまって勝軍山城の守りは大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃないですか? 三好長慶は力攻めを諦めたようですし、鉄砲隊の指揮は私が直接やっても問題ありませんので」
だが、やっぱりダメだった。二人を送り出した翌日に六角義賢が山科から撤退するという文を持たせた使者を送って来たのである。
◆
「磯谷殿、大荷駄の護衛感謝いたします」
城の絡め手で本日到着した大荷駄から衣装櫃をウキウキで受け取る俺である。篭城中のこの勝軍山城には白鳥越のルートを使って、近江の穴太から定期的に補給物資を運ばせているのだ。
「兵部様のお陰で栄えある奉公衆に推挙されたのです。大荷駄の護衛と運搬は公方様から任された我らの勤め、今後もお任せあれ」
大荷駄は近江山中の国人である磯谷久次が護衛をしながら運んでくれている。
この白鳥越の補給ルートがある限り、勝軍山城には兵糧攻めは通じないのだ。万全な守りで力攻めにもビクともしないこの城を三好家如きが落とすことなど出来やしないのだよ、はーっはっは。
「御屋形さまー! 天守へ至急お戻りください。公方様がお呼びでございます」
柳沢元政に公方様が呼んでいることを告げられるが、はて何であろう? 可愛い義藤さまがお呼びであればスグにでも飛んでいく俺である。磯谷久次に今後もよろしく頼むと告げて天守の義藤さまの部屋へと向かった。
「藤孝、大変なのじゃ。山科の六角義賢から使いが参って、六角軍が山科から近江へ引き上げると告げる文を持って来た」
「マジですか?」
「うん。この城は……だ、大丈夫であるのか?」
山科の地から六角軍が撤退してしまっては三条街道の日ノ岡峠か洛南から渋谷越を使って山科に侵入され、山科からは小関越か逢坂越にて大津に出られてしまう。
大津を三好家に抑えられると六角家の観音寺城との間を遮断されてしまうし、それに大津から北の坂本を攻められて勝軍山城の補給ルートである白鳥越を脅かされてしまう恐れも出てくるのだ。
「まーずーい、まずーい……それはかなりまずーい」
「やはりお主も困るのであるか……」
「ろ、六角家は何ゆえ撤退すると申して来たのでありますか?」
「六角家の近江帰陣の理由は京極高延と浅井久政の挙兵だそうじゃ」
浅井久政と京極高延との連合軍が琵琶湖の東岸を南下して、犬上郡の多賀に攻め込んだというのだ。多賀の場所を分かりやすく言えば彦根の南にあたり、そこまで攻め込まれてしまったということは、近江と美濃とを結ぶ中仙道が京極方に抑えられてしまったことになる。
万が一の時の大垣への撤退ルートが、美濃と尾張への交易ルートが、俺の商売が……ピンチなのです。
それに来るべき三好長慶との一大決戦のために斎藤道三や織田信長を呼び寄せるルートも中仙道であるはずなのだ。
高島郡を攻略するために散々京極高延が三好家と結ぶぞーと言い張って来たわけであり、六角義賢にも京極の動きを警戒するように言っていた。それなのに京極家に犬上郡まで攻め込まれるとはどういうことやねん……
六角義賢が山科方面に1万の軍勢で出陣した隙をついたということであろうし、三好長慶と京極高延・浅井久政とが手を結んだということであるのも分かるのだが、近江本国には六角定頼が残っていたはずなのに情けない。
「兵部大輔、何か意見はあるか?」
公方様に声を掛けられて我にかえる。そういえば軍議中であったのに、俺は考え事にふけってしまっていたようだ。
「申し訳ございません、考え事をしておりました……」
「なんじゃ皆の意見を聞いておらまかったのか。しっかりするがよい」
「も、申し訳ございません」
公方様に怒られてしまった。周りではそんな俺をあざ笑う者もいる。
「兵部大輔殿、軍議としては高島郡へ撤退する意見とあくまでこの勝軍山城に篭城する意見に大きく分かれております。この二つの意見について公方様は兵部大輔殿に意見を求めたところでありますぞ」
話を聞いてなかった俺に大和晴完殿が助け舟を出してくれる。いつも世話になって助かります……しかし、撤退か篭城かだって? そんなものは決まっている。
「撤退などはもってのほかです。たとえ六角家の援軍が望めなくとも、この勝軍山城は簡単には落ちませぬ。公方様ご安心くだされ、この細川藤孝が居る限り必ずやその身をお守りいたしましょう」
「よくぞ言ったこわっぱ!」
「おお、我らには兵部大輔殿がおられるのだ。三好家如き恐れるものではないわ」
「篭城じゃ、この勝軍山城で三好家を向かえ打とうぞ」
とりあえずハッタリで言っただけだが、俺の意見で弱腰な撤退論は封じ込めたようである。士気も上がったようだし良しとしよう。結局、軍議はこのまま篭城を続けることに決した。
「で、具体的にはどうするのじゃ? 六角家の援軍が望めなくても勝てる算段はあるのか?」
軍議のあと、義藤さまの部屋へ引き上げて開口一番聞かれてしまう。
「だ、大丈夫です。六角家が撤退したからと言って三好家が大津方面に必ず攻めて来るとは限りますまい。もしかしたら、このまま睨みあいで終わるやもしれませんし……」
「そうであれば良いがのう」
だがそこに米田求政がやって来て、当然の如く不幸な報せを告げるのだ。米田の兄貴もたまには良い報せを持って来いというのだ……
「恐れながら申し上げます。ただいま洛中の角倉家より密使が参りました。三好軍が山科へ兵を向けたよしにございます」
相手は三好長慶なのだ。六角家の撤退というチャンスを見逃すわけがないのであった。
◆
【大津の戦い(2)へ続く】




