第八十四話 吉田宗桂(2)
【吉田宗桂(1)の続き】
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吉田宗桂の謁見の翌日にも客がやって来てしまう。篭城中なのに千客万来で良いのだろうか?
謁見を求めてきたのは小笠原稙盛と茶屋明延であった。彼らは信濃守護の小笠原長時からの太刀と馬の献上を取り次いで来たのである。
小笠原氏は八幡太郎義家の弟新羅三郎義光の子孫であり清和源氏義光流になる。その系譜は源義光から源義清、加賀美遠光に繋がり、遠光の次男が小笠原氏の初代となる小笠原長清である。
小笠原長清は源頼朝の挙兵や承久の乱などで活躍し、信濃源氏の名門小笠原家の基礎を築いている。幕府の御家人として鎌倉時代を無事に生き抜き、南北朝期には小笠原貞宗が足利尊氏に協力して室町時代には信濃守護を世襲する名門ともなっていた。
だがそんな小笠原家であるが、滅亡の危機に瀕していたりするのであった。その原因はバトルジャンキー武田晴信である。(武田信玄は1559年から)
武田家も小笠原家と同じく清和源氏義光流で一応はその嫡流とされ、甲斐の守護職を世襲している。
(常陸佐竹家と甲斐武田家の義光流の嫡流争いなんてものがある)
甲斐武田家は武田晴信の曾祖父の武田信昌が守護代の跡部氏を討ち、父の武田信虎が叔父で武田家の家督を争っていた油川信恵を討ち取り、お家騒動を終わらせて武田家を統一している。さらには武田晴信がその父を追放することで守護大名から戦国大名に化けようとしていた。
対する信濃小笠原家も府中小笠原と松尾小笠原に分裂して争っていたのだが、府中家の小笠原長棟が松尾家の小笠原貞忠を甲斐に追放することでお家騒動を一応は終わらせて小笠原家の統一を成し遂げていた。
だが信濃守護の小笠原家は信濃を統一できていたわけではなく、盆地ごとに割拠していた信濃の国人らは、いち早く甲斐をまとめた武田晴信に侵略されてしまうのだ。
【参考 バトルジャンキーの軌跡】
1541年:武田晴信家督相続、父の武田信虎を駿河に追放。
1542年:諏訪平定、諏訪頼重(妹婿)自害。
1543年:小県郡侵攻、大井貞隆切腹。
1544年:諏訪郡制圧、宮川の戦い、高遠頼宗討死、高遠頼継敗走。
1545年:高遠侵攻、高遠頼継降伏(のちに自害)、駿河出兵、第二次河東の乱、今川・北条の和睦を仲介。
1546年:佐久郡内山城攻略。
1547年:佐久郡制圧、小田井原の戦いで関東管領上杉憲政の軍を破る、志賀城でなで斬り、笠原清繁討死。
1548年:上田原の戦い、村上義清に大敗、板垣信方・甘利虎泰討死。
1548年:塩尻峠の戦い、小笠原長時に勝利。
1550年7月:信濃府中制圧、林城落城、小笠原長時逃亡。
1550年9月:砥石崩れ、村上義清に再び敗退。
だめだコイツ(武田信玄です)……戦しかしてねえ。オラこんなバトルジャンキー見たことねえだ。
正直言って信濃の国人らはバトルジャンキーな武田信玄が隣に居た己の不幸を呪うしかないと思うのだ。
戦ばかりしていた武田信虎を領民のために追い出したとか美談めいた話があったような気もするけど、どのツラ下げてそんなデタラメを言うのだか……
この後は砥石城を真田幸隆が謀略で落として、あとは川中島の戦いに続いていくことになり、上杉謙信とヒャッハーしまくるわけだ。
ほぼ毎年のように攻め込んで、村上義清には二度も敗れているのに、なんで武田家は元気に侵攻できるのか正直意味が分からないデース……
「それで小笠原長時は今どこで何してるの? 上洛して来るの?」
「申し訳ありませぬ、家臣の仁木重高や弟の小笠原信定殿を頼って下伊那の松尾城か鈴岡城(飯田市)あたりに居るらしいのですが、今どこに居るのかは分かりかねます」
(この時期の小笠原長時の行動は諸説あって分からなかったりします)
「じゃあ誰が馬を持ってきたのよ?」
「赤沢伊豆守経智殿にございます。会長より小笠原家と連絡を取るように申し付けられておりましたので以前より赤沢様と連絡を私が取っておりました。その縁でこたび上洛して参った由にございます」
高島屋を創業してから気分で茶屋明延には「会長」と呼ばせている。特に意味はない、気分の問題だ。
「とりあえず赤沢殿には公方様に謁見して貰いましょう」
「よろしいので?」
「赤沢家は信濃守護小笠原家の被官で元京兆家内衆の家柄でしょ? 申次衆の小笠原備前守(稙盛)殿が正式に取次ぐのであれば何も問題はないでしょう。備前守殿もそれでよろしいですかな?」
【赤沢経智の祖父は京兆家の細川政元の被官の赤沢朝経になる。鷹狩と弓術に優れ、足利義政の弓術指南にもなっているが永正の錯乱で戦死している。赤沢朝経の戦死後に赤沢家は信濃に戻り府中小笠原家に仕えた。赤沢経智は史実では小笠原長時とともに上洛して三好長慶に仕え、嫡子の赤沢長勝は北白川の戦いで幕府軍と戦って討死する困ったちゃんだったりする。赤沢経智の三男の小笠原(赤沢)貞経は旗本になり江戸幕府の弓術師範になっている】
「兵部大輔殿、かたじけないな」
「備前守殿にはいつもお世話になっておりますので公方様に取次ぐ労くらい屁でもありませんよ」
赤沢経智の公方様への謁見は特に何も問題なく終わった。赤沢殿には小笠原長時殿に自分からのお手紙を託した。幕府として小笠原家を支援していくので、今後も茶屋明延を通していつでも連絡して欲しいなどと書いた。
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「藤孝、どこへ行っていた」
「すいません。茶屋明延と商いの打ち合わせがありまして……」
言えない……義藤さまのコスプレ衣装の打ち合わせをしていたなんて。
「そうか、それより聞きたいことがある」
「はぁ、とりあえずお茶でも入れましょう」
「聞きたいのはほかでもない、信濃の件いかがいたすつもりじゃ?」
「そうですね……武田晴信には徹底的に嫌がらせをするつもりです。小笠原長時には改めて信濃守護職を補任し、村上義清、木曽義康ら信濃の諸将には所領安堵の御内書を発給して守護の小笠原家の旗下とします。また美濃の斎藤道三、尾張の織田信長、越後の長尾景虎にも小笠原家を支援させます。言ってみれば武田家包囲網ですね」
「武田家にそなたの言う嫌がらせとやらを行って幕府になにか得になることがあるのか?」
「幕府の命によるものでない武田家の信濃侵攻には正当性がありません。幕府としてそれを強く非難することで、幕府が秩序を維持する意思があることを示す必要があるのです。これを放置すれば武田晴信は幕府を軽んじることになり、今後も幕府の意向を無視して動くことにもなりましょう」
「武田晴信がわしを軽んじておるとそちは申すのか?」
先代の武田信虎はまだ幕府の意向に従おうとしており、関東の山内・扇谷の両上杉家と結ぶなど、まだ幕府の守護の理論で動くタイプでもあったのだが、武田晴信は違うのだ。
武田信虎の追放劇とは、簡単に言えば国人衆にとっては何のトクにもならない堀越公方と古河公方の争いや、両上杉家などの関東の騒乱に首を突っ込む武田信虎に対して、甲斐の国人衆が武田晴信を担いで決起したクーデターなのである。旧来の守護の論理に対して国人衆がノーを突きつけたのだ。
その国人衆らの神輿である武田晴信は、スケールは小さいが関東の御家人に担がれた源頼朝のようなものだったりする。武田家は甲斐の国人衆の得にならない旧秩序の戦いではなく、国人衆の支持を得るための戦いを、国人衆の利益となる恩賞を確保するための領地拡大の戦争をしているのだ。
「武田晴信はもはや守護大名ではなく戦国大名なのです。守護として幕府の意向に沿って動くことよりも、自家の被官の意向に重きを置いて動いているのです」
「戦国大名とな……」
戦国大名の出現は歴史の必然でありその流れを止めることはできないだろう。だが残念ながら義藤さまは公方様であり、俺はその腹心なのだ。旧秩序と言われようが、幕府の崩壊を食い止めなければならない立場なのだよ。
自己中で申し訳ないのだが足利将軍家が戦国大名化するまでは、各地の戦国大名の邪魔は大いにさせて頂く。幕府にはまだ邪魔するぐらいの力はかろうじて残っているのでな。
「武田家には大館晴光殿を詰問の使者として送るがよろしいかと存じます。まずは信濃諸将と武田家との和睦を斡旋いたします。武田晴信は大人しく和睦を守るような輩ではありませんが、和睦の仲介をやっている間にこちらは対武田包囲網を組んでしまえば良いのです。幕府の外交力を見せ付けて幕府の存在を甲斐の田舎侍たちに思い起こさせてやりましょう」
「おぬし……また酷く人相の悪い顔をしておるぞ。おぬしを見ていると武田晴信になんぞ恨みでもあるのかと思ってしまうのだが?」
武田信玄も山本勘助もタイガードラマで全話見ていたし、武田神社(躑躅ヶ崎館跡)には3回ぐらい参拝している。武田滅亡の地の天目山にもわざわざ行ったぐらいなので、はっきり言って俺は武田信玄が大好きだぞ……恨みなんてとんでもない。
「大変な誤解です。武田家を幕府のために働かせることは出来ないかと、いろいろと考えてはみましたが手がないのです。武田晴信を幕府の味方と出来ないのであれば、その侵攻を放置するよりは敵にした方が有用であると考えただけであります……人相が悪くなっては困りますので、できれば義藤さまの膝まくらを所望したくありますが」
ちょいちょいと義藤さまが手招きをしてくれる。どうやらサービスタイムを恵んでくれるようである。
「まあよいじゃろう。わしには武田家をどう扱って良いのか考えが無いゆえな、そなたに任せるほかはあるまい」
「お任せくだされませ。あの手この手を使って徹底的に嫌がらせをしまくって、必ずや武田家が幕府を無視できないようにしてくれましょうぞ、くーっくっくっく」
「だーかーらー、怖い顔をするでないわ」
ペシっ
義藤さまにすり寄った所で頭を軽く叩かれてしまうが膝まくらは許された。人相が悪くならないように適度に義藤さまとイチャイチャしながら、夜遅くまで対武田の打ち合わせや交易の打ち合わせを続けるのであった。




