第八十四話 吉田宗桂(1)
天文十九年(1550年)11月
三好軍の城攻めをボコボコに撃退しまくったら無理な力攻めを仕掛けてこなくなってしまった。何気に暇になってしまったので油断しているわけではないのだが義藤さまとのほほんと昼飯を食っていたら角倉吉田家の吉田光治殿が謁見を求めてやって来た。
戦が落ち着いているからいいけど、よくもまあ篭城中の城に洛中から当主自ら訪ねて来ることが出来たものだ。
「公方様にあらせられましてはご機嫌麗しゅう存じます。篭城中の慰みにと思い、吉田の酒をお持ちしましたのでご賞味頂ければ幸いにございます」
「角倉殿、陣中見舞い大儀である。面をあげられよ。戦の最中にて危険も多かろうにわざわざの持参に感謝する。直答を許すぞ」
義藤さまの私室での謁見であるのでフレンドリーにやっています。
「もったいなきお言葉にございます」
「角倉吉田家にはいつも洛中の動静を伝えて頂き感謝しております」
「なんじゃ、そなたは三好方の動きを角倉より聞き入れておったのか」
「洛中のMMRの皆は非常に協力的ですよ。おかげで三好の動きがある程度分かるので先に手を打つことが可能になっております。さらに吉田光治殿の妹御は東寺執行職の栄忠殿の正室でもありますれば、東寺や洛南の三好勢の動きまでも伝えてくれますから大助かりで……おっと、義藤さまこの事はくれぐれも内密に願います」
「分かっておる。しかし抜け目のないやつじゃ……頼りにはなるがのう」
三好家は東寺と結びついて洛中支配の根拠地のひとつとするのだが、その東寺の内部にコネでスパイを作っております……金は掛かるけどね。
「それで角倉殿、三好家から睨まれたりはしておりませんか?」
「それは大丈夫にございます。三好家にもそれなりに納めるものを納めておりますれば」
「それは良かった。して、本日の用向きはご挨拶だけではありますまい? わざわざ戦の最中に訪ねて参ったのはいかような用向きでありますか?」
「実は遣明船にて渡明しておりました弟が、公方様と兵部大輔様にどうしても謁見したいと申しておりましてお願いに上がった次第です」
「角倉家の頼み事は無下には出来ませんし、私も吉田宗桂殿には是非ともお会いしたくありました。公方様、よろしくお願いできますでしょうか?」
「よいぞ、兵部大輔に頼まれては断れないからな」
いちいち俺を持ち上げてくれる義藤さまである。こういう所がマジで助かります。
「では角倉殿と打ち合わせの上、謁見の日取りが決まりましたら改めてお願いにあがります」
「良きに計らうがよい」
吉田宗桂殿のことは角倉吉田家と商売をするようになって大分以前から知っていたのだが、遣明船の準備で博多に行ってしまっていて会えなかったのだ。ようやく明から帰って来て会えるのは嬉しかったりする。
医者としても助力は願うつもりであるが、俺が吉田宗桂に期待するのはコネの方なのだ。
遣明船で二度も中国へ渡航しているわけだから、明や遣明船に対する見識はかなり高いであろうし、何より遣明船に長年関わっていることで得たであろうコネを使って遣明船に関わる人材を紹介して貰いたいのだ。
さて、吉田光治殿が喜んで帰ったところで義藤さまに声をかける。
「義藤さま、吉田宗桂殿は高名な医者になり、遣明船で大陸の明国に2度も渡航した御仁になります」
「そうなのか? それよりもおやつはまだか?」
本日のおやつである蕎麦ボーロを差し出す。リスみたいにほおばる義藤さまは可愛いものである。
「室町幕府と大陸の明との外交は、遣明船による朝貢の形式のいわゆる勘合貿易により成り立っていたのですが、義藤さまはご存知でありましたか?」
「むろん知らんぞ――もぐもぐ」
蕎麦ボーロを食べながら喋るものだからポロポロとこぼす義藤さまである。
「そんなに威張られても困るのですが……それでは、よい機会ですので一緒にお勉強しましょう。せっかく吉田宗桂殿が来られるのに話がまったく分からないのでは公方様の威厳が損なわれますからな」
「む、よきにはからうがよいぞ」
そういって手を差し出して来るのだが、これはおかわりを所望しているのだろうな……
【おまけの「義藤ちゃんと藤孝くんの日明外交史」にて義藤さまが遣明船の勉強をしておりますが、あそこまで詳しくは説明してない感じで、もう少し大雑把に勉強したと思って下さい。分かりやすくするためですが西暦とか普通に入れているしね……】
◆
数日後、吉田光治にともなわれて吉田宗桂がやって来た。今回も義藤さまの私室にての謁見である。三好軍がこのところ大人しいとはいえ篭城中だし、三好方が占領している洛中からの客とか疑われるかもしれないからな。
「源左近中将義藤である。面を上げるがよい」
(現在の義藤さまの官位は従四位下左近衛中将兼参議になる)
「ははっ」
「吉田宗桂、明国への二度の渡航まことに大儀であった。褒美をとらす。兵部大輔、用意の品を」
公方様からの下賜品と言っても俺が用意したものである。百味箪笥に印籠、珪藻土の調湿材という薬の保管用品など医者が喜びそうな物をチョイスした。
吉田宗桂からも献上品があって、明の書物や生薬などとともに砂糖が献上された。むろん義藤さまは砂糖に大喜びである。公方様の甘い物好きはしっかりリサーチされているようだ。
型どおりの挨拶を終えたあとは三人でお茶会である。吉田宗桂は策彦周良にともなわれて明でお茶会によく出席していたそうで、明で出された「団茶」と「散茶」の二つを教えてもらった。
「これは龍鳳茶というもので、明ではすでに禁止されているのですがまだ役人の間では親しまれているものになります」
龍鳳茶は龍団・鳳餅と称される高級茶でいわゆる「団茶」になり、茶葉を砕いてから固めたもので緊圧茶や固形茶とも呼ばれる。日本にも平安時代に遣唐使で入って来ていたがすでに廃れてしまった。明でも朱元璋が団茶禁止令を出しているので衰退に向かっているようだ。
飲み方は固形茶を削って粉末にして茶碗に入れてお湯とかき混ぜる方法で、ようするに飲み方としては日本の茶道の抹茶と似たようなものだ。
「あまり美味しくないな」
義藤さまは団茶が余り好みではないようである。俺も正直好きではない。
「ではこちらの散茶はいかがでしょう」
釜で炒った茶葉である「散茶」はお湯に浸して抽出する泡茶法という飲み方で飲むのだが、ようするに急須で飲む緑茶みたいなもので、いわゆる「中国茶」の元祖になる。
現代日本の緑茶や煎茶との違いは茶葉の製法の違いだ。中国茶は釜で炒る製法で日本茶は「蒸し」と「揉み」によって作られている。
(いろんな説があるので一例だと思ってください)
「こちらの方がわしは好きであるぞ」
正直言って、平成の世で急須のお茶に親しんできた俺も、「団茶」や「抹茶」よりも「散茶」の方が好みだったりする。
現代日本の急須を使って飲む形の方法は一般的には江戸時代の隠元隆琦によって中国から持ち込まれたとされ、その後に永谷宗円らによって「青製煎茶製法」が開発されて普及した。(これもいろんな説があるようです)
ちなみに戦国時代の日本のお茶は中国の「宋」の時代にのみ作られていた「碾茶」の製法が1191年に臨済宗開祖の栄西によって持ち込まれたもので、「碾茶」を粉末にした「抹茶」にお湯を入れて茶筅で攪拌して飲む、ようするに茶道のお茶である。
中国では「碾茶」は廃れてしまったので日本において独自に茶道として発展したものになる。
普段は麦茶を飲んでいるのだが、寒くなって来るとやっぱり緑茶が飲みたくなるものだ。正直抹茶は面倒くさいし、緑茶もまだ無いようだから中国式の釜炒り茶を飲んでも良いかもしれないな。
お茶をのみながら吉田宗桂に急な謁見の申し出のわけを聞いてみた。吉田宗桂としては明に2回も渡航して頑張って大陸の最新の医学を学んで帰ったと思ったら、実家の角倉吉田家が吉田の神酒でものすんごい儲かっていて羽振りが良かったり、仲の良い山科言継卿には牧庵友の会でもっと最新の医学を実践していると聞かされたりして、びっくりしまくって戦の最中でもすぐに俺に会いに来たかったということらしい。
まあ……何と言うかスマン。ちゃんと俺の医学を教えるから落ち込まないでくれ。変わりにお願いもするけどね。
お茶会で団茶、散茶、抹茶を飲み比べながら義藤さまも吉田宗桂と遣明船の話で盛り上がることが出来た。吉田宗桂も以外に博識な義藤さまに好意を抱いてくれたようである。とりあえず義藤さまの一夜漬けの勉強が役に立ってなによりだ。
遣明船の話や医学の話をして打ち解けた所で、吉田宗桂には次の遣明船の派遣期日である10年後に幕府が主導して「日本国王源義藤」としての正式な遣明船を送りたい旨を説明し、そのために準備の協力を依頼した。
まずは今回の遣明船の正使であった策彦周良との謁見のセッティングの依頼だ。策彦周良はほっとくと駿河や甲斐に下向してしまうと思うのでとりあえずそれは阻止したい。
策彦周良には次の遣明船の正使になる人物の指導をお願いしたいと思っているので、地方に行かれては困るのだ。
幕府で送る予定の遣明使の候補としては饅頭屋宗二の子の梅仙東逋か、林家の一族の和仲東靖などを今のところは考えている。
ほかに紹介して欲しいのは遣明船の総船頭(正使の乗る一号船の責任者)を努めるなど博多で豪商として栄えている神屋家だな。神屋家は石見銀山を開発した一族でもあるので是非とも仲良くしたいと思っている。
【1538年の遣明船の総船頭は神屋主計(運安)であり、石見銀山を開発した神屋寿貞やその曾孫の神屋宗湛とは同族になる。神屋寿貞は神屋主計の子であるという説もあるが多分違うと思っている】
博多の商人だけでなく堺の商人の紹介も頼んだりした。1547年の遣明船は4隻のうち3隻が堺商人の船だったりするので、京商人でもある角倉家の吉田宗桂ならコネはいくらでもあるだろう。
遣明船の派遣は10年後くらいになってしまうが、密貿易なら今すぐ出来ない事も無いのだ。高島屋で日本海経由の交易に乗り出して博多へ向かうのも悪くないだろう。吉田宗桂と話をしながら交易に夢が広がりまくるのであった――やっぱ交易は男のロマンだよな!
吉田宗桂の実名は不明です
恐らくは「光」を通字にしていると思われますが
分からんかったです(涙
「意庵」は医者の号で、「日華子」はペンネームみたいなものかな
とりあえず一番有名な吉田宗桂で通しますけど
皆様のおかげで総合評価が10,000ptに到達しましたー
ドンドンパフパフ♪ 本当にありがたいです
ブックマークしてくださった2,050人を超える皆様
評価してくださった650人弱の皆様
そしていつも読んでくれる皆様のおかげであります
これからも頑張って書いてまいりますので引き続き
藤孝くんと義藤ちゃんをよろしくお願いいたします




