おまけ 義藤ちゃんと藤孝くんの日明外交史 その7 銀
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【その7 銀】
吉田宗桂との謁見が無事に終わったので話の続きをしたかったのだが、すでに義藤さまは眠そうであった。
「んー藤孝ぁ、わしはもう眠いのじゃが……」
眠そうにしている義藤さまなぜかエロくて美味しそうである。
「もう少し現状の外交状況の話をしたくあるのですが」
「じゃあ藤孝が膝枕をしてくれるのであれば聞いてもよいそ」
まじか逆のパターンは想定していなかった。だがせっかくの申し出なので少し恥ずかしいが義藤さまを膝枕してみる。義藤さまはすごく嬉しそうにしており、甘えられるのも悪くないかもしれないと思った。それに寝巻きの小袖が少しはだけてエロくてバンザイである。
「今宵で外交の勉強は終わりにしますので、あと少しだけお付き合いくだされませ」
「ん、余は満足じゃ。少しだけなら聞いて進ぜよう」
明は一般の中国人の海外渡航と海上交易を禁止する「海禁」と呼ばれる政策を採っており朝貢以外の交易を認めていなかった。鄭和艦隊の遠征もあって朝貢する国はマラッカなど多くあり、初期には朝貢貿易がうまく機能してそれほど問題とはなっていなかった。
また、琉球が明の朝貢国として異常に優遇されており、日本や朝鮮と交易するとともに、シャムと呼ばれたタイのアユタヤ王朝やジャワやスマトラ、パレンパンなどのインドネシア、マレー半島のマラッカなどとも交易を手広く行い、明が海禁政策を採り交易を制限する中で琉球が明の肩代わりとしての役目を担っていた。
琉球は他の朝貢国が制限を受ける中で毎年の朝貢が許され、無償で大型船の支給を受け、中国各地に自由に寄港も出来るなどすんごい優遇されていた。中国の商品を大量に仕入れることが出来た琉球は大交易時代とも呼ばれる繁栄期を迎える。琉球の繁栄は後期倭寇の密貿易やポルトガルの参入、明の海禁解除まで続くことになり、琉球が東アジア交易の需要を充たしていたとも言えるだろう。
「琉球は薩摩の島津とやらと交易をしているのだったか?」
「薩摩の島津家に周防の大内家、それに博多商人や堺の商人も琉球とは交易を行っております。応仁の大乱以降は幕府と琉球との正式な外交は途絶えておりますが、琉球が交易で手に入れている明や東南アジアの産物を求めて私貿易は活発に行われているようです」
「おいしい物もあるのか?」
「東南アジアの香辛料や中国産の味醂に砂糖などは琉球との交易でも日本に入っているものと思われます」
「よし、幕府も琉球と交易して砂糖を手に入れよう」
「まずは交易できるぐらいに幕府を立て直すのが先ですけどね」
琉球はアユタヤ王朝やマラッカと頻繁に交易を行っていたのだが、そのマラッカが1511年にポルトガルによって攻撃され占領される事態となり、比較的安定してしたアジアの交易世界に大きな変化が訪れる。
マラッカはマラッカ海峡に面したマレー半島南部の国であり北のアユタヤ王朝の攻勢に晒されていたが、鄭和艦隊の来訪によりいち早く明に朝貢したことで独立を維持していた。
またマラッカはイスラム化することでムスリム商人の東アジアへの拠点ともなり、東アジアとインド洋とを結び、また東南アジアの特産品である香辛料も集るこの時代最大の交易拠点として大いに繁栄していたのだ。
ポルトガルという名の悪魔はそのアジアの交易センターとなっていたマラッカを力ずくで奪い取りアジアに土足で乗り込んで来るのだ。ポルトガルのアジア進出はヴェネチアやムスリム商人に独占されていた香辛料の獲得が目的であったとされる。
(香辛料としては当時モルッカ諸島のナツメグやチョウジに、スマトラ島の胡椒が有名であった)
1498年ヴァスコ・ダ・ガマが南アフリカの喜望峰を回ってインド(カリカット)に到達し、インド航路が開かれた。
1509年にはディーウ沖の海戦でポルトガルがイスラム勢力に大勝し1510年にはインド西岸のゴアを占領して橋頭堡を確保。そして1511年には早くもマラッカを占領してしまったのだ。ポルトガルは海のシルクロードに強引に割って入って来た。
(マラッカ王は逃れてジョホール王国となっている)
交易の一大拠点だったマラッカを占領し東洋交易の情報を得たポルトガルは1517年に使者を広州に送り明と外交関係を結ぼうとするのだが、朝貢国だったマラッカを滅ぼしたことに加え、朝貢しか認めない明と自由交易を希望するポルトガルとは相容れずに交渉は決裂した。
明と正規の交易を行えなかったポルトガルは密貿易を行うようになる。
「そなたはなぜその南蛮人とやらについて詳しく知っておるのだ?」
「パラドゲーにハマリまくった私には世界史にも死角はないのです。大航海時代とか大好物でありますので」
「あーうー、頼むからわしと会話する努力をしてくりゃれ……」
1419年の望海堝の戦いでの全滅や対馬と李氏朝鮮との交易の安定化により前期倭寇は沈静化していたのだが、明の全盛期が終わって海禁政策に緩みが生じて1500年代から後期倭寇の活動が目立つようになっていく。
王直以前の後期倭寇の首領としては許棟などがおり、王直もこの許棟の部下であったとされる。
1540年頃に許棟がマラッカに赴き、ポルトガル人を後期倭寇の拠点となっていた舟山群島の双嶼に連れて来たとされる。後期倭寇の勢力とポルトガル人とが結びつき、東アジアにポルトガル商人が現れるのだ。
【双嶼は舟山群島の六横島の西岸の港でこの当時は後期倭寇の根拠地となっていた】
そして1543年に王直は自分のジャンク船にポルトガル人2名と鉄砲を乗せて恐らくは交易を行うためにレキナか薩摩の坊津に向かったものと思われる。レキナとは琉球のことである。(最初から種子島に向かっていた可能性もあります)
琉球に向かっていた王直のジャンク船が漂流して種子島に漂着することになった。種子島の者らと筆談したとされる五峯は王直のことであり、種子島に漂着したのはポルトガル船ではなく、王直のジャンク船であったのだ。
(王直は大変教養があったとされ明儒五峯という偽名を乗っていた)
こうして王直のジャンク船に乗っていたポルトガル人商人のフランシスコ・ゼイモトとアントニオ・ダ・モッタから種子島時堯が鉄砲を買い上げることになり、日本に鉄砲が伝来したわけである。
この時に伝来した鉄砲はシャム(タイ)製かマラッカ製の鉄砲であったと思われ、「鉄砲伝来」とはこのような経緯だったと思われる。
細川京兆家の遣明船が使ったようにこの時代すでに、堺-紀伊-土佐-薩摩という南海ルートの交易路が存在していた。紀州根来の津田算長や堺の橘屋又三郎(鉄砲又)はその交易ルート上で商売をしており、鉄砲の存在を知っていち早く種子島に駆けつけた。そして彼らの手によって鉄砲の生産が畿内へと広まっていくことになったのだ。
王直は1540年頃には五島列島の福江島に、1542年には平戸へとすでに来島しており恐らくは鉄砲や硝石の販売もやっていたものと思われる。
日本への鉄砲伝来は1543年の種子島より早いと思われるのだが、日本全国への鉄砲の普及は種子島への伝来あってこそであるので、やはり1543年の鉄砲伝来は大事であるのだ。(種子島への鉄砲伝来は1542年説もあります)
1544年には大友船が寧波に遣明船として来航するが入港できずに双嶼で後期倭寇の勢力と接触することになる。この大友船の1545年の帰国に際して王直が日本へ来たとされており、博多商人と後期倭寇とが接触することになった。王直は博多商人を双嶼に連れて行き、博多商人と後期倭寇が盛んに密貿易を行うようになっていく。
この頃の双嶼は後期倭寇にポルトガル人、博多商人が密貿易を行う悪の巣窟になっていたわけだ。
双嶼の密貿易は派手にやり過ぎたのだろう1548年に明によって攻撃されて壊滅してしまう。許棟などの後期倭寇の首領は捕縛されてしまったようである。
だが、後期倭寇の勢力は全滅したわけではなく多くが生き延びて各地へ分散した。
【舟山群島は双嶼のあった六横島以外にも1300を超える島があり、それら全てを制圧するのは不可能であろう】
王直は双嶼から根拠地を五島や平戸に移すことになり、日本メインの活動にシフトすることになる。王直は大内義隆とも謁見を果たし後期倭寇のドンとして、五島列島、平戸、博多、薩摩、周防などに活動域を広げて博多商人らと硝石などの密貿易で活躍することになる。
1550年の6月には平戸にポルトガル船が来航し、日本とポルトガルの直接交易も始まることになるのだが、それは王直がポルトガル船を平戸に招いたとされる。
「そんなわけで我が国における交易の現状は、後期倭寇とポルトガル商人を介して行われる密貿易が主流となっているわけです」
「そなたは、そのポルトガル人とかいう南蛮人や後期倭寇と交易を行いたいのであるか?」
「可能であるならば交易を行いたいと存じます」
「今更なのだが交易って何を売って何を買っていたのじゃ?」
「いい質問ですねぇ。実は我が国が売れる物は限られております」
「そうなのか?」
「はい、我が国が交易で売っていた物は銀などの鉱物資源なのです」
「銀?」
義藤さまが「銀」をよく知らないのは決して義藤さまがポンコツなわけではない……と思う。実は日本には銀の精錬技術が無く、わずかに採れる自然銀以外はほとんど流通していなかったのだ。(いろんな説があります)
銀鉱山はすでに飛鳥時代の674年に対馬銀山が開発されていたが、日朝貿易の決済ぐらいにしか使われていなかったともされる。
(逆に言えば戦国時代まで需要がなかったので対馬ぐらいでしか銀は採掘されていなかったりする)
日本ではあまり価値のない銀であったが、むろん国外では状況は違っている。日本以外の世界では銀鉱石の精錬は古くから行われており、金貨とともに銀貨も高額貨幣として広く流通していた。
また明では1530年頃から江南において土地税と徭役(労働税)とを銀で納める「一条鞭法」が採用され始め、銀の需要が急激に高まっていたのだ。
後期倭寇やポルトガル人は明で需要の高まった銀を求めて大挙して日本にやって来ていたのだ。
なぜ彼らが日本にやって来たのか、それはこの時期の日本では銀の産出量が飛躍的に増えていたのだ。その銀は世界遺産にも登録された石見銀山(大森銀山)からもたらされていた。
出雲大社(杵築大社)の北にある鷺銅山から銅鉱石を買い付けていた博多商人の神屋寿貞が、1526年頃に鷺銅山の技術者の協力得て石見大森銀山からの銀鉱石の採掘に成功した。
採掘した銀鉱石は当初は朝鮮に運ばれて精錬されていたのだが、1533年に「灰吹法」という新しい精錬技術を導入して、石見銀山の現地で精錬を行なうことが可能となり銀の生産量が飛躍的に増えたのである。
(灰吹法がもたらされたのは中国説と朝鮮説があるが、恐らくは朝鮮からであると思う)
1542年には但馬守護職の山名祐豊によって灰吹法が導入され生野銀山も開発されている。新たな銀を求める商人によって「灰吹法」が日本各地にもたらされることになり次々と銀山が開発されていく。ようするに戦国時代の日本は「シルバーラッシュ」状態なのだ。
「銀以外に交易品はないのか? それと我が国は交易で何を買っていたのじゃ?」
「時期によって変わります朝貢貿易や日朝交易では――」
・朝貢貿易における明からの輸入品(下賜品は別)
銅銭、生糸、絹織物、陶磁器、生薬、砂糖、書物など
・朝貢貿易における明への輸出品(献上品は別)
銅鉱石、硫黄、日本刀、工芸品(扇子、漆器など)など
・日朝交易における朝鮮からの輸入品
綿布、木綿、朝鮮人参、経典など
・日朝交易における朝鮮への輸出品
銅鉱石、硫黄など
「現在では明や南蛮人との密貿易や朝鮮との交易ともに銀を売ることが主力となっております。買い付け品では硝石が増えているでしょう」
「ふむ……しかし、そなたは交易をしたいと言うが、銀をどうやって手に入れるのだ? それに堺は三好勢に押えられているから交易する手段もないのではないか?」
「若狭小浜から日本海を使って交易する手段を考えております。それと銀を手に入れる方法が無くはないのです」
「どのような手を使って銀を手に入れるのじゃ?」
「越後屋を使って長尾景虎殿の越後で銀鉱山を開発しようと考えております」
「越後で銀が採れるのか?」
「なかなか有望な銀山があるとすでに報告を受けております」
「もうすでに探しておったのか」
「ふっふっふ、この藤孝にぬかりはありませぬぞ」
まだ全然動いてはいないのだが、すでに調べたことにしておかないと、なぜ知っているのか疑われてしまうからな。それに銀山開発以外にも銀を手に入れる方法はまだ他にもあったりする。
「まあよい。売るものは銀だとして、そなたは交易で何を買うつもりなのじゃ?」
「とりあえず南蛮人との交易で金平糖やカステラという甘ーいお菓子が手に入ると存じます」
「許す、じゃんじゃん交易するがよいぞ」
「ありがとうございます」(相変わらずちょろいものだ)
「まあわしには交易はよく分からぬ、そなたに全部まかせるから好きなようにやるがよい……ふわぁ……いい加減に夜もふけた、わしはもう寝てもよいかぁ……」
「よろしければ添い寝でもいたしましょうか?」
「ばっ、馬鹿を申す出ないっ! わしはもう寝るから早く出て行けーっ!」
残念ながら義藤さまに部屋から追い出されてしまったが、とりあえず義藤さまから交易のお墨付きを貰ったのでよしとしよう……
この後の流れも俺はよく知っている。日明貿易は倭寇やポルトガル人を介した密貿易が主流となり、正式な朝貢貿易は行われなくってしまい、最終的には豊臣秀吉によって日明関係はぶっ壊れる。
後期倭寇はこの後に「嘉靖の大倭寇」という全盛期を迎えることになるが、いろいろあって王直は明に捕らえられて死ぬことになる。
ポルトガル人は中国のマカオを占領してやりたい放題になっていく。そういえば日本人にとって最も有名な南蛮人が来るのもそろそろであろう……
早く国をまとめて交易の世界に打って出なければ、ポルトガル人やスペイン人にいいようにやられてしまう。三好長慶に攻め込まれて何も出来ない幕府ではあるのだが、俺一人ぐらいは世界に目を向けていても良いではないか。
室町幕府を再興できたら朝貢貿易を再開して、大きな船を造って大海原に漕ぎ出すのだ。日本国王源義藤のもとアジアの海を支配する海洋国家な日本を夢想するのは……すごく楽しくはないか? 今日は興奮して寝むれないかもしれない……夢は広がりまくりなのだ――
とりあえず番外編やっと終わった……
これでもだいぶ端折ったんだけど
こんなに長くなるとは思わなかったんだよー(涙
さあ、本編を書こうか
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