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おまけ 義藤ちゃんと藤孝くんの日明外交史 その6 海のシルクロード

【その5の続き』

 ◆


【その6 海のシルクロード】


 とりあえず寧波(にんぽー)の乱からその後の動きがどうなったのか……

 足利義稙(あしかがよしたね)を擁していた大内義興(おおうちよしおき)の死後、その嫡子(ちゃくし)大内義隆(おおうちよしたか)足利義晴(あしかがよしはる)に使者を送って和睦している。足利義晴は大内義隆との和睦を喜び、遣明船派遣の奉行人奉書(ぶぎょうにんほうしょ)を出して大内家の権利を認めてしまったのだ。


(裏で大内義隆が(みん)琉球(りゅうきゅう)から幕府への連絡を遮断(しゃだん)していることも知らずにだ)


 そして大内義隆は幕府にお伺いを立てながら、3隻独占して遣明船を送ることになる。これは1538年(明着1540年)に出航するのだが、寧波の乱で途絶して以来16年ぶりの遣明船の渡航になる。


 だが実は大内義隆のほかに細川晴元(ほそかわはるもと)(さかい)商人も遣明船を渡航させようと動いていたりした。「堺渡唐船(さかいととうせん)」と呼ばれものである。

 このまま大内船と細川船の二つの遣明船が出航してしまうと、寧波の乱の二の舞になる恐れもあったが、大内義隆による幕府への差し止め依頼と畠山稙長(はたけやまたねなが)の妨害などもあり、細川晴元の用意した船はこの時には明へ渡航できなかった。とりあえず場外乱闘2戦目はなんとか防がれたのである。


 細川晴元のその後はご存知のとおり、細川氏綱(ほそかわうじつな)との京兆家(きょうちょうけ)の家督争いやその後の三好長慶(みよしながよし)との争いで遣明船とかやってる場合じゃねーということになってしまい、遣明船は大内家の独占するところとなる。

 大内義隆の送った遣明船は明としてもこれ以上寧波の乱の問題を大きくしたくなかったのだろうか、文句をいろいろ言われながらも明に受け入れられた。


「なんだか大内家が勝手に遣明船をやっているようで面白くないな」


「遣明船の主導権を幕府に取り返すことは必要でありましょう」


 そして独占のかなった大内義隆は次の遣明船もウキウキでて天文16年(1547)に早くも渡航させる。だがこれは10年たたずに渡航させてしまったので明に入港をゆるされなかった。だが、寧波の沖にある舟山群島(しゅうざんぐんとう)の嶴山(岙山)に8ヶ月居座ったりするはめになったりもしたが、正使の策彦周良(さくげんしゅうりょう)が粘り強く交渉してなんとか朝貢を許されることになった。


(そしてこの遣明船が最後の公式な遣明船となる)


 正使の策彦周良は前回の遣明船でも副使として渡航しており、この時代の日明交渉のスペシャリストと言ってよいだろう。ほかにも医者の吉田宗桂(よしだそうけい)も前回に続けて2回目の渡航だったりする。

 また、この遣明船には堺商人の小西(こにし)弥左衛門(よざえもん)次忠(つぐただ)行正(ゆきまさ))も参画していたりする。博多商人と堺商人もある程度妥協したのだろう。ちなみに小西次忠は小西隆佐(こにしりゅうさ)の父で小西行長(こにしゆきなが)の祖父ともされる人物だ。


「吉田宗桂は角倉(すみのくら)吉田家の者と言っていたな」


「はい。吉田宗桂殿は吉田宗忠(よしだそうちゅう)殿の次男で吉田光治(よしだみつはる)殿の弟になり医術を継いでおります」


(吉田宗桂の長男が朱印船貿易や高瀬川の開削で有名な京都の豪商の角倉了以(すみのくらりょうい)になる)


「これからその吉田宗桂殿が謁見を求めて参りますのでよろしくお願いしますね」


「ん、分かった」


 ところで、この大内義隆の2回の遣明船の間にもうひとつ謎の遣明船が渡航していたりする。それは釈寿光を正使とするもので1544年に明に渡航している。この遣明船は10年1貢の規定違反かつ上表文(じょうひょうぶん)も持っていなかったので、明に入港を許可されず追い払われた。


「上表文?」


「日本国王から中国皇帝へ送る文書ですね。国王の上表文と勘合(かんごう)を持っていない遣明船は明が入港を認めてくれないようです」


「上表文は誰が書くのだ?」


「一応は日本国王の義藤さまが書く物ですが、禅僧が書いてくれるので問題ありません」


「わしって日本国王なの?」


「そうです。日本国王源義藤さまに相成ります」


「言葉を慎むがよい、そなたは日本国王の前にいるのだ」


「めがー、めがー」


 追い払われたこの謎の遣明船はどうやら大友家が派遣した船のようで、1年ぐらい寧波の近海をウロウロしてから帰ったとされるが、実は舟山群島の双嶼(リャンポー)で密貿易に従事していたようである。この大友船は商談がうまく行ったのか、王直(おうちょく)を乗せて日本に連れて行ったとされている。


(謎の遣明船は大内家と争っていた大友義鑑(おおともよしあき)が送ったものではないかと考えられている。細川晴元の用意させた堺渡唐船が転用されたとも考えられており、堺商人が九州勢力と繋がったのであろう)


「王直? どこかで聞いたことがある名だな」


「王直は後期倭寇の頭目とされる人物で、日本への鉄砲伝来にも関わっていたとされる超重要人物なのです」


「そなたが買い集めている鉄砲には後期倭寇が関わっていたのか」


「はい。そしてこの大友船によって日本と後期倭寇が結びつくことになり、日本は遣明船に頼らずともよくなり密貿易によって中国との交易を拡大していくことになるのです」


「それで後期倭寇とは結局何者なのだ」


「明の海禁(かいきん)政策によって私貿易を禁止され、生活の糧を奪われた中国沿岸部の住民や商人たちが倭寇に偽装したものになります」(いろんな説があります)


 前期倭寇の構成員は対馬・壱岐・松浦郡の日本人が主で、それに若干の偽装倭寇の朝鮮人や女真族(じょしんぞく)などになる。

 それに対して後期倭寇の構成員は沿岸部の中国人がほとんどで、若干の日本人となっている。

 活動地域にも変化があり、前期倭寇は朝鮮や中国北部の遼東(りょうとう)半島や山東(さんとう)半島沿岸であったが、後期倭寇は中国の沿岸全域に渡っている。


 特に根拠地となったのは舟山群島(しゅうざんぐんとう)双嶼(リャンポー)とされ、大友船は寧波(ニンポー)への入港を拒否されたのちに双嶼で後期倭寇らと接触したものと考えられている。

 そしてこの時期にはすでに()()が後期倭寇と接触を果たしており、その流れの中で種子島に鉄砲が伝来することになったのであった。


「奴らってなんじゃ?」


「ポルトガル人、いわゆる南蛮人(なんばんじん)です」


「よくわからんが、鴨南蛮(かもなんばん)そばが食べたくなったから作ってくれ」


「わかりました用意いたしますので少しお待ち下さい」


「3分間待ってやる」


「義藤さま、私が教えた60進法とか使いたいのは分かりますが、他の人には通じませんからね」


「わ、わかっておるわ……それで南蛮人とはなんぞや」


「南蛮人の話をする前に少し海の交易路の話をしてもよろしいでございますか?」


「海の交易路?」


「はい、俗に海のシルクロードと呼ばれているものにございます」


 シルクロードとは(きぬ)の道と書くが、ようするに東洋と西洋とを結ぶ交易路のことである。中国産の絹が古くは珍重され主要な交易品であったので絹の道と呼ばれることになった。このシルクロードには大きく分けて3つの経路がある。


 一つ目の経路は、代表的なシルクロードとされるもので、長安(ちょうあん)から河西回廊(かせいかいろう)を通って敦煌(とんこう)に至り、タクラマカン砂漠のオアシスを通って中央アジアに達する道であり、天山(てんざん)北路や南路に西域南道などがある。

 唐とイスラムのアッバース朝が中央アジアでぶつかった「タラス河畔(かはん)の戦い」などが有名であろう。


 二つ目の経路は「草原の道」と呼ばれるもので、それは中国北方のモンゴルからカザフ、カスピ海北岸、南ロシアやハンガリーに至るステップ地帯の交易路である。古くから騎馬遊牧民族が活躍した地域で、モンゴル帝国がこの道を使って大帝国を築いた。


 最期の三つ目の経路が海のシルクロードであり、東シナ海から南シナ海を通り、東南アジアのマラッカ海峡を経てインド洋に至り、中国とインドとイスラム世界を繋いでいる海の交易路になる。


 紀元前からすでに海の交易は行われていたようであるが、アラブ人、ペルシア人らイスラム教のムスリム商人の出現で本格化する。日本が遣唐使をやっと始めた7世紀のころには世界の東西はすでに繋がっており、ムスリム商人はダウ船に乗って唐にまですでにやって来ていたのだ。


「そなたが何を言っているのかさっぱり分からんぞ」


「インドは天竺(てんじく)でペルシアは波斯(はし)でイスラム教は回教(かいきょう)のことです」


「うん、むーりぃー」


 インド洋はその後もムスリム商人の海であり、南シナ海では海の民のチャンパなどが交易を行っていたが、ムスリム商人の交易活動が活発になり東南アジアにイスラム教が浸透していく。また交易活動が活発だった南宋の時代から中国人もジャンク船に乗って南シナ海に乗り出した。


 明の永楽帝(えいらくてい)宣徳帝(せんとくてい)の時代に行われた鄭和(ていわ)の大航海はこの海のシルクロードに新しい中華帝国である明の国威を示し、この交易路にある国々に朝貢を促すことを目的に行ったものであったのだ。


 インド洋と南シナ海を繋ぐ地点であるスマトラ島やマレー半島の海上交通の要所には港市国家(こうしこっか)と呼ばれる国が中継貿易で栄えるようになる。室町時代においてはマラッカが最も栄えていた。

 そしてこの海のシルクロードに遠くヨーロッパの地からアフリカ南端の喜望峰(きぼうほう)を回って割って入って来る国があった。それがポルトガルである。


「何かまだ話が続きそうなのだが時が無くはないか? もう客が来るのであろう?」


「すいません話が終わりませんでした」


「まあそなたの話が長くなるのはいつものことであるが、いい加減にしないと飽きられるぞ」


「誰にですか?」


「むろん……わしにだ」


「それは倦怠期(けんたいき)というやつですね。たまには違うシチュエーションでやると燃えるそうですので今度コスプレにトライしてみましょう」


「何を言っているのか全く分からんが、わしは変な装束は着ないんだからなっ」


「南蛮渡来の生地を使った非常に可愛い装束を作っております。完成したら是非試着をお願いします」


「か、可愛いのか?」


「むろんです。その装束を着た義藤さまはめちゃくちゃ可愛いと思われます」


「わしに似合うと思うのか?」


「恐らく惚れ直すぐらいに可愛いと思われます」


「南蛮の装束なのか?」


「は、はい……南蛮の方の衣装みたいなものです」


「まあ……その南蛮とやらにも興味があるから、少しぐらいなら着てもよいかもな」


「ありがたき幸せ、この藤孝、義藤さまに生涯の忠誠を誓います」


「しょ、生涯って……」


 ◆

【その7へ続いてしまった】

とめられないやめられない(涙

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