おまけ 義藤ちゃんと藤孝くんの日明外交史 その5 寧波の乱
【その4の続き】
◆
【その5 寧波の乱】
「勘合」とは明が朝貢国に与えた割符で、紙に記された「本字壱号」などの札を真ん中で二つに割り、朝貢した際に付き合わせることで証拠としたものになる。ようするに正式な使節であるとの「証明」であり、偽の使者や密貿易を防ぐ目的の物であった。
永楽勘合、宣徳勘合、景泰勘合、成化勘合、弘治勘合、正徳勘合、嘉靖准勘合の存在が確認されており、明の改元(皇帝の交代)により、100枚ずつ与えられ、渡航する船1艘につき1枚の勘合を使用した。新しい勘合が与えられると残りの古い勘合は明に返却することになる。
「さっぱりわからん」
「具体的な手続きは朝貢の正使などが分かっていれば良いので、義藤さまは勘合という物が必要ということだけを覚えておいてください」
「ん、分かった。ところで疑問なのだが、大陸(中国)の者とどうやって意思疎通をしていたのだ? わしは大陸の言葉など知らないから会話ができないぞ。会話ができないでは交易や外交などできないであろうに」
「いい質問ですねぇ。むろん大陸(中国)の者と会話が出来る者も居るのですが、会話が出来なくても我々と大陸の者とは筆談で意思疎通が可能なのです。義藤さまも漢籍(漢文)は読めますよね」
「むろんである」
「中国や朝鮮、チベットにベトナム、そして我が日本などは漢字を使う漢字文化圏を形成しているのです。そのため教養として特に漢籍や漢詩に精通している禅僧などが外交使節に任命されるわけなのです」
「ちべっとにべとなむってなんじゃ?」
「チベットは西蔵や吐蕃などとかつて呼ばれた明の西方の国で仏教を国教としています。ベトナムは大越の国で明の南にあります。のちほど絵図を書いて説明しましょう」
「ん、頼んだ……それでたとえば、わしが遣明船を送ることになったら、五山の禅僧などに使者を任せればよいのじゃな?」
「そういうことです」
1432年に室町幕府は22年ぶり8回目の甲子園出場じゃなくて遣明船を送ることになった。
明では永楽帝の孫の宣徳帝が即位していた。そして宣徳帝は日本からの久しぶりの朝貢をめちゃくちゃ喜んだ。
そして宣徳帝と足利義教のラブレターの送りあいが始まるかに思えたのだが、残念ながら1434年(明に到着1435年)の9回目の遣明船を最期にまた途絶えることになる。
明では1435年に宣徳帝が早世し、次代の英宗が1449年の「土木の変」で、現役の皇帝でありながら北方遊牧民の「オイラト」に捕まってしまうという大惨事に遭い大混乱となっていた。
また、日本においても1441年の「嘉吉の乱」で将軍の足利義教が暗殺される事態になっており、日明どちらも悠長に外交とかやっている場合ではなくなってしまったのだ。
「現役の征夷大将軍が暗殺されるとか情けない話であり酷い話であるな」
「ノ、ノーコメントでお願いしまーす(汗)」
「なんじゃそれは」
嘉吉の乱で足利義教が暗殺されたあと、嫡子の足利義勝が1442年にわずか9歳で7代将軍に就任するが翌年あっさり死去。同母弟の足利義政が今度は8歳で8代将軍になるなど幼い将軍が続くことになり、将軍の権威がさらに弱体してしまう。(将軍宣下は1449年)
ちなみに1443年には嘉吉条約などで日朝関係が良好な時期なので朝鮮通信使が足利義教の弔意のために入洛して、足利義勝が謁見したりしている。
「幼い将軍では幕府が弱くなって困るものだな」
「義藤さまも11歳で将軍になってますけどね」
足利義政が元服して幕政が落ち着いたので幕府は久しぶりに遣明船を送ることができるようになった。この遣明船には足利義政の代始めとしての意味もある。
だが、久しぶりの遣明船の派遣に幕府は欲をかいて頑張り過ぎてしまった。勘合を配りまくってスポンサーを集めて合計9隻、人員数1200人超というアホみたいな大使節を送ってしまうのだ。1451年のことである。(明到着は1453年)
鄭和に遠征をさせるなど対外政策に積極的だった永楽帝、宣徳帝の時代はすでに終わっており、また土木の変の混乱が終わったばかりであった明にとっては、このアホみたいな大人数の朝貢は迷惑でしかなかった。
これ以後、日本からの朝貢には10年に1回、船数3隻、人員300人までという制限がなされることになったようだ。
(宣徳要約とか景泰約条とかで朝貢が制限されたという説があるのですがこの辺がまだはっきり確定していない感じです)
「なんで明はせっかくの使者を制限するのだ?」
「幕府は儲かりますが、明は使節の滞在費全額負担だったり、贈り物10倍返しだったりして大赤字なのです。頻繁に来たり大勢で来られたりしても困るのです」
「わしからそなたへの馬錬太印千代虎は10倍返しを頼むぞ♪」
「この時代にバレンタインなぞねえし、私はバレンタイン撲滅委員会の会員だ」
この10年後に幕府は遣明船を送ることを計画するのだが、金がなくて幕府だけで準備が出来なくなってしまう。このあたりから遣明船は幕府内の実力者となった大内家と細川京兆家が主導するようになる。
また、遣明船で渡明した日本人の横暴が目立って来るようにもなる。麻答二郎という者が明で殺人を犯したり、帰りに遭難して貰った下賜品をなくしたからもう一回よこせと要求したりとか、商品の売値が安いからとゴネまくったりと、いろいろな問題行動を起こしているのだ。正直言って明も遣明船の質の低下にはウンザリしていたことだろう。
「麻答次郎?」
「たぶん麻生次郎だと思われます。ローゼン閣下みたいなものです」
「そなたは何を言っておるのだ」
1465年に出向した遣明船は呼子浦(唐津市)で嵐に遭うなどして、ようやく1468年に入明して、帰国した時には日本では応仁の乱の真っ最中であった。
瀬戸内海や帰港地の兵庫は大内政弘に制圧されており、細川京兆家の船は京に帰ることが出来なくなってしまった。そこで南海ルートが使用されることになり、九州の南から土佐、紀伊を回って「堺」に帰港することになる。
これが堺発展の基礎になり、これ以降の遣明船には堺商人がかかわるようになるのだ。
これまでの遣明船は兵庫-瀬戸内-赤間関-博多-平戸-五島列島奈留島と進み、奈留島で風待ちをして春または秋の季節風で東シナ海を一気に横断して中国大陸の寧波(上海の南)に至るルートであった。
「にんぽー? 火の鳥か?」
「それは科学忍法なので、せめて木の葉隠れの術とかにしてください」
「どうでもいいがわしは忍者が欲しい」
「残念ながらそんな者はいません」
「なぜじゃ、わしだってお庭番が欲しいのじゃ」
「んー忍者っぽいのを今度お連れしますのでそれで我慢下さい」
「うむ、頼んだぞ」
足利義政の1476年と1483年の遣明船は細川京兆家(細川政元)の主導で堺商人の湯川宣阿によって準備され、堺-紀伊-土佐浦戸-薩摩坊津-博多-平戸-五島奈留島-寧波という南海ルートによって渡航することになった。
日明貿易に堺商人が進出し、細川京兆家・堺商人vs大内家・博多商人という対立構造が生まれてしまったのだ。
「近鉄vs南海のパリーグ優勝争いみたいなものです」
「まったく意味がわからぬわっ」
「ちなみに文明15年(1483年)の遣明船では正使の子璞周瑋が現地で死んでしまったため、弟子の圭圃支璋が正使代行を務めたそうなのですが、この圭圃支璋は饅頭屋の林南家の人間だったりするそうです」
「饅頭屋宗二殿の親戚なのか?」
「いとこおじ(従伯父)だそうです。饅頭屋林家の祖先の林浄因は寧波の出身だったので遣明船に絡むこともあったのでしょう」
「とりあえず腹が減ったからもみじ饅頭をくれ」
「はいはい」
1493年(明着1495年)の遣明船は細川京兆家と堺商人が主導するものになったが、1506年(明着1511年)の遣明船は大内家と博多商人が巻き返しを図り、2隻が大内家で1隻が細川家の主導する船となった。
そして事件は1523年の遣明船で起こることになるのだ。いわゆる「寧波の乱」である。
寧波の乱は細川京兆家・堺商人vs大内家・博多商人の日明貿易を巡る利権の対立に足利将軍家の分裂が加わり、外国の地である明の寧波で遣明船同士が武力闘争を行うという破廉恥極まりない事件である。
1493年の明応の政変によって足利義稙が細川政元に将軍職を追われることになり、足利将軍家が足利義稙と足利義澄に分裂して幕府がわけの分からないことになってしまった。その問題が遣明船の運航にも波及してしまうのである。
日明貿易の利権に堺商人に食い込まれてしまっていた博多商人は再び利権を独占することを狙っていた。そこに流れ公方の足利義稙(義材)が大内義興のところへ転がり込んでくるというチャンスがやって来るのだ。
1507年に永正の錯乱で細川政元が暗殺されると、大内義興は足利義稙を擁して上洛の軍を起こした。細川高国の協力もあって足利義澄と細川澄元を京から近江へ追いやり、足利義稙を将軍職に復帰させることに成功する。
足利義澄と細川澄元の反抗もなんとか押さえ込んだ大内義興に対して、足利義稙は1516年に遣明船派遣の権限を委任する御内書と奉行人奉書を与え、大内家による日明貿易の独占を承認することになった。
細川澄元に変わって京兆家の当主となった細川高国や京兆家と結ぶことで日明貿易に食い込んだ堺商人にとっては面白くない話であろう。
新しい勘合(正徳勘合)を全て所持して、足利義稙から日明貿易独占のお墨付きを得ていた大内家と博多商人は嬉々として遣明船の準備を進めた。そして準備が整い3隻の遣明船をウキウキで出航させたのだ。
だが、足利義稙と対立して新たに足利義晴を擁立した細川高国がその動きに割り込むのだ。無効になったはずの古い勘合(弘治勘合)を持たせた大内家とは別の遣明船1隻を急遽仕立ててちょっと待ったーと後を追わせたのだ。
そして事件は会議室じゃなくて1523年の寧波で起きる。事件の詳しい内容は省くが、ようするに遅れてやって来た細川船が明の役人に賄賂を送って有利に手続きを進めたことに対して、大内船の方がブチ切れて細川船の使者をブチ殺して現地で暴れまわったのだ。
大内方は細川船を焼き、取締りに来た明の役人を返り討ちにし、明の船を奪って逃げ去ったそうである……酷いものだ。
「ブチ切れて暴れた大内方もアレだが、細川高国が割り込んで遣明船を送らなければ問題なかったのではないのか?」
「室町幕府と言いますか将軍の足利義晴公の公式見解としては大内船の方が勘合を奪った賊で、細川船が正規の使者であったことになっています」
「さ、さようか……それで事件後どうなったのだ?」
「明は大永5年(1525年)に琉球の使者に日本への連絡を託します。犯人を捕まえて明に送って来ないと日本に攻め込むぞと」
「琉球ってなんじゃ?」
「九州の南方にある島国で、交易で栄えており明にも朝貢しておりました。諸説ありますが、民族的には日本とほぼ同じで平仮名も使っております。室町幕府に使者も送って来ておりました」
「わしは会ったことないぞ」
「琉球は現在、薩摩の島津氏を介して日本と交易をしております」
「ふむ。それで遣明船はどうなったのだ?」
「いろいろすったもんだありましたが、細川高国が滅んで細川晴元もぐだぐだだったので大内家が独占することになっております。ですが日明貿易の性質は変わって来ており、今では後期倭寇が行う密貿易が主流となっているのです」
「また倭寇が活発になったのか」
「今暴れている後期倭寇はこれまでの前期倭寇とは別物になります。では次は後期倭寇の話をしましょうか」
「まだ続くのかこの話……」
「まだだ、まだ終わらんよ! でも次で終りにしましょう。もう客も来てしまいますので」
「そう願いたいものだな」
◆
【その5に続く】
軽い気持ちで始めて大惨事
終わらない〜(涙




