おまけ 義藤ちゃんと藤孝くんの日明外交史 その4 朝鮮
【その3の続き】
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【その4 朝鮮】
明への遣明船には正規の使者以外にも色んな人が乗っていた。中国に勉強に行く僧や商人たちである。
商人は正式に入港を許された遣明船に商品をたくさん乗っけて中国で売りさばき、また帰りの船には中国の品をしこたま詰め込んで帰り日本でボロ儲けをしていたのだ。
日本の品は中国で5倍の値段で売れ、中国の品は日本で20倍の値段で売れたという話もあったりする。これが出来るので博多の商人は遣明船に非常に協力的だったのだ。
「偉い儲かるのだな」
「まさにボロ儲けですね」
足利義持の急な外交方針の転換に驚いた永楽帝だが、倭寇が再び活発化したことに困り、1417年に日本に使者と捕虜にした倭寇を送って倭寇の取締りの強化と朝貢の再開を促した。
義持は使者を無視した説や、朝貢を再開する旨の使者を送った説もあるが、結果として朝貢は再開されなかった。
永楽帝は対外政策を活発に行った中国では珍しい皇帝で、鄭和に艦隊を率いさせ遠くアフリカまで大航海させている。鄭和は1405年から1433年までの間に7回も遠征することになる。
永楽帝の時代には多くの国が朝貢しているが、それは建文帝を倒して簒奪により即位したという永楽帝の事情があった。簒奪の事実を覆い隠すためには多くの国が朝貢に訪れる徳のある皇帝ということを演出したかったのであろう。
朝貢を促すための鄭和の大航海であり、1419年にはめげずに日本に再び朝貢を促す使者を送っている。
「あふりかってなんじゃ?」
「あとで絵図を描いてあげます」
だがこの使者は高圧的で日本への武力行使を示唆するものであった。これが非常に間の悪いものであったのだ。
この1419年には「応永の外寇」と称される事件が起こっており、対馬が李氏朝鮮から攻撃されていたのだ。
足利義持は対馬への攻撃を永楽帝の報復と考え、完全に明と断行することにいたる。
「李氏朝鮮?」
「高麗の武将だった李成桂が高麗を簒奪して建国した国で、明の洪武帝に冊封されて朝鮮という国号になったのです」
(1392年に高麗王に譲位させて、1401年に朝鮮王に冊封される)
「明も朝鮮も簒奪とか乱暴であるな」
「足利家も似たようなものですけどね……」
少し遡って元寇以後の日朝関係を見てみよう。高麗では1350年頃から倭寇の被害が相当深刻化していた。そのため高麗は倭寇の取締りを要請するために1366年と1375年に使者を日本に送って来る。
1375年の使者は「通信使」と称され朝鮮通信使の元祖ともされる。
「朝鮮通信使ってなんじゃ?」
「江戸幕府の時代に12回ぐらい日本にやって来た公式の外交使節です」
「江戸幕府ってなんじゃ?」
「間違えました江戸幕府のことは義藤さまは忘れてください。我が室町幕府にも3回ほど来た朝鮮の公式外交使節です」
(通信使という名称が3回なだけで、室町時代には朝鮮から結構な数の使節が日本にやってきている)
「わしの所にはその通信使とやらは来てないぞ」
「頑張って幕府を再興して外国の使者が来るようになりましょうね」
高麗との交渉の結果、足利義満は1375年の通信使の帰国に日本からの使者を伴わせて外交関係を結ぶ。高麗と日本の外交が元寇で途絶して以来ようやく再開されることになった。
1377年には高麗の家臣の鄭夢周が九州に訪れて、今川了俊とともに倭寇を取り締まることにもなった。今川了俊の失脚後は大内義弘が代わって担当している。
「今川了俊というのは駿河今川家の先祖なのか?」
「いえ、分家の遠江守護今川家で、のちに堀越家になります」
1392年には高麗から李氏朝鮮に変わるが李成桂も足利義満に倭寇取締りを要請する使者を送っている。
「ところで義藤さま、対馬の守護はご存知ですか?」
「むろん知らんぞ」
「宗氏になります」
「そうか……」
「義藤さま、草加煎餅食べます?」
「うん、たべりゅー♪」
大内義弘も足利義満と対立して応永の乱で討伐されてしまうが、基本的には朝鮮との窓口は対馬の宗氏と大内氏がメインでやっていくことになる。
宗氏は少弐氏の被官であった惟宗氏が宗氏を名乗り、対馬の守護代となったとされる。(いろんな説があります)
この当時の当主は宗貞茂だが、李氏朝鮮との交易に積極で倭寇の取締りに協力もしていたようだ。
李氏朝鮮は倭寇対策として来港しての自由交易を行うことを奨励していた。そのため朝鮮と日常品などを交易する者が増え、それらは興利倭船と称されている。
興利倭船の連中は交易が上手く行かないと倭寇にクラスチェンジするような輩がいっぱい居たようで、1407年に李氏朝鮮は防衛のために入港地を富山(釜山)浦、乃而(薺)浦に限定するようになる。
宗氏や大内氏などの公式な使者は使送船と称される。1410年には使送船も二浦に限定されたりしたが、とりあえずここまでは日朝交易は結構上手く行っており、倭寇もある程度落ち着いていたのだ。
だが、遣明船の廃止や宗貞茂の死、それに運の悪いことに対馬で飢饉が発生するなどがあって、倭寇がまたヒャッハーしてしまうのだ。
1419年に大規模な倭寇の船団が朝鮮の庇仁県と海州(朝鮮の西岸)を襲撃し、さらに黄海を北上して中国の遼東半島方面に進出した。
李氏朝鮮は倭寇の攻撃と侵攻を明に通報し、倭寇が中国方面に北上している留守を狙って、倭寇の根拠地となっていた対馬へ攻撃を仕掛けたのである。
この李氏朝鮮の対馬攻撃は「応永の外寇」と呼ばれる。
朝鮮軍は1万以上の兵で対馬を攻めたのだが、宗貞茂の子の宗貞盛に撃退されてしまった。この応永の外寇は倭寇対策とされるのだが、対馬への侵略であったという説もある。(李氏朝鮮は対馬を我が領地だと言っていた。のちに撤回しますが)
「宗貞盛とやらが見事に朝鮮の攻撃を防いだのであるな」
「どちらかというと李氏朝鮮の攻撃がグダグダだっただけのようですが」
この後、応永の外寇の戦後処理で交渉が行われ、いろいろすったもんだしたけど、2年後には以前の釜山浦、薺浦(熊川)に加えて塩浦(蔚山)も入港が許され三浦体制で交易が再開されることになる。
1443年には李氏朝鮮と宗氏の間で「嘉吉条約」が結ばれて、宗氏が朝鮮の交易を独占するようになっていく。三浦には倭館という日本人の居留地も作られ交易が活発化する。
(大内家などの例外もあり、その後も宗氏抜きで交易をやっている)
「対馬は宗氏が支配しているのか?」
「この時代の対馬には倭寇のドンとも称される早田左衛門太郎・早田六郎次郎父子の早田氏なども居て、まだ宗氏が対馬全島を制圧していたわけではないようです」
「今はどうなのじゃ」
「朝鮮との交易を通じて力を付けた宗氏の宗家が戦国大名化して、天文19年(1550年)の現在は宗氏が対馬をほぼ支配していると言ってもよいかもしれません」
日朝関係は交易が再開してこれでしばらく落ち着くので、日明関係に話を戻そう。
ちなみに遼東半島方面に進出した倭寇は「望海堝の戦い」で明軍に敗れて全滅している。
明では1424年に永楽帝が崩御、日本では1428年に足利義持が亡くなり足利義教が将軍となることで、ようやく日明外交が再び動き出すことになる。
「籤引き将軍」とか「悪御所」に「万人恐怖」とか酷い呼ばれような足利義教だが、将軍権力の強化や幕府財政の強化を目指して遣明船を再び送ることになった。
だが、足利義満や義持のように独力で遣明船を派遣するだけの力が幕府に無くなっており、「勘合」を寺社などのスポンサーに売却して遣明船を送る資金を調達するようになる。
ここからが真の「勘合」貿易と言ってよいかもしれない。
「勘合って結局なんなのじゃ?」
「それでは次は勘合について話しましょうか」
「まだ話しが続くのか? わしはそろそろ眠いぞ」
「では、今宵はここまでにいたしとうござりまする」
「梵天丸もかくありたい、だな」
「それ違う大河ですし、義藤さまは菊童丸でしょうに……」
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【その5に続く】




