おまけ 義藤ちゃんと藤孝くんの日明外交史 その3 足利義満
【その2 倭寇の続き】
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【その3 足利義満】
1372年に明は四回目の使者を送るのだが、懐良親王はその根拠地だった大宰府にすでに居なかった。北朝の今川了俊(貞世)に大宰府を追い出されてしまっていたのである。
明の使者は今川了俊に拘留されたのちに上洛して室町幕府と初めて接触した。ようやくプロポーズすべき日本の真の支配者な足利義満と会えたのだ。
この使者の帰国にあわせて1374年に足利義満も明の洪武帝にラブレターを送り、ようやく日本と明のまともな交際(外交)がスタート……しなかった。
明の洪武帝と室町幕府の足利義満はラブコメのごとくすれ違いを続けてしまうのだ。
明はすでに懐良親王を「日本国王良懐」として冊封しちゃって大統暦もプレゼントしてしまったので、それが既成事実になってしまったのだ。私の恋人は懐良だもん義満とかしらないもん――である。
明は「日本国王良懐」名義の使者しか認めなかった。しょうがないのでその後は数回(9回?)、日本から「日本国王良懐」名義で使者を送ることになるのだが、島津氏や幕府が名前を騙ったこともあったようです。
「なんでそんなことになったのだ?」
「明の洪武帝は始め日本の情勢が分からなかったのでしょう。それと一度認めてしまった日本国王を間違いだったとは言えなかったのです」
(南北朝期の日本の情勢など、当時の日本人も現代の日本人もよく分からないハチャメチャなので洪武帝が理解できなくても仕方が無いだろう)
だが、正式な外交を行いたかった足利義満は1380年に「征夷将軍源義満」の名義で明の「丞相宛」に使者を送る小細工をするのだが、丞相宛であったことや「国王」の臣下であったことから、この2度目のラブレターも拒絶されてしまうのだ。
だがそんなことやっている間にも足利義満は頑張っていた。九州から南朝の勢力を追いやり1392年に南北朝を統一。有力守護大名も抹殺し、朝廷を押え付け最強の将軍として君臨したのだ。ちなみに1381年に「日本国王」の懐良親王はお亡くなりになっている。
「足利義満公は偉大だな」
「まさにザ・室町殿です。(室町)幕府を造ったのは義満公だと言っても過言ではありませんが評判は悪いですね」
そろそろいい加減にまともな外交を始めて欲しいのだが、ここにそのチャンスが訪れる。
1398年に明の初代皇帝の洪武帝の崩御し、建文帝が即位するのだが、翌年に明の内乱である「靖難の変」が始まるのだ。
恐らく倭寇として密貿易に従事し、明の情勢に詳しかった博多商人の肥富は足利義満に今がチャンスでっせと進言したのだろう。そして室町幕府は明の混乱に付け込むのだ。
「博多商人の肥富?」
「たぶん小泉だと思うのですが、もしかしたら日本じゃないかもしれません。この当時の博多には帰化した中国人も多くおりましたので」
1401年に太政大臣を辞めて出家した足利義満は「日本国准三后源道義」の名義で、もう俺は天皇の臣下じゃないよという伝統の詭弁の理論を駆使して、博多商人の肥富を明に送ったのだ。(正使は同朋衆の祖阿)
「靖難の変」で困っていた建文帝は、日本国王として足利義満の冊封を事実上認めることになる。
1402年に肥富は明の建文帝の使者と帰国し、足利義満は「日本国王源道義」として朝貢を促されることになる。
建文帝はのちの永楽帝に攻め込まれて劣勢であり、日本に対して強気に出られなかったのだろう。
そして1403年にこの返礼のために天竜寺の堅中圭密を正使とする朝貢の遣明使が送られることになった。
だが、そのころ明では「靖難の変」が決着し、建文帝は永楽帝に敗れて行方不明になっている。(死んでいると思いますが)
肥富から明の情勢を聞いていた足利義満はしっかりと建文帝宛と永楽帝宛の二通の書を用意しており、どちらが勝っても良いように手配していたりする。さすがは義満である。
(朝貢としては1403年のココが最初になると思われる)
「足利義満公は他国の情勢をしっかり調べて、したたかに外交をやってのけたのであるな」
「情報は大切ですし、知は力なりです。義藤さまも日経電子のバーンを読んで情報をしっかり集めてください」
「それは孔明の罠だ」
即位したばかりの永楽帝は日本から早速使者が来たと喜び、その帰国とともに明から日本へ使者を送って「日本国王之印」の金印と「永楽」の「勘合」を与えるのであった。
ここにようやく足利義満は正式に「日本国王」に冊封されたわけである。
(ここで勘合を初めて貰っているので、次の1404年が最初の勘合貿易になる)
この後は1404年、1405年、1406年、1408年、1408年、1410年と毎年のように遣明船を送るのだが、この足利義満期の遣明船は貿易というよりは永楽帝と足利義満とのラブレターの送りあいがメインだったりする。(永楽帝は遣明船の帰りに日本への使者を乗せている)
永楽帝は倭寇の取締りを足利義満に依頼し、足利義満はその巨大な力で倭寇を取り締まり、倭寇が捕まえてきた明の人々を送り返したり、捕まえた倭寇を明に差し出したりしている。
明と日本の間に正式な国交が樹立し貿易が開始されたことと、北九州の水軍に遣明船の護衛任務が与えられるなどして、ようやく前期倭寇が下火になるのだ。
「毎年のように使者が行き来しているのだな」
「まさにラブラブです」
「ラブってなんじゃ?」
ようやく始まった足利義満の遣明船は「朝貢」なのでとても儲かった。「朝貢」とは中華思想の外交で、クソ偉い中国の皇帝様に、蛮族の周辺国がその徳を得るために臣下の礼をとって貢物を送り、偉い皇帝様はそのお返しに莫大な恩賜を下賜するというものである。
このお返しの恩賜が凄かった。中華帝国の見得ですんごいいっぱいお宝をくれたのだ。とてつもなく儲かったので北山第、いわゆる金閣寺が造営出来てしまったほどである。
だが、朝貢や足利義満が「日本国王」として明の皇帝に冊封されることは評判が非常に悪いものでもあった。
かつて日本と中国とでは「遣隋使」や「遣唐使」などの朝貢が行われていたが、実は日本の「天皇」は一度も中国皇帝に冊封されていないのである。日本の国是は聖徳太子以来、中国と対等であることなのだ。
日宋貿易の平清盛も出家入道した清盛と宋の長官との「公式」な私貿易という詭弁を使っている。
(今回の遣明使も「天皇」ではなく足利家が冊封される形であるので、日本の「天皇」は中国の「皇帝」の臣下にはなっていない。遣隋使や遣唐使は国書を偽造したりしてなんとか「朝貢」をやっていたようである)
「面倒なことだな」
「ただの言い逃れなんですけど、建前として天皇陛下は中国皇帝の臣下になったことはないのです」
こうしてラブラブな永楽帝と足利義満のもと順調だった日明外交だったのだが、足利義満が1408年に亡くなり、足利義持が4代将軍となることで酷いことになってしまう。
足利義満の死を知った永楽帝は1408年の遣明船の帰国に際して、義満に「恭献王」の諡号を与え、あとなんかめちゃくちゃく褒めて弔問の使者を日本に送った。また義持もこの時に「日本国王」に冊封されている。
この次の1410年の遣明船では、足利義持は義満への諡号賜与のお礼を述べている。そう、ここまではめちゃくちゃ日本と明は仲が良かったのだ……
だが義持は1411年に遣明船の帰国と一緒にやって来た明の使者を京に入れずに追い返すのだ。突然の方針転換である。
正直言って明の永楽帝は意味が分からなくて混乱したのではなかろうか?
この足利義持の突然の方針転換には事実上の管領として幕府内で権力を持っていた斯波義将が死んだことが影響している。
「日本国王」に冊封され、朝貢という形の日明貿易は元々評判が悪かったのだが、足利義満の生前はその絶大な力を恐れて誰も表立って文句は言えなかった。
斯波義将も「朝貢」の形式には批判的であったようだが、その莫大な利益のために日明貿易を続けていたのだ。だがウルサイ斯波義将が死んだことで足利義持は我慢する必要がなくなり、強行に方針を転換したのである。
だが忘れてはいけないのだ。日明貿易は利益を生んでいたし、貿易のために倭寇を取り締まっていたことを……案の定、義満によって押さえつけられていた倭寇が貿易を禁止されたことでまた活発化してしまうのである。
「日明貿易は儲かるのであろう? 辞めてしまって大丈夫なのか?」
「ダメです。博多はすでに日宋貿易の時代から大陸と交易なしには生きていけないのです。幕府の都合や体面から交易を止められては困るのです」
「それでまた倭寇なのか」
「はい。倭寇がまた暴れまわることになり、対馬がまた朝鮮に攻められることにもなります」
「朝鮮が対馬をまた攻めただと? ところで朝鮮ってどこだ?」
「はい、では朝鮮のお勉強もしましょうか」
「う、うむ。よいだろう」
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【その4 朝鮮】




