おまけ 義藤ちゃんと藤孝くんの日明外交史 その2 倭寇
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【その2 倭寇】
「それじゃあ勉強を再開しましょう」
「うむ、倭寇とかいう話じゃったな」
日本シリーズ(元寇)で圧勝したソフトバンク(九州御家人)であるが、対馬や壱岐の住民は元軍によって虐殺され、平戸島も被害を受けるなど日本も相当なダメージを受けていた。
その場合にイケイケな戦闘民族たる大和民族がやることは何であろうか? むろん……報復だ。
対馬、壱岐の生き残りや北部九州の松浦党などの水軍衆という名の海賊は、元の手先として攻め込んできた「高麗」(のちの朝鮮)を恨みその沿岸に襲撃を開始した。(とりあえず近かったからでもあるが)
いわゆる前期倭寇と称されるもので、報復のほか三度目の元寇に備えての予防偵察のためのものでもあったという。
「報復をしようとする気持ちは分からないでもない」
「先に仕掛けて来たのはアッチですし、住民の虐殺とかかましているので倭寇を批難される謂れはありませんな」
(ちなみに1019年にも刀伊の入寇という事件があり、対馬・壱岐・北肥前の松浦郡が襲撃されている。犯人は女真族との説が有力。またこれ以外にも新羅や高麗からの海賊による襲撃を受けて来た歴史があり、倭寇だけが悪者ではないと思う)
だがこの前期倭寇さんは段々と調子に乗ってくる。始めは少数で高麗の沿岸を襲撃していただけなのだが、次第に大規模となり艦隊を組み、数千人の規模に膨れ上がっていくのだ。
これには報復以外の事情が存在する。対馬や壱岐にはあまり耕作できる土地がないのだ。そのため交易で生活をして来たのだが、元寇により高麗と日本の関係が断絶し交易が不可能になった。生きるために倭寇を始めた人もいたことだろう。
また博多の商人も南宋が元に滅ぼされたことによって、私貿易として長年続けていた日宋貿易が行えなくなり、商売あがったり状態になってしまったのだ。
一応日元貿易というのもやっており、元寇で敵対関係となって一時途絶もするが、しばらくして私貿易を再開し、博多商人の主導で寺社造営料唐船も何度か行き来している。
だが、元寇による両国関係の悪化や倭寇の活動もあり、元に警戒されたことで日宋貿易ほど活発にはならなかった。この時期の有名なものとして天竜寺船がある。
(寺社造営料唐船、または寺社造営料宋船は鎌倉幕府や初期の室町幕府が寺社の創建・修復の費用を賄うために宋や元に派遣された半民半官の交易船であるが、その実態は博多商人が幕府の許可を得る名目のために寺社の復興をダシに使ったものである。禅僧の元への渡航手段でもあり、禅僧も幕府の許可を得るために協力したものと思われる)
元や高麗とは元寇で戦ったばかりであり、むかしほど交易は望めない状態になってしまった。だが日本で中国の品や高麗の品を売りたいよー、でも交易ができないよー、じゃあ……いそのー略奪しようぜ!
ということになった。博多商人も水軍衆もガンガンと倭寇に参加しだすのだ。「海賊王に、おれはなる!」と言ったのかは知りません。
「磯野って誰じゃ? それに海賊王ってなんじゃ?」
「伝説の海賊だそうですが、実在しませんので気にしないで下さい。あと磯野はカツオのことです」
「なんのこっちゃ」
前期倭寇は1300年代が最盛期だとされ、朝鮮南部から北部へ、さらには中国の沿岸にまで遠征してヒャッハーしまくった。
高麗の沿岸には人が居なくなり、中国の沿岸も相当やられたそうである。
前期倭寇の活発化には日本の国内事情も関係したりしている。1333年に鎌倉幕府が滅亡して、大混乱の南北朝時代に突入してしまったのだ。
「元寇で頑張った鎌倉幕府を滅ぼして日本を混乱させるとは悪いやつもいたものだな」
「それはあなたのご先祖様です」
前期倭寇は九州・対馬・壱岐の水軍が対馬を根拠地に活動するのだが、九州は南朝の征西大将軍の懐良親王の勢力が強く、北朝の室町幕府は九州をコントロールすることができなかった。倭寇の連中は北朝と戦うための物資と軍資金を得るために倭寇になって襲撃していたという説もあったりする。
「九州を制圧できないとは北朝も情けないものだな」
「畿内すら統治できない今の室町幕府に文句いう資格はありませんが……」
一方そのころ中国では1351年に白蓮教による紅巾の乱が起こり、政争で弱っていた元が滅亡の危機を迎える。
江南を統一した朱元璋(洪武帝)は1368年に明を建国して、北伐を行いモンゴルを北方に追いやり1381年に中国を統一した。
「あれだけ強かったモンゴル帝国の崩壊も結構早かったのだな」
「モンゴル帝国の弱体はペストの流行や小氷期の到来による天災の続発も原因と考えられています」
「ペストってなんじゃ?」
「黒死病と呼ばれる感染症で、ネズミのノミが媒介する媒介物感染であり最終的には飛沫感染にもなる恐ろしい病気ですが、清潔だった我が国では発生していない感染症ですのでご安心ください」
(日本のペストの流行は明治時代)
「あと小氷期ってなんじゃ?」
「気温が下がって寒くなる時期のことです。鎌倉幕府の滅亡も気候変動で御家人が困窮したことが理由ともされます」
【1280年から1350年はウォルフ極小期と呼ばれ、太陽活動が低下して平均気温が下がった寒冷な時期であったと考えられている。ちなみに日本が戦国時代に突入したのはシュペーラー極小期(1450年から1550年)による寒冷化と飢餓の発生が原因とも考えられている。気温が下がると飢饉になり政情が不安定になりまくるのだ】
「何を言っているのかまったく分からんが、寒いからとりあえずお茶くれ」
倭寇が活発した理由には飢饉の発生も関係している。食うものが無ければ他から奪えば良いということである。小氷期は倭寇の原因でもあるのだ。
せっかく建国した明なのだが倭寇にはかなり悩まされていたようだ。
洪武帝は明を建国した1368年にさっそく日本に使者を送ったとされ。だが、どうにも五島列島あたりで海賊にやられたようである。
だけどめげずに翌年(1369年)に二回目の使者を送って来る。だが、送った使者7人のうち5人がぶち殺されてしまう。その犯人は懐良親王だ。
洪武帝の使者は、1.明の建国の宣言と日本の朝貢の要求、2.倭寇の取締り要求、3.倭寇をなんとかしないと日本国王ぶっ殺す、だったらしい。
かなり高圧的な使者だったらしいのだが、いきなり使者をぶち殺すのはやり過ぎだろう。
「使者を殺すとか野蛮極まりないな」
「義藤さまは野蛮な武士の棟梁ですけどね」
一応、懐良親王にも事情があったりする。倭寇の構成員は博多商人や北九州の連中なので懐良親王の大事なお仲間だったるするのだ。取締りとかすると嫌われて協力を得られなくなるからな。
使者をぶち殺されても何故かめげない洪武帝くんは1370年に三回目の使者を送って来る。
これに懐良親王は北朝に押されてやばくなって来たのと、前回の使者を殺したのはやり過ぎだと反省したのか、外交方針を転換して1371年にお返しの使者を明に送って倭寇が捕まえてきた中国人も返還した。
ようやくここに明と日本の外交がスタートすることになったのだ。
だが、明は間違えてしまったのだ。愛の告白をする相手を……交渉するべき相手は実は別の場所にいた。
1368年には、のちに日本の最強の将軍の一人となる、足利義満が第3代の室町幕府の将軍に就任していたのである。(将軍宣下は1369年)
「私も愛の告白相手を間違えないように気をつけます」
「あ、愛の告白とか恥ずかしいことを言うでないわ……そんなことより次は我が先祖の義満公の話なのか?」
「はい。ですがその前にご飯にいたしましょう。今日は天ぷら蕎麦でよろしいですか?」
「よろしいぞ、早く作るがよい」
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【その3 足利義満に続く】




