第八十話 鉄砲を生産しよう(2)
【鉄砲を生産しよう(1)の続き】
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はっきり言って三好長慶の大兵力に対抗できるだけの兵を幕府が揃えることなどは不可能だ。ならば兵の質と兵器の質で対抗するしか術がない。
兵の質ということであれば、スナイパーな根来衆に雑賀衆を配下に収めた我らは鉄砲の運用に関してはすでに戦国最強と言えるだろう。あと必要なのは兵器である鉄砲の確保ということになる。
鉄砲の数を確保するために取った手段は技術者の招聘である。津田算長に頼み込んで芝辻清右衛門妙西を連れて来てもらったのだ。
芝辻清右衛門は史実では諸説あるが、1585年の羽柴(豊臣)秀吉の紀州攻めで根来が壊滅したために根来から堺に移ったものと思われる。
堺に移った芝辻清右衛門の技術はその孫に受け継がれ、孫の芝辻理右衛門助延も鉄砲鍛冶として名声を得ており、江戸幕府における堺鉄砲鍛冶年寄の五家のひとつである芝辻家の祖となっている。
根来衆と雑賀衆の異常なほどの鉄砲装備率を考えると、根来や雑賀にはかなりの鉄砲鍛冶が居たものと考えられ、根来寺の門前町である西坂本の町は一大鉄砲鍛冶町であったのではないかと推測できる。
そのため芝辻清右衛門は比較的長期に渡って根来の西坂本において鉄砲鍛冶を続けたのではないかと個人的には思っている。
(あくまで個人の考えです。芝辻清右衛門はもっと早い段階から堺に移ったとする説もあるし、根来や雑賀の鉄砲生産については不明な点が多い)
根来における鉄砲鍛冶の第一人者をクレと言っても簡単にはくれないと思うので、短期間でいいから貸してくれと頼んだのだ。
この時代において技術は宝であり、技術の伝授など普通はしてくれないものだが、技術交換なら話は別だろう。
芝辻清右衛門には高額な報酬の約束のほかに、「ねじ切り」の技術を教えることほのめかして引っ張って来たのだ。
芝辻清右衛門のほかにも技術者は招聘している。すでに懇意にしているMMRのメンバーの京三条釜座の棟梁の名越浄祐と西村道仁である。
名越浄祐と西村道仁には実際に幕府で鉄砲鍛冶として働いてもらうことになる技術者として、釜座で働く鋳物師の中から新兵器である鉄砲の製造に興味を持つ若者たちを連れて来てもらった。
(後年、鉄砲の大生産地となる堺で鉄砲製造に携わることになる者たちは、河内鋳物師たちであったとされています。鋳物師は「いもじ」とも読む)
鉄砲生産の先生は連れて来た。実際の製造にあたる技術者の希望者も集めた。あとは責任者を決めるだけだろう。
勝軍山城において鉄砲を製造する責任者として「鉄砲製造奉行」なるものを公方様に任命して貰おうと思っているのだが、その責任者となりうる金属の加工技術の知識を持った適任者が、実は室町幕府なんかにも居たりするのだ。
それは幕府お抱えの金工家(金属工芸家)・彫金家であり、一人目は刀装具を作る職人で主に刀の鍔を作る職人の埋忠重隆になる。そして二人目が小柄などの刀装具を作る職人の後藤吉久、またの名を後藤乗真という。
埋忠家も後藤家も文化大好き将軍の足利義政がお抱えした職人たちで、今も幕府に仕えているのだ。埋忠家は非常にマイナーだが後藤家は後年に有名になったりする。
後藤乗真は江戸時代には京都の三長者のひとつに数えられ、豊臣秀吉の大判を鋳造し、江戸幕府でも大判の鋳造や両替用の分銅を独占製作した大判座後藤こと後藤四郎兵衛家の祖先だったりする。
京都の三長者は角倉家、茶屋家、後藤家の三家なのだが、角倉家の本家の角倉吉田光治も茶屋四郎次郎の父である茶屋中島明延もすでにマブダチだ。ここに後藤家の後藤乗真が加わることで、京都の三長者をコンプリートしたことになるのだった。
芝辻清右衛門に名越浄祐、西村道仁、埋忠重隆、後藤乗真という当代一流の金属加工の技術職人に集ってもらって、技術セミナーおよび鉄砲製造会議を始めることになる。
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彼らに伝授するのは「ねじ切り」という概念だ。鉄砲伝来について先に述べたことがあったと思うが(第31話)、日本に鉄砲が伝来して製造を開始するにあたり特に問題になったのが「ねじ」の作成である。
種子島銃には銃身の末端にあたる箇所に尾栓があり、それを外すことで銃身内にたまった火薬や弾丸のカスを掃除したり、そこから銃身を覗き込むことで銃身の歪みを確認して修理したりすることが出来る構造になっている。
この尾詮があることが、暴発の危険性を下げ種子島銃が戦国の世に普及した要因のひとつになるのだが、この尾詮に使われている「ネジ」の技術がとにかく問題となったのだ。
当時の日本には「ネジ」の概念が無く、その作成方法がまったく分からなかった。
そのため種子島の鉄砲鍛冶の八板金兵衛は娘の若狭を南蛮人に嫁がせてその秘密を得ようとしたという伝説なども生まれている。それほど「ネジ」の技術は重要だったのだ。
では戦国時代の鉄砲鍛冶がどのように「ネジ」を作っていたのかというという話になるのだが、まずはもう少しネジの説明をしたい。
ネジは「雌ネジ」と「雄ネジ」の二つを組み合わせて使う物になるのだが、その字の如く、雄ネジは差し込む方で、雌ネジは差し込まれる方になる。
(なんで字の如くなのか意味が分からない若者は決して周りの人に聞いてはならないぞ。偉い恥をかくことになるから自分で頑張って調べような)
戦国時代における「雄ネジ」の作成方法としては、軸となる鉄棒に糸で螺旋を巻き、その糸に沿ってヤスリで削ってねじ山を作る加工したとするのが一般的な説である。めっちゃハンドメイドですな。
そして「雌ネジ」の作成方法は「熱間鍛造」という方法になる。それは作った銃身を加熱し、その銃身に先に作った雄ネジである尾宣を差し込み、銃身の上から叩いて鍛造することによって、対になるネジ山を銃身の内側に刻み込むという方法だったと考えられている。
この方法で実証実験をやって「雌ネジ」の作成に成功しているので、今のところはこの鍛造による方法が通説となっているようだ。
ようするにだ。この時代の日本には「ネジ」を「切る」という概念が存在しなかったと考えられている。
その後の日本において「ネジ」がまったく鉄砲以外の生産物に普及や進化せず、江戸末期の開国とその次の明治維新の工業化までに「ネジ」の発展が停滞することからも「ネジを切る」という概念は、幕末まで国内においてマジで存在しなかった恐れもあるのだわ……
(一応、国友村では「ネジキリ」があったという説もあるのだが、時代的に無理があるということで、今のところは通説になっていないもよう)
そんなことではいつまでたっても鉄砲の大量生産が出来なくて困ってしまうので、「ねじを切る」という概念を技術者に教えてしまって無理やり導入してしまいましょう。そのための「タップ」と「ダイス」であるのだ。
「タップ」は雌ネジを、「ダイス」は雄ネジを生産する工具になる。どちらもそんなに技術的には難しいものではなく、中学校の「技術」の金属加工の授業でやるのでマジメに技術の授業を受けた人なら覚えているだろう。
タップもダイスも構造自体は非常に簡単なものだ。世界の変態発明家こと「レオナルド・ダ・ヴィンチ」(生1452-没1519)がタップとダイスによるねじ切りの概念を文献に残しているので、ヨーロッパにおいては当時すでにねじ切りは行われていたと思われ、ヨーロッパの鉄砲の尾栓はねじ切りで作られていたのだろう。
変態度では負けていない日本の技術者ならヨーロッパですでにやっていることなどは、すぐに出来るようになるはずなのだ。ただし「ねじ切り」という概念さえ知っていればだが。
日本人技術者って応用は得意だけど発明は苦手なのよね……
タップは鉄板に開けた穴の内側を削ってネジ山(溝)を作る工具になる。構造は先に開けた穴の内側を削るためのネジ山状の刃と削った金属カスを輩出するための溝があるだけの簡単なものだ。
作業としてはネジを作りたい穴に垂直にタップを立てて、切削油(タッピングオイル)を流しながらタップを回してネジ山を切っていくことになる。
切削油は金属を切削加工(削ること)する際にタップやドリルなどが壊れないように摩擦の抑制と冷却を目的とするものだが、実は「ごま油」でも代用が可能だったりする。
ダイスは簡単に言えばタップの逆のことをするもので、ネジとなる芯棒の外側にネジ山を作るものになる。
作業としては芯棒を固定して、芯棒にダイスを垂直に被せて、切削油を流しながらダイスを回してネジ山を切っていくことになる。
まあ口で説明してもなかなか伝わらないので、彼らには図面や木で作った模型を使って、タップとダイスによる「ねじ切り」の概念を説明した。
さすがは当代一の金属加工の技術者たちで、俺の拙い説明であってもなんとか理解をしてくれた。というか新技術にめっちゃ興奮していた。
俺の説明を受けてすぐにタップとダイスの試作品作りとかを始めやがる始末だ……まだ話の続きがあるんだがなぁと思いつつも、技術オタク達があーでもない、こーでもないと楽しそうにやっているのを眺めて微笑んでしまうのであった。
だが技術者だけで楽しそうにやってるのが寂しくなって、仲間に入りたくて火縄銃を並べて発射する五連装砲とかガトリング砲も作りましょうとか提案して混ざろうとしたら、無理だし危ないと即座に却下され、変人を見る目で見られてしまった。ガトリングは男の浪漫なんだがなぁ……
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【鉄砲を生産しよう(3)に続く】
腐った幕府だけど人材が居ないわけではないのです
技術的な話が長くなって申し訳ない
3分割で終わるかな……




