第七十九話 甘い誘惑(1)
天文十九年(1550年)7月
雑賀孫一を釣り上げたあとも雑賀衆という名の絶好の釣りポイントに向けて釣り糸を垂らし続けた。釣果はまさに入れ食い状態の爆釣と言ってもよいだろう。鉄砲を導入したばかりであろう雑賀衆はまだそこまで名が売れていないし、室町殿の足軽衆というネームバリューに好条件の待遇で食い詰めた雑賀衆が釣り糸に群がってきたのだ。
その中でも名のあるお魚さんとしては的場源内大夫昌清というクロダイを釣り上げることができた。こいつはたしか「小雲雀」の異名で恐れられ、石山合戦において隠密行動を駆使して織田軍をスナイプしまくったという「的場源四郎」の父親であろう。
的場昌清は的場平内大夫という兄が居るらしく、家督を継げないため傭兵として公方様に仕えたいと志願してきた。この時代の次男坊や三男坊はつらいものだな。
正直こいつの腕前は良くわからんが、的場源四郎達を育て上げたのだから無能ということはないだろう。
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「的場源四郎」
雑賀衆の的場家は的包吉を実質的な祖とする。的包吉は畠山家に仕えたのちなぜか北条氏康に仕えたというが正しいかどうかは分からん。名字の「的」を駿河の的場村から「的場」に改めたらしいのだが、なぜに駿河だ? その後は雑賀荘の中乃島に戻り病死したという。
永禄5年の湯河直春起請文に「中嶋、的場平内大夫」の名が見えるので、的包吉の次代はこの男なのであろう。的場昌清が次男とされているので恐らくは兄と思われる。
的場源内大夫昌清とその長子の的場源次郎昌行、次子の的場源四郎昌長、三子の的場七郎左衛門尉重長らが、時期的に石山合戦などで雑賀衆のスナイパーとして暴れまくったと思われる。恐らくは父と三兄弟の事績がこんがらがって伝説のスナイパー「的場源四郎」が生まれたものと考えられる。
的場昌清と長子の的場昌行は足利義輝に仕えたともいわれるのだが詳細は不明。ただ、義輝期の番帳の足軽衆の欄に「中嶋但馬守」と「的場三郎左衛門尉」の名があるのであながち本当かもしれない。
父の的場昌清と兄の的場昌行は討死したのか的場昌長が家督を継いでいる。的場源四郎昌長は若い頃は根来の往来左京や赤井坊ともやり合って、その逃げ足の速さから「小雲雀」の異名で呼ばれている。杉之坊、泉職坊から感状も貰っているようなので、根来の行人になりプロレスに参加していたのかもしれない。
その後は首級を33挙げて紀伊三井寺で首供養をやったり、摂津で荒木と池田と戦ったり傭兵家業に精を出していたようだ。信長との戦いで有る石山合戦では主要な合戦において常に本願寺側で戦場にあり、本願寺顕如から信国の太刀を下賜されるなど大いに武功を賞されている。
秀吉の紀州攻めにも抵抗するが敗れて、その後は桑山重晴に仕えたが出奔、晩年は京で舞妓を妻にしたそうだが、何故か切腹したと伝わっている。
弟は的場七郎左衛門尉重長で、恐らく往経や的場源七郎の名での活躍はこの的場重長のことと思われる。この人は源四郎ともされるので、的場源四郎の事績が合体しているだろうが精査は無理だろう……
的場家は的場昌長の長子の源八郎が浅野家に仕え500石、次子の的場勝吉とその後は的場包好の家系が紀州藩士として家名を繋いだ。詳細は不明だが的場昌行と的場重長の子孫も分家として存続したらしい。
【参考:雑賀党的場家 的場源四郎の系譜】
的包吉┳的場平内大夫
┗的場昌清┳的場昌行
┣的場昌長┳的場源八郎<浅野家>
┗的場重長┗的場勝吉┳的場正勝<紀州藩士>
┗的場包好<紀州藩士>
(系図がずれる場合はスマホの表示を横にしてください)
――謎の作家細川幽童著「どうでもよい戦国の知識」より
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(関ヶ原の戦い後に浅野家が甲斐から紀伊に転封して来るので、根来衆や雑賀衆の生き残りが仕官していることが多い。福島正則の改易で浅野家は安芸広島に移り、代わって御三家の紀州徳川家が紀伊に入部したため、安芸と紀伊に根来衆や雑賀衆の子孫が多くいたりする。また根来同心として旗本にもなっているので江戸にも多く居る)
その次に釣り上げた大物のお魚さんは佐武源左衛門義昌であった。(この時はまだ佐竹の名字ですが)
佐武義昌はまさにザ・傭兵といった働きをした雑賀衆だったはずだ。
【佐武義昌は12歳で初陣したかと思いきや、根来寺に入寺して行人として修行しながら根来寺内のプロレスで成り上がって武名を上げ、雑賀衆の第一人者と目されるようになった。その後、雑賀衆同士の争いで雑賀孫一とともに土橋家を助けたり、さらには渡海して四国土佐の本山茂辰に雇われ長宗我部家と戦ったり、三好家に雇われて畿内、阿波を転戦したり、石山合戦でも活躍して、紀伊新宮の堀内氏善に仕えたり、秀吉の紀州攻めに抵抗したり、結局は豊臣家に仕えたりして、最終的には安芸広島の浅野家で亡くなった。どこまで本気にして良いのか正直意味の分からない経歴をしているのだが、一応史料を自分で書き残しているので信じてあげよう。また名字の「佐武」は武功上げて足利義昭から「佐竹」を「佐武」に変えるように言われたとかいう話もある】
(根来寺の坊院同士の争いには死者が続出して困ったためであろう、火器厳禁、首取り禁止というプロレスのような独自の寺内ルールが出来たらしい。それでも槍や弓は使うので死人は出たようだが。このプロレスは非常に実践的な戦闘訓練となり根来衆を戦闘民族として覚醒させたと思われる)
佐武義昌が本当に強かったのかは良く知らないが、まあとにかく歴戦の雑賀傭兵であったらしいことは間違いないと思うのだ。まだ若年であり、恐らくは根来寺に入って修行する前だと思うが将来性に期待して幹部として採用した。
こうして公方様の足軽衆就職説明会は雑賀孫一っぽいの二人に的場昌清、佐武義昌といった名のある武将を幹部として登用し、その他の無名連中をこいつらの下につける形で総勢50人くらい集めることができた。
さらにこのメンツに加えて、根来衆の中でどうしても華の都で公方様の足軽をやりたいと言う、聞き分けの悪い奥義弘の弟の「奥小蜜茶」という奴を、しょうがないので足軽衆として採用して勝軍山城に連れて行くことになった。
根来衆はなるべく和泉の戦力にしたかったのだが、ある程度は希望を聞くことも必要だろう。
【奥小密茶は根来小水茶や根来小三、奥右京などの名前を持ち、紀州根来の僧兵とされ、怪力無双の怪僧、武蔵坊弁慶の再来とも称され、あの石川五右衛門と秀吉の紀州攻めに抵抗した逸話を持ち、江戸時代には歌川国芳の武者絵(浮世絵の一種)にも描かれた紀州の英雄だったりする。伝説が過ぎる気がしないのだが一応実在したとされ、ここでは奥義弘の弟であった説を採ることにする】
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今まで散々根来ビックサイトとか面接ブースとか就職説明会とかわけのわからないことを言ってきたが、普通に密談をしていますのでご心配なく。(面接ブースは根来寺の格坊院のことです)
杉之坊と岩室坊が協力することになり、根来衆の半数近くが支持してくれているので、コソコソする必要がなくなって根来寺内では遠慮なく勧誘できているわけなのよ。
残る根来の有力四坊だが、泉職坊の土橋家や閼伽井坊は我らの直接の被官になることは断ってきたが、和泉守護細川家との連携自体は賛成してくれており、根来衆として必要があれば援軍を出してくれることになっている。
また、雑賀衆の「現・雑賀孫一」こと鈴木宗家も雑賀衆として援軍を出してくれると言ってくれている。
さて、これで大体ではあるが新生和泉守護細川家の陣容が固まった。
津田算長が和泉守護代として全体を統括しつつ、杉之坊の僧兵を戦力とする。
田中祐直が副将として又守護代となり、岩室坊の僧兵を率いる。
淡輪隆重が水軍奉行として淡輪水軍や真鍋水軍の指揮を執る。
そして侍大将として中盛勝、成神長次、奥義弘、往来友章らがそれぞれの坊院を構成員とする一軍を率いることになるわけだが、その兵力は……4000を超える規模ともなりそうだ。
(杉乃坊が最大で3000、岩室坊が最大2000、中家の成真院や成神家の愛染院などの小院クラスは100から200程度と思われるので、とりあえず津田家1500、田中家1000、水軍500、その他1000と計算した)
この軍事力があれば松浦家とは和泉で互角以上の戦いが出来るだろう。
だが松浦家のバックには三好家が控えているのだ。今はまだ急いで事を起こす必要はない。
新生和泉細川家(というか根来衆)が、そのベールを脱ぎ捨てて和泉に大々的に攻め込むのは、三好家の本隊が上洛し、勝軍山城で幕府・京兆家連合軍とぶつかり合う――その時であるのだ。
根来で今やれることは大体終わらせたので、取り急ぎ守護代の津田算長やその他主要メンバーを連れて上洛し、公方様に謁見して貰うことにしよう。
守護としての威厳を彼らに見せつける為に公方様と懇意であることを証明せねばならないからな。あんな食いしん坊将軍でも権威だけはまだ有るようで、謁見することに皆喜んでいる。室町幕府もまだまだ捨てたものでは無いようだ。
あとはまあ、いい加減そろそろ帰らないと義藤さまがまた拗ね始めると思うのだよね……もうすでに手遅れの可能性もあるが……とりあえずお土産を持って急いで帰りましょう。そうしましょう。
ぞろぞろと引き連れて帰ったら間違いなく変な噂になるし、途中で三好方に行く手を阻まれる恐れもあるので、各自がバラバラになって上洛することになった。
根来に来る時は饅頭屋の行商の格好に扮して来たわけだが、帰りの旅は根来の僧にコスプレして帰ることにした。
根来寺発行の偽造身分証(手形です)もあるので安心して帰ることができるぞ。
好き好んで根来寺と揉める馬鹿はそうは居ないし、和泉細川家が根来衆を取り込んだ事を知る者などもまだ居ないので、根来の僧としての旅は安全そのものであった。
道中では特にトラブルも無く、米田本家や奈良の饅頭屋で宿を借りながら、公方様が首を長くして待っているであろう勝軍山城に無事に帰ることができた。
そして旅装を解いては、真っ先に愛しの義藤さまにいそいそと逢いに行く俺である。
だが……その義藤さまであるが、俺の予想以上に大変なことになってしまっているのであった――
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【甘い誘惑(2)に続いて良いですか?】
察してください……
雑賀衆とか根来衆の史料調べ直しでストレス溜まってるねん
後編はやらかしていいよね?
OKという読者はわっふるわっふる




