第七十八話 合同就職説明会(2)
【合同就職説明会(1)の続き】
◆
「岩室坊勢誉と申します。父の田中祐政や伯父の岩室坊勢栄が坊の運営に専念すると申してくれましたので、この勢誉と弟の田中甚太夫祐直は和泉守護細川様の被官として武家働きをしたく、このたび参上仕りました」
「岩室坊の院主にそれを運営する田中家までもが我が和泉細川家に仕えてくださるということですか?」
「はっ。我々は守護代たる津田算長殿のもとで和泉細川家に忠勤仕る所存であります」
「和泉守護家・将軍家合同就職説明会」は朝からなんだか恐ろしいことになってしまった。いきなりビックネームの岩室坊が推参してしまったのだ。
ようするにこれで根来寺の主要四坊のうちの杉之坊と岩室坊が我が和泉細川家の被官になってしまったということだ。
むろん両坊とも根来衆として坊院の運営は続けるというのだが、どちらかというと我家の被官としての活動に主軸を移していくという。
さすがに岩室坊の院主たる田中家をただの被官にはできないので、津田算長と相談して田中祐直殿を又守護代として遇することにした。
杉之坊院主の明算と岩室坊院主の勢誉は根来寺の立場もあるので、とりあえず家臣扱いとはしないが、まあ実質家臣みたいなものです。
根来の大将たる杉之坊と岩室坊が動いてしまったのだ、今まで彼らの下で動いてきた根来衆が続々と集ってくることになるのは自明の理だった。
奥出羽守義弘(義尚とも)を面接したところで、なんかもう俺達だけで面接の真似事をやっている場合ではなくなってしまった。
【奥出羽守は諸説あるのだが、嫡子の奥弥兵衛重政とともにあの真田雪村(信繁)の旗下で戦ったこともあったと言う。奥重政は津田算長の娘を妻とし、舅となった津田算長から自由流砲術を学び根来衆として活躍し、子孫は安芸広島の浅野家で家老となっている】
守護代の津田算長と又守護代の田中祐直と、中盛勝や成神長次などの坊院の院主クラスを幹部として面接ブースを増設して彼らに任せることにした。
根来衆がわんさかと来てしまっては院主クラスの下にその他の根来衆を被官として組織化する方向で調整するほかないだろう。
だがやって来たのは根来衆だけではなかった。噂が噂を呼んでしまっているのか、この根来ビックサイトの夏の祭典には、さらに凄い奴らまでやって来てしまうのだ。
まずやって来たのは……なんとすっぱい匂いではなくて、浜の香りをまとった海賊だった……
和泉にも泉州水軍とよばれる海賊衆が活動しており、和泉南部の泉南地方の淡輪には紀淡海峡や大阪湾(和泉灘、難波灘)で活動していた泉州最強ともいえる淡輪水軍が居た。
淡輪の南はすぐに紀伊の国であり、淡輪水軍衆は雑賀衆や根来衆とも友好関係にあったようである。
その淡輪水軍の頭領である淡輪大和守隆重が海賊の真鍋内蔵助貞行を連れて所領安堵と被官の地位を求めてやって来てしまったのだ。正直言って水軍まで来るのは想定外でしたわ。
「淡輪大和守でおます。わてら淡輪衆は管領の細川高国殿にも仕えておりましたのやで、松浦や三好風情の風下にたつ云われはないのや。あんさんはほんま物の守護でっしゃろ? せやさかい、わてらが仕えるには相応しいやろと思うてんねん」
(てきとーな泉州弁ですいません、面倒くさいのでこれ以降は適当に省略します)
「はぁ、細川高国の後継を自称する細川氏綱は三好家と結んでおりますがよろしいのですか?」
「和泉灘(大阪湾)は、わてらの海やで、三好のやつらの海とちゃいまんねん。淡路の安宅と与して我が物顔で我が海を渡るのは我慢がならんわー」
三好家に与する淡路水軍と淡輪水軍で利害が一致していないと言うことだろうか、我らには都合の良いことである。
三好家の四国コンテニューはマジで卑怯くさいから、三好家の渡海を妨害できる淡輪水軍が味方になることの利益は計り知れない……これは可能な限り厚遇すべきであろう。
「わしら真鍋水軍も守護様の下知には従うつもりですが、守護の被官としてではなく、水軍衆としての扱いをお願いしたい」
真鍋家は実は元々は淡輪の水軍ではなく、瀬戸内海の笠岡諸島の真鍋島の水軍であったとされる。(現在の岡山県笠岡市)
瀬戸内海は海上交通の要衝として古来より栄え、真鍋家は源平合戦のころから水軍衆として名があり、壇ノ浦の戦いにも平家方で参加していたとされる伝統ある海賊のようだ。
だが室町時代になり瀬戸内海だけでなく、紀伊から土佐を経由して薩摩に向かう南海の交易路が使われるようになる。淡輪の真鍋家は紀淡海峡を押えるために真鍋島から淡輪に移住して来たものと思われる。
【真鍋島の真鍋本家は戦国期に毛利家に属し没落、子孫は真鍋島で帰農したようだ。淡輪の真鍋水軍には真鍋貞行の子で、織田信長に従い木津川河口の戦いで討死した真鍋七五三兵衛貞友(主馬兵衛)がいる。貞友の子の真鍋貞成は福島正則などに4千石の大禄で仕え、最終的に紀州徳川家の武者奉行ともなっている】
「分かりました。淡輪家は細川家の譜代の家臣として遇しましょう。真鍋家につきましては淡輪大和守に属する水軍衆として遇することでいかがでありますかな?」
「よろしゅう願います」×2
こうして新生和泉守護細川家に水軍まで出来てしまったのである。
根来衆の半数近くをその被官とし、水軍まで持つことになるわけだが、何だコレ? めちゃくちゃ強くないか?
余りにもとんでもない滑り出しに戦慄してしまう俺である……
◆
海賊との話し合いも終わり、根来衆の集団面接はお任せしているので、勝軍山城で公方様の足軽衆として働いてもらう者の面接も始めることにしたのだが――
「中嶋孫太郎と申します」
「平井孫六と申します」
「お二人は兄弟ですか? 仲がよろしくて良いですね。ではお兄さん、簡単な経歴と志望動機をお願いします」
「はい。父は雑賀荘の鈴木佐太夫重意と申します。分家で家が貧しいので傭兵を家業にしていますが、どうせ雇われるなら都の公方様に雇って欲しいと思って志望しました。よろしくお願いします」
――ん? 雑賀の鈴木佐太夫とな? それってまさか……
「えーとすいません……もしかして雑賀孫一って人とか知ってます?」
「はい。伯父の鈴木長重が鈴木本家で雑賀孫一郎を襲名しております」
「す、すいません失礼ですが、二人の諱(実名)を聞いてもよい?」
「鈴木重兼です」(中嶋孫太郎は実名不明なので「重兼」でいいか)
「鈴木重秀です」(義兼とか諸説あります)
――こいつら、雑賀孫市じゃねえええ?
マジか? 伝説の雑賀衆の棟梁が来ちゃったよーん。
雑賀衆ガチャ一発目から超激レアをゲットだぁぁぁ!!!
「採用! 採用! 採用! 採用しまーす。光秀、ほら早くお茶出してっ! VIPルームにご招待してっ! ぐずぐずしないでっ!」
「は、はぁ……御屋形様、びっぷるーむって何でしょうか……」
雑賀衆といえば「雑賀孫一」と言うくらい有名な武将ですが、その実在は非常に謎に包まれて来た。
結論から言えば「雑賀孫一」はいっぱい居たのだ。そのため事跡がこんがらがり謎の男になってしまったと思われる。
まあ、だが正直言って誰が本当の「雑賀孫一」とかどうでもよい。この二人が有能なのは間違いないだろう。雑賀孫市を名乗れるほどの凄腕が義藤さまの護衛になることが大事なのだ。
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「雑賀孫一」
一般的に知られている「雑賀孫市」は恐らく「鈴木重秀」の名が最も有名であろう。だが本来の雑賀孫市は鈴木重秀の父である「鈴木佐太夫重意」の兄の家系がそれにあたる。
鈴木佐太夫の兄である「鈴木長重」とその子の「鈴木重行」(重之、重幸)が雑賀党鈴木家の嫡流であり、代々の名乗りである「雑賀孫一郎」を襲名していたと思われる。(雑賀の名字は名乗っていないので正しくは雑賀の孫一郎か)
雑賀孫一郎が省略され雑賀孫一、雑賀孫市に転じた。そのため正しくは「雑賀孫一」で確認される署名は「孫一」になる。
この鈴木嫡流家が討死したか何かで絶えたか没落したか、あるいは弟の鈴木佐太夫家と対立したため、佐太夫の家系も「雑賀孫一」を名乗るようになったと思われる。
(1576年の雑賀孫一の討死は嫡流の恐らくは鈴木長重と思う)
鈴木佐太夫の長子が中嶋孫太郎で住んでいた地名から中嶋を名乗ったようだ。天正四年(1576年)の織田信長と本願寺との戦いである天王寺砦の戦いで、中嶋孫太郎は一番槍の手柄をあげたとされている。和歌山市の専光寺の住持となったようで「順勝」の号が残っている。
鈴木重秀は恐らく鈴木佐太夫の三男であり、土橋若太夫の婿となり名草郡平井に住み、始めは平井孫六を名乗ったものと思われる。石山合戦で暴れまわった雑賀孫一は一般的にはこの人とされている。
だが、石山合戦が信長の勝利で終わると雑賀衆が争いだすことになった。雑賀孫一が土橋若太夫を殺害してしまうのである。恐らく雑賀孫一同士でも戦ったものと思われる。
この辺の雑賀孫一の事跡が混乱しまくっているので誰が誰だか分かりません。
鈴木家嫡流の鈴木重行と鈴木重秀が争ったのか? 中嶋孫太郎も雑賀孫一を名乗った可能性もあるので兄弟同士で争ったのか? すまん無理分からん。偉い人早く研究してくれ。
結局、秀吉による紀州攻めで雑賀党は壊滅するのだが、鈴木重秀の子とされる鈴木重朝が豊臣家に仕え、伏見城の戦いで鳥居元忠を討ち取るなど「雑賀孫一」の武名を上げた。関ヶ原の戦いの後に最終的に水戸藩士となり、子孫は名字を鈴木から雑賀に変え、代々雑賀孫一を名乗ったという。
ただ鈴木重朝は鈴木重秀の子じゃない気がしている。三河鈴木家からの養子説なんてものもあるが、個人的には鈴木重行の子とかだったら面白いと思ってる(または鈴木重行と鈴木重朝が同一人物とか)
【参考:雑賀党鈴木家 雑賀孫市の系譜】
(孫一郎)
鈴木重村=鈴木重家┳鈴木長重━鈴木重行
┗鈴木重意┳中嶋孫太郎(順勝)
(佐太夫)┗鈴木重秀…鈴木重朝<水戸藩士雑賀孫一>
(雑賀孫一)
(系図がずれる場合はスマホの表示を横にしてください)
――謎の作家細川幽童著「どうでもよい戦国の知識」より
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現在の和歌山平野からは考えにくいかもしれないが、この時代の紀ノ川下流域も例に漏れず水浸しなのである。
紀ノ川は幾重にも流れを分け、その下流域は穀倉地帯の平野ではなく島や中州が無数にあり、入江が深く入り込み塩田が点在する有様だったのだ。
雑賀衆が傭兵集団として名を馳せたことには理由がある。雑賀荘の地勢が悪く食料が足りず、交易や傭兵家業で稼ぐしかなかったのだ。簡単に言えば食うために傭兵に成らざるを得なかったわけだ。(いろんな説があります)
おかげで公方様の足軽衆就職説明会も大盛況である。いきなり雑賀孫市というレポケモンを二匹もゲットするという幸先のよいスタートを切ったわけだが、さらに三匹目のドジョウを狙って就職説明会で食い詰めた雑賀衆を釣り上げていくのだ。
ちょっと和泉細川家を強くし過ぎたかな?
マイナー雑賀衆はすいません次話に持ち越しになりました
いつも通り予定が狂う……
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この一ヶ月、結構頑張ったつもりなのです……




