第七十四話 和泉上守護細川家の家督(2)
【和泉上守護細川家の家督(1)の続き】
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「それで父上、如何様な用件でありましょうか?」
義父の次には実父に呼び出される俺である、なんだか忙しいな。
「うむ。和泉細川家への大垣の御料所の引継ぎの件であるがな、無事に完了したと有吉将監が(細川)元常兄のところへ報告に参っておる」
三淵家が代官となっていた美濃の大垣の御料所は、三淵家が高島郡の清水山に所替となったため、藤孝の口利きで和泉細川家に宛がわれることになった。
有吉将監立言はその所領の受領のために、高島遠征後に俺の指揮下を離れて大垣へ行っていた。
「それは何より。これで和泉細川家も安泰となり、元常伯父も安堵したのではありませんか?」
「うむ。それでな……少し昔語りをしてもよいか?」
「え、ええ」
爺の昔語りとか長そうで正直勘弁して欲しいところであるが、そうは言えないので我慢して聞くとしよう。
「そなたの母が身篭ったおりに、その当時は公方様であった亡き大御所様が、わしの兄の細川元常に生まれてくる子を養子にするよう命じられたのだ。子がなかった兄に、側近であったわしの子であるそなたを養子として送り込むことで、大御所は細川晴元殿に協力的であった和泉細川家を自身の陣営に引き込みたかったのであろう」
「その話は先日築山殿からお聞きしました。築山貞俊殿と沼田光兼殿が大御所に母と生まれてくる私の世話を命じられたとか」
「そうじゃ、大御所の命があって、沼田殿の妹で築山殿の奥方がそなたの乳母になり、沼田殿と築山殿の両名がそなたの傅役となった」
「沼田光兼殿や築山貞俊殿は今でも私に良くしてくれております」
「そうであるな……だが、そなたが元常兄の養子となる話は流れたのじゃ。元常兄の嫡男である頼勝殿が生まれたことでな」
【細川藤孝と細川元常の嫡男であろう細川頼勝(元春とも)は恐らく同年齢であり、頼勝の方が先に生まれている】
「頼勝殿は建仁寺の永源庵で伏せっておいでであるとか」
「昔から病弱であったのだが、西岡の勝龍寺城より退却してから病がさらに重くなってしまったようでな」
「気が回らずに申し訳ありませぬ。牧庵叔父や坂浄忠先生にすぐに往診を依頼します」
「頼む……それとお主の叔父で和泉細川の家督と守護を継いでいた五郎晴貞もな、和泉からの退却で怪我を負って同じく永源庵で療養しておる。すまぬが一緒に晴貞の治療も頼んでおいてくれまいか」
「晴貞叔父の具合も悪いのですか?」
【細川晴貞については諸説あるが、細川元常と三淵晴員の末弟である説を採っています】
「三好や十河、それと松浦の奴らに大分やられたようであるな……」
「申し訳ありません、晴貞叔父が怪我を負ったことは存知ませんでした」
和泉では守護代の松浦守が三好長慶と結んで守護の和泉細川家と対立しており、江口の戦いで細川晴元が敗れたこともあり、十河一存と松浦守の攻勢で細川晴貞は和泉から叩きだされた。
「話を戻すが、和泉細川家への養子の話が無くなったそなたは、我が三淵家で育つのだが、三淵家はその……貧乏であった為、そなたの世話は専ら清原宣賢爺さんや吉田神社に任せておった」
「清原家や吉田家には今でも大変お世話になっております」
「そなたの教育には良い環境であったようじゃな。それから幾年か後のことであるが、大御所が八瀬の地に参られたおりに、わしはそなたの行く末を案じて大御所にお願いをしたのじゃ。良い養子入れ先を世話して貰えぬかとな……三淵家の次男では出世は望めなかったからであるが……」
「それで私は淡路細川家の養子になったのですね」
「うむ。その当時は淡路細川家の当主は細川伊豆守高久殿で内談衆として大御所の側近であったのじゃ。大御所や義姉(佐子の局)の推薦もあり、そなたは高久殿の嫡子である晴広殿の養子となることになったわけだな」
「大御所は私のことを昔から気にかけてくれていたのですか」
「先妻を亡くしたわしに、そなたの母を後添えとして迎えるように勧めてくれたのも大御所であるのだ。大御所はいろいろとわしの面倒を見てくれたものじゃ……」
父が遠い目をしている。大御所のことを思い出しているのだろう。
二人が良い主従であったのは知っているつもりだったが、俺が思う以上に強い絆で結ばれていたのだろうか……
◆
しばらく会話が途切れたのち、父は和泉上守護細川家の話を始めた。
父はなぜに昔語りを俺にするのであろうかと思っていたが、ようやく話の核心に近づいてくる。
「わしの実家である和泉上守護細川家のことであるが、細川元常の兄は京兆家の細川晴元の側にあり在京することが多かったのだ。そのため和泉の国許には弟の五郎晴貞が下向して統治するようになり、兄は家督と守護職を晴貞に譲ったのだ。まあ、晴貞の家督は兄の嫡子である頼勝の成長までの陣代であったのだが……そのあたりのことは話しておったかの?」
(陣代を代理当主の意味で使ってます)
「いえ……」
「先の戦いで和泉細川家は松浦や三好の奴らに、和泉や阿波、伊予に勝龍寺と、ことごとくその領地を押領されてしまった。その方に頼まねば和泉細川家は没落するところであったのだ」
「公方様に大垣の代官に任じて貰いましたので一息はつけたかと」
「そなたの援助と口利きのおかげであるな。それで、和泉家がひとまず落ち着けたことと、大御所の薨去の件もあって、元常兄と五郎晴貞は出家して家督を譲ることになったのだ。わしの出家はそなたと公方様に止められたから羨ましくあるがのう」
大御所の側近であり幼馴染でもあった父の三淵晴員は大御所が薨去なされたことで、むろん出家を望んだのだが、内談衆に就任して公方様を補佐することを遺言され、公方様にも出家を止められたので今のところ思いとどまっている。
「それでは頼勝殿の家督就任を祝う席が必要ですな。大御所の喪中でありますれば、あまり派手に催すことはできませぬが、それでも――」
「そうではない。家督を継ぐのは――和泉上守護細川家の家督を継ぐ者は、与一郎そなたじゃ――」
「――は? おっしゃる意味が分かりませぬが?」
「お主にしては察しが悪いのう。元常兄と晴貞に、当の頼勝もであるが、頼勝は病で和泉家を差配することが難しいと、その方に和泉細川家の家督を継いで欲しいと願って来たのじゃ」
「な、何ゆえ私でありまするか?」
「三淵家が高島郡で大領を得たのも、和泉家が大垣で所領を得ることが出来たのも、全てはそなたのお陰じゃ。それに江口の戦いで三好長慶に一矢報いたことや高島郡での活躍など、槍働きでも元常兄はそなたを認めておる。元常兄の配下の有吉将監もそなたであればと、諸手を上げて賛成したと言うぞ」
「ですが、私は淡路守護細川家の嫡男であり、細川晴広義父上の養子であります。私が和泉家を継ぐことは……無理筋な話でありましょう」
「その方は知っておるのか? 晴広殿に嫡男が生まれたことを」
「は? はぁあああああ? 義父に子が? それに嫡男ですと?」
Wショーック! 実子で男とか、俺は要らない子になってもーたー!
「そなた……この所、晴広殿と疎遠であったろう。そなたが高島遠征中に生まれたそうなのだが、晴広殿も言い出しづらかったようでな……わしの所へ相談に参ったのじゃ。むろん、晴広殿は今更生まれた実子ではなく、そなたに家督を譲ることに変わりは無いと申しておったが、晴広殿の心情を察せられない程、そなたは愚かではなかろう?」
そんなもん実の子の方が可愛いに決まってるジャマイカ。俺は出兵にも反対する聞き分けの無い可愛くない養子だしな。
しかも子が生まれたことを相談もしてくれないほど、信頼されていないわけであるし……
「い、潔く身を引きます……淡路細川家の家督は晴広殿の和子が継ぐのが相応しいと存じます……」
「そ、そう答を急ぐでない。晴広殿の子は生まれたばかりじゃ。淡路細川家と縁を切らずとも良いではないか。できればその和子を後見してやって欲しいのじゃ。残念ながら淡路細川家には頼りとなるのはそなたしかおらぬではないか」
「はぁ……」
「それと話は戻るが、和泉細川家の家督を継承するのは良いであるな?」
「良くないですよ。病弱とはいえ頼勝殿が居りますし、それに頼勝殿のほかにも弟が居たかと思いましたが?」
【ちなみにその弟は建仁寺永源庵7代住持となる玉峯永宋で、8歳の子供であり、この翌年に永源庵に入寺したとされる。建仁寺の永源庵は和泉上守護細川家の菩提寺であり非常に関係が深く、3代住持の実夫通的、5代住持の合浦永琮、6代住持の当谷源諦も和泉細川家の一族だったりする】
「そなたは晴貞と同じで陣代というわけじゃ。頼勝殿の子か、弟が成長するまでの間の仮の当主というわけよ。気軽に家督を継承すればよいのだ、がっはっは」
プチっ。
「家督なんて気軽に継げるかボケェェェ!」
なんで俺が……俺の座を奪い取った赤ちゃんの後見やら、以前に袖にされた家の陣代とか言う便利屋にならねばならんのだー!
俺は使い勝手のよい中継ぎ投手か! 登板過多で酷使される未来なんて嫌だぁぁぁ。神様、仏様、稲尾様、雨権藤様、誰でも良いから助けてくれー!
「うるさいわ! 良いから貰えるものは貰っとけばよいのじゃ! それとも、そなたはわしの実家の和泉細川家がどうなってもよいと言うんか!」
「か、考えさてくださいー」
俺は泣きながら父の部屋を飛び出し、恥じも外聞もなく天守閣の義藤さまの部屋へと逃げ込んだ。義藤さまのお布団の中に篭城したのである。
義藤さまは泣きながら転がり込んできた俺にびっくりしていたが、訳も聞かずに優しく迎え入れてくれたのであった――
永源庵の住職の名前の読みに自信がなくてルビが振れない
まあ、誰も気にしてないか(爆
細川藤孝の謎の考察もいずれやるつもりです




