第七十三話 あの日の出来事(1)
天文十九年(1550年)閏5月
大御所が薨去なされて仏事が続くことになる。現代では簡略化されているが、初七日と四十九日のほかにも色々と仏事があったりするものらしい。
萬松院殿(足利義晴)の葬儀は慈照寺(銀閣寺)にて執り行われることになった。大御所が今出川御所以外で長らく過ごした場所になるので相応しくあると思う。
慈照寺は俺や義藤さまにとっても思い出の場所になり、大御所とも会話を重ねた場所であるので、ここで大御所の葬儀が出来ることは嬉しくもあった。
我らが高島郡で戦を行っているころ、この京周辺では細川晴元と三好長慶の配下らが小競り合いをしていた。
三好長慶自身は摂津の伊丹城の攻略や和泉の平定を優先しており上洛はしていなかったが、細川氏綱が淀に、松永長頼(のちの内藤宗勝)が山科に、その兄の松永久秀が洛中に進出している。
細川晴元は三好宗三とともに三好長慶方が洛中支配の拠点にしていた小泉城(西院城)を攻撃するなどしていたのだが、小泉秀清や松永久秀にあっさり撃退されていた。
山科方面では六角義賢が撤退してしまったので、松永長頼と今村慶満が山科を占領し、幕府が御料所としたばかりの山科は押領されまくっている。
山科言継卿は家領を幕府に、ついで松永長頼に押領されて涙目であろう。山科に御料所を貰った奉公衆らも阿鼻叫喚らしい。
細川晴元と袂を分かった三好長慶は京兆家の当主に細川氏綱を据えており、名目は一応三好長慶方ではなく細川氏綱方ということになる。
小泉秀清や今村慶満は、元は細川国慶の被官であったとされ、細川国慶の死後は細川氏綱の被官となり、細川氏綱は三好長慶のただの傀儡ではなく、それなりに最近は評価される傾向にあるようなのだが、少々疑問ではある。
細川国慶は土佐守護代細川家の流れである細川玄蕃頭家の者になる。両細川家の乱で土佐から出張ってきたのであり、畿内にろくな地盤などは持ってはいなかった。
小泉秀清や今村慶満は山城の国人であり細川国慶や細川氏綱の重代の被官というわけではないのだ。
細川高国派の京兆家内衆がほぼ壊滅してしまったので新たに重用されるようになっただけであろう。
この時期の洛中方面の指揮官は松永長頼であり、細川氏綱はやっぱりお飾りの域を出ておらず、敵はやはり三好長慶なのだ。
(松永長頼の方が兄の松永久秀よりも出世が早く、当時は兄より優れた弟だったらしいです)
そんなわけで、勝軍山城の細川晴元と洛中を押えた三好長慶方とは小競り合いを重ねていたのだが、大御所の足利義晴が薨去したことにより、その争いは止まることになった。
三好長慶は大御所の薨去という事態にあって、そこにつけこむようなことはせずに幕府への敵対行動を一時ストップするのである。
人として尊敬できるし、三好長慶の魅力でもあるのだが、敵の隙につけこむことをしなかったことが、三好家の拡大スピードを抑えることになり、天下を維持することができなかった理由であるのかもしれない。
三好長慶の好意? もあって、無事に慈照寺で萬松院(足利義晴)殿の葬儀が執り行われることになった。
義藤さまは茶筅髷に袴も「はいてない」姿で現れ、抹香を位牌にぶちまける――というようなことはせずに、正装でしっかりと喪主の務めを果たしておられた。
葬儀の席で知恩院と知恩寺が席次争いをするとか、アホな問題も起こったようだが、新たに内談衆となる8人や政所執事の伊勢貞孝などが睨みを利かせて葬儀を取り仕切っており、慈照寺での葬儀はとりあえず無事に終わったのである。
ん? 俺? 俺は葬儀では出番はなかったよ。
葬儀にはむろん出席したけど、葬儀までの間はほとんど高島郡にいたので、葬儀の準備はやってないし、ただ出席しただけです。
別に政権運営からハブられたというわけではなく、制圧して間もない高島郡の統治に専念せよと、義藤さまに命じられて清水山城や今津にて政務にあたっていたのだ。
◆
「い、いけません義藤さま。そんな霰もない格好でそんな破廉恥なことされては……ふ、藤孝はもう辛抱たまりませーん」
「我慢することはないのだ。さあ、わしを……あたためてくりゃれ。このような姿では寒くてかなわぬ」
義藤さまがはだけた小袖に紐パン姿という、とても美味しそうな格好でせまってくる。
お布団に押し倒された俺は、その姿に釘付けとなり動くことができない。
というか動きたくない。パ、パラダイスだぁぁ。
「だ、だめです……」
だめじゃないです。カモーンカモーン!
「まったくいくじのない男じゃな。そんなそなたにはこうしてくれるわ」
まるで小悪魔のような笑顔である。
「そ、そんなことまで、ダメです……あたっております」
あるのか無いのかよく分からない「おぱーい」を押し付けられる。
「あてているのだ。素直に喜ぶがよい。さあ、こんなことまでしてしまうぞ。そなたはもっと喜ぶがよいのだ」
そしてさらに義藤さまが手を伸ばし……
「もう、これ以上は――」
アーッ!
◇
◇
◇
ふう、困ったものだ……
夢にまで義藤さまを見てしまうとは。この数日は逢えていないから、心から義藤さまを求めてしまっているのだろうか。
(義藤さまがエロくて美味しい展開に喜んでいたのに、ちくしょう夢オチかよ……)
俺は朝から今津の町の高島屋の本店として借り上げた屋敷の裏庭で洗濯をしていた。
何を洗っているのかって?
それは聞いてはいけないことだ。武士の情けだ。見なかったことにするのが男の友情というものであろう。
高島屋の船出は順調だ。固形石鹸や朽木谷の木材の端材で作った洗濯板、清水の神酒、吉田の神酒、もみじ饅頭に笹団子、珪藻土で作った七輪に調湿材、五苓散ほかの薬や目玉商品の紐パンなど、高島屋でしか手に入らない商品は話題を呼び、今や遠くの商家からも引き合いが来ているようだ。
え? 紐パンをマジで売るのかって? あたり前田慶次のクラッカーだ。紐パンの普及活動は俺の人生の哲学だ。(適当に聞き流して下さい)
高島屋で扱う商品は幕府発行の奉行人奉書で関銭が掛からないようにするし、琵琶湖の舟運でも殿原衆が運んでくれるので余計な金も掛からない。流通経費が抑えられるので利益率が高くてウハウハだ。
角倉吉田家に川端道喜、饅頭屋宗二、茶屋明延といった、洛中の一人でもすんごい豪商がこぞって経営に参画し、高島(南市)商人をその傘下に収め、若狭の鼠屋と組屋に越後長尾家の庇護にある越後屋と協調して商売をする高島屋は、この時代にあってはちょっとチート過ぎる商会かもしれない。
三好長慶を打倒し、洛中を幕府が回復した暁には、幕府の呉服や兵粮に武具、各種調度品などを独占する幕府の御用商人の座や、幕府の財務に食い込み棟別銭や土倉役・酒屋役などの各種税金の徴収や財務の事務も担っていく公方御倉の座を高島屋に与えることも、美味しいもの食べ放題の密約を結んだ公方様より確約を頂いている。
高島屋は裏切ることなく、幕府と三好長慶との戦いを側面から支えてくれることだろう。
高島屋の経営は面倒なのでMMRのメンバーに任せて俺は黒幕の総裁として君臨しているのだが、目端の効く商人にはバレてしまうのであろう、このところ俺への接待攻勢がすんごいんだわ。
一昨日は江南の五箇商人や四本商人(山越衆とも)たちが、高島屋の商品を有利な条件で仕入れるためであるのだが、綺麗どころを並べての宴会で俺を接待しようとして来た。
ぷるんぷるんな巨乳のねーちゃん達をわんさか連れて来たものだ。
俺はむろん巨乳には目もくれない。俺の心は義藤さま一筋だからな。
いっぱい居た巨乳のねーちゃんは、同席していた金森五郎八長近や米田源三郎求政の兄貴がお持ち帰りしていた。
斎藤内蔵助利三は逆に巨乳のねーちゃんにお持ち帰りされていたようだが、まあ良い社会勉強だろう。
明智十兵衛光秀と吉田雪荷重勝は俺と同じで身持ちが堅くてストイックなので、隅っこでつまらなそうにチビチビ呑んでいたな。
商人どもは俺が巨乳に興味がないと思ったのか、昨晩はうって変わって貧乳のスレンダー美人の娘どもを今度は連れて来た。
違う、違う、そうじゃない。ただ、義藤さまが、こう少し残念な胸をしているだけで、俺は貧乳好きではないのだ。巨乳だって本当は大好きなのだよ!
スレンダー美女どもは守備範囲がイチロー並に広い金森五郎八長近と、なんでもバッチ来いな米田源三郎兄貴に、身持ちが堅かったはずのエセストイック明智十兵衛光秀までもがまさかのお持ち帰りをしていた……少し光秀を見損なったりもした……
斎藤内蔵助利三はやっぱりスレンダー美女たちにもお持ち帰りされていた。なぜにアイツはあんなにモテるのだろう……少し羨ましい。
巨乳にもスレンダー美女にも誘惑されないストイックな俺は、家臣たちが「昨晩はお楽しみでしたね」てなことをしている事に多少ムカつきながらも、朝から洗濯を頑張っていたわけだ。
「わかとのー、そんなところで褌なぞ洗ってないで朝飯にしましょう」
金森五郎八には武士の情けは無かった……俺の心の中で五郎八の査定が少し下がった。
◆
【あの日の出来事(2)に懲りずに続く】
またやってしもうた
作者にしては珍しく感動的な話を書いたのに
直後にそれをブチ壊すようなアホな話を……
週末更新と言ったがあれはウソだ
緊急事態宣言で勤務調整になり今日は休みになってしまった
しょうがないので朝からアホな話を書いてました
いい加減コロナは収まって欲しいのう
会社の業績が、作者の給料が……




