第十一話 将軍宣下
天文十五年(1546年)12月
転生したり、蕎麦屋をやったり、義藤さまの兵法指南になったり、医薬の勉強をしたり、鰻重屋を始めたり、酒造りを始めたり、どこかの店が落城したりしていたころ幕府が動いていた。
そう、足利義藤の「元服式」および「将軍宣下の儀」が執り行われることになり、その準備が進められていたのだ。
細川家の嫡流である京兆家では細川晴元と細川氏綱の二人が争っていた。
前管領の細川高国を大物崩れで討ち破った細川晴元は、将軍を擁し京を支配する有利な立場にあったが、養父の細川高国と実の親である細川尹賢を晴元に殺された細川氏綱も抵抗を諦めていなかった。
細川氏綱は紀伊・河内の畠山家の勢力と結んで対抗し、氏綱方の細川国慶が9月に上洛して洛中を占拠するなど、細川晴元に対して有利に情勢を進めていた。
細川晴元は京を放棄してさっさと丹波に逃れてしまい、将軍の足利義晴とその嫡子である足利義藤(足利義輝)は東山の慈照寺(銀閣寺のあるお寺です)に逃れるハメになってしまったのだ。
将軍である足利義晴のもとには細川晴元からも細川氏綱からも支援の要請が来ていた。だがこの時期、義晴は明確に晴元への加勢を表明していない。
義晴は細川高国の死後、細川晴元と和睦し協調していたのだが、本来は細川高国によって擁立された将軍である。高国の養子である氏綱も将軍義晴に対しては明確には敵対していなかった。
この時期、足利義晴は京兆家の家督を細川晴元から細川氏綱に変えようと画策していたようである。その結果、将軍義晴と管領たる晴元との関係は悪化していくことになる。この情勢下において将軍の足利義晴は嫡子の足利義藤の元服と将軍宣下を行うことを決意していたのだ。
管領たる細川晴元が不在の状況で行うのである。これでは細川晴元との関係は急速に冷え込むことであろう。この義藤の将軍宣下自体を義晴が晴元と敵対するために行ったとする説もある。たとえ義晴が破れても息子の将軍は関係ないと言い逃れができるからだ。
また義藤の将軍就任は義晴が将軍になった年齢と同じであり、先例の踏襲という意味あいもあるが、足利将軍家の中の対立も関係している。
堺公方と称した足利義維に、この先も将軍位は譲らないという義晴の意思表示の現れである。
俺が「細川藤孝」として転生した天文十五年の冬はこのような情勢下にあった。
まだ13歳で淡路細川家の当主ですらない俺には幕府内で力もなく、正直やれることが少ないというか、ほぼ何もできない状況なのだ。まだ俺は時代の大きな流れを変える力などは持っていなかったのである――
◆
足利義藤様の将軍就任式は近江の坂本で執り行われることになった。将軍の在所である東山の慈照寺から坂本まで、将軍父子を護衛するために六角定頼が軍勢を慈照寺に派遣した。
12月18日の巳の刻に足利義晴・義藤さまの一向は慈照寺を出発する。
新公方となる足利義藤には赤毛の毛氈鞍覆に白傘袋の様相をした大館晴光、朽木稙綱、伊勢貞孝の三騎が御供衆として随行している。
また走衆の本郷信富、杉原晴盛、進士晴舎、沼田光兼、安威藤備、飯河信堅の六人が付き従い脇を固めている。
将軍を退位し大御所となる足利義晴にも同じく赤毛の毛氈鞍覆に白傘袋の様相をした上野信孝、細川晴経、大館晴忠の三騎が御供衆として随行した。
義晴公の走衆としては、伊勢盛正、伊勢貞清、千秋晴季、石谷光政、海老名頼重、彦部晴直、狩野光茂、矢島定行、真下晴弼、大和小三郎といった面々が付き従っている。
幕府が洛中の御所を離れ逃亡中という中での一大イベントである。この行列の華となる御供衆や走衆などは、この晴れ舞台に大いに力を入れていた。見栄を張るために鎧一式や馬に毛氈鞍覆の用意など、さぞや金を掛けて新調したことであろう。
武家には見栄も大事であるが、他人ながらその懐具合を心配してしまった。
将軍の脇を固める奉公衆様御一行の後ろには、六角定頼の派遣した佐々木田中氏と佐々木越中(高島)氏の軍勢が護衛としてついて来ている。護衛というがこれも将軍御一行様を飾るための見栄であり、六角家の威光を示すためのパフォーマンスでもある。
その軍勢の数は2千人余り。将軍を迎える警護のためだけにこの数を出しているのである。さすがは大国近江の守護職を務める六角家といったところか。
将軍父子御一行様の道のりは、在所である慈照寺からまず南へ向かい南禅寺門前を通り、南禅寺から日岡峠を越えて山科に入った。
山科からは大津を通って坂本へという道筋だ。慈照寺から坂本までは一日とかからない距離になる。
その坂本では佐々木六角家の当主である六角弾正少弼定頼が将軍父子御一行様を盛大に出迎えた。
「ぶわっはっはっは。よくぞまいられましたな若君ぃ。此度の元服式はぁ、この六角定頼めにお任せくだされぇい!」――六角定頼はさすがの貫禄であるが、なにか暑苦しいので正直俺は近づきたくない。
ちなみに俺こと細川藤孝も一応はこの将軍様御一行に付いてきて坂本までやってきている。だが「ただついて来た」だけだ。役目は特にない。その他大勢の一人として着いて行っただけなのである……すまん出番をクレ。(涙)
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翌日の12月19日、坂本の樹下成保の屋敷で足利義藤公の御元服式が執り行われた。日吉神社の宮司を勤める樹下成保の屋敷はこの十年使用されておらず荒廃していた。
だが、かつて皇居として使用された先例があったため、この元服式のためにわざわざ六角定頼の命令で数日前から修復がなされて会場として使われることになったのだ。
元服式については概ね先例に則って執り行われたのだが、やはり六角家の役割が大きかった。以下が元服式の役割である――
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・惣奉行:摂津元親(義晴の側近である内談衆)
・奉 行:松田晴秀、飯尾堯連(両者とも幕府の奉行衆)
・理髪役:細川晴経(奉公衆の奥州細川家当主、先例により任命された)
・加冠役:六角定頼(近江守護六角家当主)
・打乱箱:朽木稙綱(佐々木一族、義晴の側近である内談衆)
・泔杯役:大原高保(六角定頼の弟、佐々木大原氏の養子となる)
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注目すべきは六角定頼が将軍の烏帽子親となる加冠役に就任していることであろう。本来は将軍の元服における加冠役は管領がその役目を務める。
管領たる細川晴元が京を逃げ出して不在であり、またその対抗馬である細川氏綱も近江にまで出向くことができなかった。
そのため最大の後援者である六角定頼を将軍の足利義晴はここに「管領代」に任じたのである。
いままで細川晴元を「管領たる」と表現してきたが、実はこの細川晴元は細川京兆家の当主としては認められているが、将軍の足利義晴は細川晴元を正式に「管領」には任じていないのである。
細川晴元の政権運営は「管領」という幕府役職に基づいたものではなく、細川家の宗家である京兆家の権威に基づいたものであり、京兆専制体制とも言うべきものであったのだ。
そのため義晴は「管領代」に六角定頼を任じることで、六角家の家格を引き上げ、細川京兆家と同格と見なすことにより、「明応の政変」以来続く、京兆家による専制体制を打ち倒そうとしたのかもしれない。
なにはともあれ、六角家の権勢は六角定頼が「管領代」になることでここに極まったのである。
元服式に続いて武家故実・弓馬故実の家である京都小笠原家の小笠原稙盛によって、御乗馬始の儀式が執行された。
義藤さまは六角定頼の進上した名馬に颯爽と騎乗された。うん、実に可愛くて凛々しいお姿である。
翻って細川藤孝はどうであろう。元服式も乗馬始の儀式も俺は相変わらず「ただ居た」だけである……だから出番をクレ。
史実では細川藤孝がこれらの儀式に居たかは分からないのだが、まあ居たとしても何もできないのは同じだと思われる。
行事を観察していて思ったが、護衛の軍勢や元服式の屋敷の用意など、義藤さまの元服式や明日の将軍宣下の儀式については、将軍である足利義晴公の最大の後ろ盾であった六角定頼の影響下で行われている。
この六角定頼という将は実は只者ではないのだ。六角氏というと織田信長の上洛戦においてワンパンされた「貧弱! 貧弱! 貧弱!」というイメージがあると思うのだが、この当時の六角家は六角定頼の武威で畿内の超大国として君臨していた。
その六角定頼は近江守護の六角高頼の次男で兄の死後に六角家の家督を継承している。
定頼は南近江の観音寺城を拠点に南近江を支配し、その観音寺城下においてこののち楽市楽座や家臣の集住を行うなど、織田信長の先駆けともいえる政治を行っている。織田信長は六角定頼の真似をしただけともいえるのだ。(それでも偉いと思うが)
北近江では浅井家をその影響下に押さえ込んでおり、西近江の高島郡では佐々木越中(高島)氏・佐々木田中氏などの高島七頭を将軍の護衛として派遣させるなど、やはり自身の影響下においている。
天文法華の乱で共闘するなど比叡山延暦寺とも協力体制を整えており、まさに近江では敵なしの状態であった。
現在の感覚からすると近江の国である滋賀県なんて琵琶湖しかねーよとか。鳥人間コンテストとか、廃墟みたいだったピエリ守山など、もしかしたら碌な印象がないかもしれない。(作者の偏よりまくったヘンケン艦長です)
だが近江の国は1598年時の石高では77万5千石の全国2位であり、1位があの無駄にくそ馬鹿でかい陸奥国なので、いまの県単位では実質全国一の生産高を誇っている超大国なのである。
京のある山城国にも隣接し、陸上・水上交通の要衝であり、鉄砲で有名になる国友村も近江の国にある。近江の国は戦国時代において最先端のトレンドをひた走る地域でもあったのだ。
近江を支配することがどれだけ重要かは分かっていただけたであろうか。
このような重要地である近江一国のほとんどをその影響下に置くとともに、伊賀国の過半をも間接統治し、さらには伊勢や美濃へも出兵するなど、六角定頼の勢力はこの時代の畿内においては群を抜いていると言って良いだろう。
また定頼は幕政にも積極的に関与し、細川氏綱の養父である前管領の細川高国と結び、1520年の等持院の戦いで三好長慶の祖父である三好之長を破り、細川晴元の父の細川澄元や三好之長を死に追いやるなどの武勇も誇った。
細川高国が将軍の足利義稙と対立すると、細川高国による足利義晴の擁立にも協力している。細川高国はいろいろあって、細川晴元方に大物崩れの戦いで敗れて討死してしまうのだが、六角定頼は足利義晴に引き続き協力している。
細川高国が討死し、足利義晴が京を追われると近江の観音寺城下に迎え入れ3年の長きの間に渡って支援を続けたのだ。そのためこの時期は「近江幕府」ともいわれる。
その後も六角定頼は足利義晴と細川晴元との和睦を斡旋するなど、足利義晴を厚く支援してきた。
六角定頼はその後、細川晴元に養女と実の娘を嫁がせることで婚姻同盟を結び、山科本願寺との戦いにおける一向一揆の排除や、天文法華の乱では比叡山延暦寺と協力して法華一揆(日蓮宗)を排除し、下京を焼き払うなど細川晴元と協調している。(このときに下京は壊滅的な被害を受けたが、その被害は応仁の乱を越える被害であったという)
大御所となった足利義晴公は六角定頼に期待していると思われるのだが、六角定頼は過去には将軍であった足利義稙を見捨て、また管領で同盟者であった細川高国も最終的には見捨てている事実もあったりする。
六角定頼にとって将軍や管領などは六角家のために利用するだけの存在であったとも言えるのだが、それは今後も同じではないだろうか……
足利義晴が六角定頼に将軍の烏帽子親となる地位、管領代の栄誉を与えたのは長年の支援に報いるためと、六角定頼を引き続き自分の有力な後援者として繋ぎとめるためでもあるのであろうが……
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元服式の翌日の12月20日には日吉神社で将軍宣下の儀式が執り行われた。日吉神社は今の日吉大社である。
その儀式にも俺はあいも変わらず「ただ居た」だけである……だからほんとに出番をクレ。
そして夜には足利義藤様の元服と将軍宣下を祝う宴会が挙行されたのである。
「公方様におかれましてはぁ、将軍宣下の儀ならびにぃ、従四位下左馬頭への任官、誠にぃ恐悦至極に存じまぁーす! 不詳ながらこの定頼めが乾杯の音頭を取らせて頂きますぅ! それでは皆々様方ぁ! かんぷぁあああああい!!」
六角定頼は上機嫌であった。まあ六角家にとっては今日この日が史上最も輝いた日になるのかもしれないからな。とにかく暑苦しくてかなわんが。
先ほど散々褒めておいてなんだが、まあなんというか六角家はこの六角定頼の死後には坂道を転がり落ちるどころか、崖上からダイブする勢いで没落することになる。
野良田の戦いで浅井長政に蹴りを入れられ。三好長慶の台頭で畿内では三好家にマウントを取られ続け。観音寺騒動で内臓疾患に陥り。
あげくには、足利義澄派の将軍家の最大の功労者だったはずなのに、なぜか足利義昭の擁立には協力せずに、織田信長にワンパン喰らってゲリラ落ち。六角家はあっという間にどん底まで落ちていってしまうのだ。
正直、俺にとって六角家なんてどうでもいいのだが、もう少しなんとかならなかったのかね……まあ、今日ぐらいは可哀想な六角家が主役でいいのだろう。
六角定頼が得意そうに大御所になった足利義晴と談笑している。せいぜい短い栄華の絶頂を味わうが良いのだ。
……あれ? ところで義藤さまはどこへいったのだ? この宴会の主役のはずなのに会場に居ないではないか。
自分が何もしなかったことで祝う宴会なぞは面白くもなんともないし、俺にとってはどうでも良い宴会ではあるが、間違いなく義藤さまは主役なのだ。宴会場に居ないのはまずいだろうと、俺は義藤さまを探しにいった。
結局、宴会場の外の庭先で、本日の宴の主役のはずの足利義藤さまとその護衛の新二郎を発見した。
「公方様、主賓がこのような場所に居られては皆が困りましょう」
「藤孝か、ここには新二郎とわししかおらぬ。お主にまで畏まられては、わしの気が休まる場がないではないか」――俺の問いかけに義藤さまは少し元気なく答えた。
「これは失礼しました。義藤さま少しお疲れですか?」
「まあな……少し疲れてしまってな、夜風にあたりに参ったのだ」――面倒くさい儀式の連続である。疲れないほうがおかしいだろう。
義藤さまは庭石に座りこんで星空を見上げている。
俺も一緒になって星空を見上げてみた。思い出す東京の夜空とはまったく違ってとても暗く、星がまたたくのが良く見えた。義藤さまを宴会場に連れ戻す気で探していたのだが、何故かそんな気はなくなってしまった。少し義藤さまの気を休ませてあげたい……
しばらくの沈黙のあと、義藤さまが俺に問いかけてきた。
「藤孝。わしは将軍になった。違う道もあったのかも知れないが、もう後戻りはできないようじゃ」
「はい……」
「藤孝、その方はわしについて来てくれるか? わしにはあまり信頼できる者がおらぬ」
「安心してください。義藤さまがダメだと言っても、この与一郎はどこまでもついていきますよ」
「そうか……」――義藤さまは安心したのか微笑んで、また夜空を見あげた。
今の俺は義藤さまにとっては、ただ気の休まる家臣にしか過ぎないのだろう。だが俺はすでに心に決めているのだ――俺があなたの命を守って見せると。
将軍弑逆という悲惨な結末を迎えないためにも、俺がこの手で未来を変えて室町幕府を再興するのだと。
この日、義藤さまは室町幕府における第13代の征夷大将軍に就任した。
だが俺はまだ室町幕府においては、何もできない無力でちっぽけな存在でしかなかったのだ。正直この将軍就任式でそれを痛感した。
夜空を見上げる義藤さまを見つめながら、俺は自分に何ができるのか、今俺がやるべきことは何であるのかを考えてしまうのであった――
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――翌日、寒空に薄着でじっと黙って義藤さまの警護をしていた新二郎が風邪を引いたり。義藤さまの首が少し斜め上を向いて戻らなくなったり。
ついに琵琶湖にまでウナギの買い付けにノコノコやって来た清原業賢伯父にばったり出くわしたりしたのだが――それらは多分すごくどうでも良い話であろう。
ダメなところあったらどんどん改稿しますのでご協力お願いします。




