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おまけ 高島七頭の解説(2)

【高島七頭の解説(1)の続き】

 ◆


永田(ながた)家(佐々木永田家)】

 尊卑分脈では「長田」と記されるがいつの間にかに「永田」になったようだ。(史料では長田、永田表記混在)

 この高島七頭の永田家は尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)以外に系図が残っておらず、まったく系譜が分からなくて困り果てたりする。

 室町期の活動はほとんど不明でわずかに「永田(ながた)弾正忠(だんじょうのちゅう)親綱(ちかつな)」や「永田(ながた)与三郎(よさぶろう)親久(ちかひさ)」の名が確認できるだけである。


 戦国時代では「永田左馬助」や「永田伊豆守」が居たようだが、むろん実名は不明なので早く偉い人は研究してくれ。

 永田家の最後の当主は「永田(ながた)左馬助(さまのすけ)秀宗(ひでむね)」とされ、浅井・朝倉家と織田信長が争った「志賀(しか)の陣」における坂本合戦で浅井・朝倉方の先鋒として討ち死にしたとされるのだが、「永田秀宗」の名は偽書「江源武鑑(こうげんぶかん)」が出典のような気がして少し怪しい。


 高島七頭として滅んだあとは、織田信長の甥で高島郡を領した「津田信澄(つだのぶすみ)」の配下に「永田左馬」の名が見えるのだが、これまた詳細は不明である。

 また梶井門跡(かじいもんぜき)三千院(さんぜんいん))の有力門徒(院家)である護正院(ごしょういん)の院主が「永田」を名乗っており、恐らくは佐々木永田家の一族であろう。


 佐々木永田家の分家としては六角家の被官の永田家があり、佐々木永田家初代の長田胤信(ながたたねのぶ)の次男の長田貞綱(ながたさだつな)市原(いちはら)四郎とも)の家系になる。

 佐々木永田家が謎だらけなので混同されることもあるようだが、永田宗家は六角家に完全に臣従はしていないので別家になる。


 この分家の永田家は「永田備中守」や「永田刑部少輔」を名乗りとし、永田宗家とは違って完全に六角家の被官として活動している。

 戦国期には「永田(ながた)備中守(びっちゅうのかみ)賢弘(かたひろ)」や「永田(ながた)刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)景弘(かげひろ)」の名が見え、永田景弘は観音寺騒動(かんのんじそうどう)で率先して六角義治(ろっかくよしはる)を追いやっている。

 織田信長が足利義昭を奉じて上洛戦を行い六角家と対立すると、永田景弘は織田信長に臣従している。


 永田景弘は別名を「永田正貞(ながたまささだ)」とされ、剛力の武将として織田信長主催の安土の相撲大会で阿閉貞大(あつじさだひろ)と相撲で戦い勝利している。

 永田正貞の子は「永田貞行(ながたさだゆき)」で徳川家康に仕えて400石の旗本となり家名を遺している。


【朽木家(佐々木出羽家)】

 ちなみに、佐々木横山家の祖の「横山泰氏(よこやまやすうじ)」、佐々木田中家の祖の「田中氏綱(たなかうじつな)」、佐々木出羽家の祖の「朽木義綱(くつきよしつな)」は兄弟である。

 惣領は恐らく「朽木家」であり、田中家や横山家は朽木家の分家と言ってもよいかもしれない。


 戦国期の朽木家は有名だからスルー(笑)するが、朽木元綱(くつきもとつな)が織田、豊臣に仕え、関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返り高島七頭として唯一家を存続させた。

 朽木元綱の嫡男である朽木宣綱(くつきのぶつな)の朽木宗家は旗本として朽木の地で存続し、元綱の三男である朽木稙綱(くつきたねつな)の家系は最終的に丹波福知山(ふくちやま)藩3万2000石として明治維新を迎えている。宗家より分家の方がでかくなったわけだ。


 ほかに朽木の末裔としては仙台藩士の朽木家がある。朽木一門の宮川家の子孫とされ伊達家に仕えてから宮川から朽木に改姓している。


 また細川藤孝・忠興の肥後熊本藩にも朽木家があり、これは三淵藤英(みつぶちふじひで)の三男である「朽木昭貞(くつきあきさだ)」を祖としている。

 朽木昭貞は朽木稙綱の養子とされるのだが、内談衆の朽木稙綱の養子では世代が合わないし、朽木元綱の三男の朽木稙綱の養子でもないだろうが、どういうことなのだ? 誰か偉い人説明してくれ。

 個人的には朽木稙綱の庶子たちの誰か(朽木藤綱(くつきふじつな)など)の養子ではないかと思っている。


【田中家(佐々木田中家)】

 田中家も系譜が良く分からない家である。(いい加減にしてくれ)

 戦国初期の「田中(たなか)四郎(しろう)兵衛尉(ひょうえのじょう)頼長(よりなが)」は足利義輝の元服式の際や六角定頼が足利義晴の篭る北白川城を攻撃した際には六角定頼に積極的に協力している。


 田中頼長の次ぎの当主であろう、1560年の浅井長政との「野良田(のらだ)の戦い」に参戦し、1568年の織田信長の上洛においても和田山城の大将となったとされる「田中治部大輔」は、正直誰だか分からない。


 実在が確実視され実名の分かる田中家の最後の当主である、田中四郎兵衛頼長は、恐らく天文年間に亡くなっており、その次代は公卿(くぎょう)飛鳥井雅綱(あすかいまさつな)の子で養子として入った「田中重茂(たなかしげもち)」と考えられる。


 田中家に養子として入った田中重茂が江南の戦いに数千も率いて参戦できるとは考えられない上に、高島七頭の中で田中家のみが六角義賢に重臣のように扱われるのは疑問である。


 湖西の田中家が観音寺城の支城である和田山城に篭城して大将格になるのもおかしな話ではないだろうか?

「田中治部大輔」は六角家に仕えた田中家の分家か、何かの間違いか、「江源武鑑」が混入したのではないかと思うのだ。(あくまで私見です)


 飛鳥井雅綱の子である田中重茂は田中坊(たなかぼう)真賀法印(しかほういん)ともされるが、重茂が高島七頭を継いだのかも確定はされていない。分からないことだらけなので研究を待ちたいと思う。


「田中」と言えば宮部継潤(みやべけいじゅん)、豊臣秀吉に仕え、筑後柳川32万石の大名となった「田中吉政(たなかよしまさ)田中忠政(たなかただまさ)」父子が最もメジャーであるが、恐らく高島七頭の田中宗家の直接の子孫ではないと思われる。


 田中吉政の父は「田中重政(たなかしげまさ)」や「田中実氏(たなかさねうじ)」ともされるが、「藩翰譜(はんかふ)」(新井白石(あらいはくせき)編纂(へんさん)した江戸時代の家伝・系譜の書)に記載の「伯耆介(ほうきのすけ)宗弘(むねひろ)」が結局は正しいのではないかと思われる。

 田中吉政の弟である田中(たなか)兵庫助(ひょうごのすけ)氏次(うじつぐ)が肥後熊本細川藩の家臣になっているのだが、その父を「菅原(すがわら)宗弘」としているためだ。


「田中重政」は実在するのか不明で、「田中実氏」に関しては「江源武鑑」がらみの偽伝であると思われる。


 ほかに高島七頭の田中家の後裔とされる者としては、鷹匠(たかじょう)の「田中清六(たなかせいろく)正長(まさなが)」が居る。

 田中正長はいわゆる近江商人であるが奥州に鷹や馬の買い付けに出向き、南部(なんぶ)家や戸沢(とざわ)家に中央情勢を伝えたり、織田・豊臣政権と奥州の大名家との交渉を取り持ったりと在京雑掌(ざいきょうざっしょう)のようなことをしていたようだ。


 徳川政権下でも関ヶ原の戦いの際における奥州諸大名との取次ぎや佐渡金山の奉行に任じられるなど活躍し、のちに敦賀に拠点を置き廻船商人(かいせんしょうにん)として財をなして豪商となった。


 この田中正長と朽木元綱が後年に在った際に朽木元綱が田中正長を「我等か一門」と称したとする証言(田中正長の三男で清水寺(きよみずでら)宝性院(ほうしょういん)の僧の「宗親」が書き残した「宗親書上」)が残っており、田中正長やその子の会津田中家の田中正玄(たなかまさはる)が佐々木田中家の子孫の可能性があったりするのだが、佐々木田中家の末裔と解明させるのは難しいだろう。


【横山家(佐々木横山家)】

 高島の祖である佐々木高信(ささきたかのぶ)の次男佐々木出羽守頼綱(よりつな)の長子である横山泰氏(よこやまやすうじ)の家系。前述した通り、どちらかというと高島よりも朽木の分家のような感じ。


 室町期は朽木家と行動を共にすることが多かったようだ。戦国期には「横山三河守」や「横山伊予守久綱(ひさつな)」(久徳)と「横山下野守(佐渡守)高長(たかなが)」(高永)の父子の名が見え、横山城や武曽(むそ)城を擁していたが、琵琶湖に面しておらず、主要な街道からもはずれる位置に領地があったため実力はなかった。

 横山久綱と横山高長などの実名に関しては「江源武鑑」が出典と思われので、少々疑わしくはある。


 六角定頼に属し、ついで浅井長政に攻められその旗下になったが織田信長の高島侵攻で滅亡した。1573年11月に京へ横山父子の首が送られているので高島七頭で滅亡したことが唯一はっきりしている。


【山崎家(愛智流佐々木山崎家)】

 高島七頭で唯一高島氏の分家ではない。ぶっちゃけると高島七頭の仲間はずれである。

 だが、同じ佐々木一族ではあり、佐々木氏のかなり早い分流である愛智(あいち)氏の流れであるので広い意味では同族である。

 恐らく高島氏よりも高島郡に土着したのは早かったと思われる。

(佐々木経方-佐々木行定-愛智家行-山崎憲家)


 戦国期には山崎左馬介(三郎五郎または兵庫頭、下総守)が平城の五番領(ごばんりょう)城を構えていたが、織田信長の高島侵攻で滅び、子孫は帰農して「中村」の姓を名乗ったという。


 摂津三田(さんだ)藩や讃岐丸亀(まるがめ)藩から交代寄合(こうたいよりあい)となった山崎家があるが、その藩祖の山崎片家(やまざきかたいえ)(賢家)は守護六角家の被官あり、愛智流山崎家の嫡流筋にあたり、高島七頭の山崎家の庶流というわけではない。


 ◆


 無謀にも高島七頭を解説しようと試みたわけだが、とにかく史料がない。朽木家以外はまともにその歴史が分からないである。

 逆に朽木家には「朽木家古文書」という大量の史料があるのだが、その中から高島七頭の新史料が発見され、ほかの高島七頭の解明がされることを期待したいものである。


 ただ調べてみると高島七頭にも面白い人物は居るものだと思った。

「平井秀名」などはそば粉を使った和菓子を創ったり、世渡りも上手だったりしたようなので、機会があれば作中で今後も活躍させたいと考えている。

 ほかには「田中清六正長」と「高島四郎兵衛茂春」も商人として代官として活躍させるのもありではないかと思ったりしている。

解説回だけど新年4日連続更新頑張ったよ……

誰か褒めてぇぇぇぇ(血涙


最近続いている高島編のために調べたことのまとめですが

平井秀名くんが一番の収穫だったかもしれない

蕎麦菓子に茶道に世渡り上手とウチの藤孝と話が合いそうと

思ったのでありまする

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[気になる点] 個人的には朽木がいなきゃそこらの国人領主で掘り下がる事もない、かと [一言] 将軍を俺の物にする・・・思いついたのが 1三好もビックリな謀反人 2ただのケダモノってかノクターンいきかね…
[良い点] お疲れ様です、味噌煮込み雑煮食べながら見てました
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