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第六十五話 近江高島郡(2)

【近江高島郡(1)の続き】

 ◆


 近江国は近江源氏の佐々木一族が治めてきた国であり、佐々木氏は佐々木四家と呼ばれる「六角(ろっかく)家」、「京極(きょうごく)家」、「大原(おおはら)家」、「高島(たかしま)家」に分かれ繁栄して来た。


「六角家」は佐々木氏の嫡流であり、室町期には江南の6郡と近江の守護職を継承し、六角定頼(ろっかくさだより)管領代(かんれいだい)ともなりこの時代最盛期を迎えている。


「京極家」は佐々木道誉(どうよ)京極高氏(きょうごくたかうじ))の活躍などもあり最盛期には出雲・隠岐・飛騨の守護職となり四職(ししき)の一つにも数えられたが、度重なるお家騒動でその勢力を失い江北の一勢力に落ちぶれている。


「大原家」は幕府の奉公衆であり、細川藤孝が養子となった淡路細川家の出自でもあるのだが、大原政重(おおはらまさしげ)の没後に六角定頼の弟である大原高保(おおはらたかやす)(高盛)を養子に迎えその一門衆となってしまっている。

(大原高保の死後は六角義賢(ろっかくよしかた)の次男の六角義定(ろっかくよしさだ)が大原高定として家督を継いだことになっている)


「高島家」は越中守の官途を世襲したので正式には佐々木越中家と呼ばれる。湖西の高島郡にはその分家が繁栄しており「高島七頭(たかしましちがしら)」や「西佐々木七人」などと呼ばれる勢力となっている。

「高島七頭」は高島・田中・朽木(くつき)・永田・平井・横山・山崎の七家であり、近江守護六角家や京極家を牽制するため、高島七頭はそれぞれ幕府に外様衆として直接仕える立場にあった。


【分かりにくいので基本的には佐々木越中ではなく高島を使います】


 だが六角定頼により全盛期を迎えた六角家にこの高島七頭は飲み込まれることになる。

 天文4年(1535年)に六角定頼は高島郡に侵攻し、海津(かいづ)浅井亮政(あさいすけまさ)に勝利している。琵琶湖の湖上交通の要衝である海津にあった御料所の代官に幕府からも正式に任命されており家臣を配置している。

 また、大永5年(1525)の小谷(おだに)城攻めや、天文7年(1538年)の江北侵攻においても高島七頭は六角定頼のために従軍しており、ほぼ従属下にあったといってもよい。


 特に高島・田中の両家は足利義輝(義藤)の元服式において護衛を務め、北白川城に足利義晴が篭城した際には六角定頼のために先鋒として攻め寄せ、「六角の両客」と称される立場になっていた。


「――とまあ高島七頭は六角家に従っているような状況ではありますが、公的には幕府の外様衆です。幕府が処断したとしても六角定頼は表立っては問題化できない曖昧な状態なわけです」


 近江の情勢や高島七頭について義藤さまに説明していたが分かってくれたかしら。


「だが六角家としては面白くないのは確かなのであろう、幕府として征伐してもよいものだろうか?」


「そこは交渉次第でどうにでもなりましょう。六角家に対しては高島七頭を征伐する根拠と代わりのエサを与えればよいだけのこと。京極高延(きょうごくたかのぶ)浅井久政(あさいひさまさ)蠢動(しゅんどう)しておりますれば、どうせ高島郡に兵を出す余裕も幕府と揉める暇も六角家にはありませぬ」


「お主、段々と性格が悪くなってはいまいか?」


「政略や軍略というものはお人よしにはできぬものでありますので」


「そうではあろうが……まあよい。それで高島七頭とやらが妙だというのはどういう事じゃ」


 長尾景虎(ながおかげとら)との交渉で創ることになった「越後屋」や長尾家の青苧(あおそ)の流通経路は越後から若狭の小浜までは海路で、小浜からは九里半街道(くりはんかいどう)を使って今津(いまづ)まで、今津からは堅田(かただ)や大津まで琵琶湖の水運を使うことになる。

 青苧や「越後屋」の物資の流通に便宜を図ってもらうため、越後からの帰りに親族のもとを訪ねていた。

 訪ねた先は、小浜を支配する若狭守護の武田信豊(たけだのぶとよ)の弟で姉婿の武田信重(たけだのぶしげ)、九里半街道の熊川の領主で俺の烏帽子親である沼田光兼(ぬまたみつかね)、今津に影響力のある高島家(佐々木越中)の嫡男で姉婿の高島高賢(たかしまたかかた)である。


三淵晴員(みつぶちはるかず)の長女は武田信重の室の宮川尼(みやがわに)であり、その子には建仁寺(けんにんじ)の292代住持となった英甫永雄(えいほえいゆう)がいる。三淵晴員の次女の寿光院(じゅこういん)は佐々木越中室とされ、その娘は舟橋秀賢(ふなばしひでかた)清原枝賢(きよはらえだかた)の孫)に嫁いでいる。この二人は細川藤孝の母親違いの姉であると思われる】


 日本海から琵琶湖までの最短のルートである敦賀(つるが)から琵琶湖北岸の塩津(しおづ)までの塩津街道は京極家や浅井家の影響下にあるので使いたくない。

 逆に小浜の若狭武田家や九里半街道の途中にある熊川の沼田家、九里半街道終点の今津に影響力のある高島家、この三家は実は細川藤孝の縁戚であるので非常に話が通しやすいのだ。


(正直偶然とは思えない、三淵晴員は意図して九里半街道沿いの実力者を縁戚にしたのではないだろうか)


「越後からの帰りに長尾家の青苧流通や新たな商いのために便宜を図って貰おうと、姉婿の居る高島越中の居城である清水山城(しみずやまじょう)を訪れたのですが、協力を得る話し合いもできず何か余所余所しい態度を取られまして……」


「それで高島家が怪しいというのか? たんにそなたが横柄であっただけではないのか?」


 小笠原流の礼法を学んで礼儀作法にはうるさい細川藤孝を横柄とはひどい言い草だな。


「いえ、当主の高島孝俊(たかしまたかとし)殿や嫡子の高島高賢殿とはろくに話が出来なかったのですが姉とは会えましたので、その姉から高島七頭に京極家からの誘いが届き、高島家が兵を出すとの注進を貰いました」


「兵を出そうとしたところに余計なお主が訪ねて来たから高島家にはぞんざいな扱いをされたということか」


「高島郡は大津・坂本のある滋賀郡(しがぐん)のすぐ北にあり、高島七頭が京極家と、それに連なる三好家と結んでしまってはこの勝軍山城(しょうぐんやまじょう)が危のうございます」


「だが、高島家はそなたの身内であろう。お主は身内を攻めるというのか?」


「公方様のためであれば身内だろうが関係はありませぬ。いえ身内だからこそ外様衆の立場を忘れ幕府の意向に沿わぬ行動を取る高島家は許せないものがあります。これは父の三淵晴員も兄の三淵藤英(みつぶちふじひで)も同意してございます」


「父や兄に弟が、姉の居る城を攻めると申すのか……」


「乱世の習いにござりまするが、幕府が兵を出すことにより高島家を翻意させることができるやもしれませぬ。高島家がしかと公方様に服することになれば滅ぼす必要はありますまい」


「分かった……おぬしがそこまで言うのであれば是非もない。外様衆たる高島家を誅するのはわしの責務でもあろう。だが、兵を出すには条件を付けさせて貰おう」


「条件? それはいったい……」


「わし自らが出陣いたす。それが条件じゃ」


「……は?」


 ◆


 義藤さま自らが出陣だと? そんな危ないことをさせるわけにはいかないではないか。何を言っているのだこの子(将軍です)は……


「そのような危ないことはおやめくだされ」


「む? その方はわしを何だと思っておるのだ? わしは征夷大将軍じゃ。武家の棟梁じゃ。武家の棟梁が(いくさ)に出るのを危険とするはどのような仕儀であるか」


「戦などは我ら奉公衆にお任せ下さい。公方様自らが戦場に出る必要はありますまい」


「我が祖先の足利尊氏公も足利義満公も、それに父の大御所も戦場には出ておるわ。それに大御所も武威を示すことを望まれておる。かく言うわしも高島や田中が外様衆でありながら六角定頼に従い我らに兵を向けたことは許せぬ仕儀とかねてより思っておった。わしの出陣に反対するというのであれば、兵部大輔、そなたはこの城で留守居でもしているがよい。高島とやらは奉公衆を率いてわし自らの手で平定してくれよう」


 高島郡について何も知らない義藤さまが指揮して勝てるわけがないではないか。まあ、公方様の出陣なんぞは大御所やほかの幕臣連中が止めるだろうが……


「大御所やほかの幕臣が公方様の出陣に賛同はいたしますまい」


「では、大御所から出陣の許可を貰って参る。兵部大輔も一緒に参り大御所に委細を説明するがよい――」


 ◇

 ◇

 ◇


 そして室町幕府第13代征夷大将軍足利義藤公の初陣が唐突に決まってしまうのである……マジかよ。


 なんということでしょう。病床の大御所が公方様の出陣に諸手を上げて賛同してしまったのだ……相変わらずの超弩級(ちょうどきゅう)の親馬鹿であり、なにかすでに耄碌(もうろく)しとりゃせんかと疑ってしまうわ。


 それに大御所の側近や他の幕臣らも、どうしたものか賛成に回ってしまったのだ。どうやら長くてヒマな篭城が続き、皆が飽き飽きしていたようである。

 奉公衆の皆が出陣を希望する有様でもあり、勝軍山城に留守居が必要だと説得するのが大変であった始末だ。何か全員頭おかしくなってないか? もうやだ、この幕府……

 今回も出兵に反対し小言を言っていた伊勢貞孝(いせさだたか)がマトモに思えてしまうわ。


 だが、将軍の親征という行為そのものは悪くない。義藤さま個人には危ないことはして欲しくないのだが、将軍としては失墜しまくった武威を上げるために親征を行う必要があるのだ……


 衆議が決し、高島郡に派遣される幕府軍が編成されることになった。

 

 総大将は公方様こと足利義藤、副大将は三淵晴員、戦目付(いくさめつけ)大和晴完(やまとはるのり)先手大将(さきてたいしょう)三淵藤英(みつぶちふじひで)殿大将(しんがりたいしょう)に小笠原稙盛。

 何か前回の幕府軍と余り代わり映えしないのだが、遠征に軍を出せるほど裕福な奉公衆は限られるので貧乏な幕府としてはこうなってしまう。

 

「初陣で分からぬゆえよきに計らえ、全て任す」


 俺は義藤さまの一言で、「軍師(ぐんし)」兼「戦奉行(いくさぶぎょう)」兼「小荷駄奉行(こにだぶぎょう)」兼「旗奉行(はたぶぎょう)」という、ようするに何でも屋に任命された。先の江口の戦いで奮戦し幕臣らに一目置かれ、公方様直々のご指名でもあるので周りも従ってくれている。

 

「義藤さま早速ですが出陣します」


「ん? 先ほど衆議で決まったばかりであろう。いくらなんでも早すぎではないのか?」


「戦は拙速(せっそく)を旨とお考え下さい。戦支度はすでに整っておりますればすぐに出立の下知を」


「じゃが、わしはまだ戦支度が出来ておらぬぞ」


「こんなこともあろうかと陣羽織(じんばおり)甲冑(かっちゅう)も既に義藤さまにぴったりの物を用意してあります。ご安心下さい、おやつも準備万端整っておりますれば」


 義藤さまのコスプレ衣装は巫女服から陣羽織に甲冑も、なぜか現代の体操服に似せたものまで全てサイズもジャストフィットで用意済みだ……ぬかりはない。


「じゃ、じゃが……」


「急ぐのです。高島七頭が動き出してからでは遅いのです。後続の連中は小笠原殿と大和(やまと)殿が率いて合流することで話をつけてきました。さあ出陣しますぞ」

 

 細川家や三淵家の郎党は篭城中も毎日訓練をしていたので即応が可能だ。出れるならさっさと出たい。

 本音は六角家の横槍が入る前に出陣する必要があるためだがな。六角定頼の注意が湖東に向いているうちに速やかに兵を出さねばならんのだ。

  

 ジタバタと恥ずかしがる義藤さまを役得とばかりに無理やり着替えさせ、とっとと出陣する。

 義藤さまが急遽出陣することになり、松井新二郎や沼田兄弟、一色藤長(いっしきふじなが)朽木(くつき)兄弟など供回りの者も大慌てでついて来る。


 こうして神速の出陣をすることになった義藤さまには「疾風(しっぷう)将軍」というあだ名がつくのであった――

前回のサービスタイムは何か足りない気がするので

そのうち書き直そうかな

何か作者に萌え成分が足りぬ気がする


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― 新着の感想 ―
[一言] ほら某英霊召喚ゲーで女体化するときに便利な設定だから仕方がないね
[良い点] 幕臣の妄想無しで勝ちの目が高いなら将軍初陣はアリかと、むしろやっとかないと三好が初陣とかなりかねない [一言] 藤孝、将軍をひん剥くwサイズまで把握とか体操着まであるとか将軍を(着せ替え)…
[良い点] 脇開いてるのは発汗対策だから(強弁
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