第六十四話 長尾景虎(2)
【長尾景虎(1)の続き】
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上杉謙信(長尾景虎)のもう一つの「義」の戦いである関東出兵はどうであろうか?
上杉謙信の関東越山(侵攻)を見てみるとお祭り騒ぎだった10万と称する小田原城の包囲以外は利根川を渡って武蔵南部に攻め込むことはなく、基本的に利根川流域からあまり離れていなかったりする。
利根川の河川舟運は江戸時代の利根川東遷以降の話ばかりで良くわからないことも多く当時の流路も諸説あるのだが、上杉謙信は利根川を補給路として活用し、また利根川の交易路を抑えることを目的にしていたのではないかと考えている。
戦国時代の利根川は現在の流路とはまったく違い銚子方面ではなく江戸湾(東京湾)に注いでいた。この時代の利根川は荒川(現在の元荒川)と合流していたり、会の川などの支流が多くあったり、現在の江戸川の流路にあった渡良瀬川(旧庄内川)や太日川とも繋がっていたり、とにかく関東平野は水路と湿地帯ばかりでぐちゃぐちゃだったりする。
北条氏康は関宿城を「一国を獲るに等しい城」と称している。現代の関宿は利根川と江戸川が分流する場所として有名だが、この時代には渡瀬川で古河と繋がっており、利根川とも水路が繋がり、利根川東遷以前の戦国時代から関宿はすでに水運の一大拠点であったのだ。
古河が関東公方(古河公方)の御座所となったのも渡良瀬川が利根川水運と結合しており重要な交易拠点であったためだろう。
関東中央部の利根川や荒川の水系などでは、江戸の開府以前にもかなり発達した水運による交易路が形成されており、上杉謙信は関東の土地を支配しようとしたのではなく、この交易路を北条氏康より奪うべく越山を繰り返したのである。(むろん個人の主観です)
憶測ばかりで申し訳ないのだが、上杉謙信の関東出兵の最大の敗因は成田家と太田家であると考える。成田家というと「のぼうの城」で最近は有名だが、戦国時代の成田家は武蔵最大の勢力であり、岩槻太田家と並んで利根川(会の川、現在の中川)、荒川(元荒川)の水運を支配する川の支配者であった。
上杉謙信と成田家は鶴岡八幡宮で行われた関東管領就任式における確執、成田長泰打擲事件が有名だが、はっきり言えば戦国期の成田家などは出自がはっきりしないただの一豪族であり、八幡太郎義家(源義家)とは縁もゆかりもないただの騙りだと思われる。
荒川(現在の元荒川)を握る岩槻太田家は太田資正が有名であるが、その家中は親北条と親上杉で分裂していた。
(成田家は名族藤原氏の出で八幡太郎義家の頃から大将と一緒に下馬する古例があったとされるが、そんな慣わしは無かったと思うよ。それに式典で下馬しないとかTPO無視し過ぎで無礼すぎるだろ)
成田家と上杉謙信は関東管領就任式など関係なく、利根川などの水運利権を巡って対立していた。(羽生城の広田直繁の帰属などでも対立)
上杉謙信の二度目の越山以降において、武蔵南部へ攻め入ることができなかったのは、補給路である利根川から離れることができなかったこともあるが、武蔵の水運を握る成田家と太田家の協力が得られなかったことも大きいのではないだろうか。
関東平野は江戸幕府以前より利根川、荒川、渡瀬川などにより高度に水運が発達した地域であった。その流路では川商人が兵站を担っていたのである。
別に自前で運ばなくても商人が運んできた物資を買えば良いのだ。
(誰か川の舟運による交易とか補給とか、関東平野の当時の川の流路の検討込みで、この時代の関東戦国史を調べてくれないだろうか……大坂平野も濃尾平野も関東平野も現在の川の流路で考えてしまっては何もわからないと思うのです。戦国時代の川の水運は現代人が思うよりも重要な補給路・交易路であり「川」なくして戦国時代は語れないと思うのだが……)
戦国時代は寒冷であり常時飢餓状態にあったとする説もあり、上杉謙信の冬季における関東侵攻は越後の口減らしの側面もあったであろう。
だが上杉謙信の関東侵攻を関東平野の川の交易路の掌握という面から見ると、また変わった上杉謙信像が浮かび上がらないだろうか?
結局のところ関東越山は失敗に終わったというオチであるのだが……
(以上脱線終り……脱線し過ぎて申し訳ない)
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「先ほど神五郎(直江景綱)に申していたが、青苧公事を肩代わりするという話だったか。青苧は我が長尾家の生命線、そちは商いに参ったと申したが青苧の商いに介入するつもりではなかろうな?」
長尾景虎に鋭い眼光を向けられてしまう。老練な斎藤道三とはまた違った殺気を感じる。
「いいえ! 逆であります。税の肩代わりだけでなく、青苧の畿内における流通に関しましても、それがしが、幕府が全面的に長尾家に協力するのであります」
「全面的な協力と申すか……それが真実であれば、ありがたい話であるが、商談と申すのであれば、何か代わりとなるものをそちも吾に求めることになるのであろう?」
「長尾景虎殿に求めることは最終的には上洛でありますが、その上洛のための費えを蓄えるため、長尾家の有する交易路をお貸し頂きたいのです」
「交易路を貸す?」
「交易路に乗せる商品は――光秀。饅頭屋宗二殿と角倉殿をこれに」
明智光秀に急いで呼びに行かせ、饅頭屋宗二と宗二の一族の林宗和と和仲東靖、角倉吉田光治と弟の吉田光茂らを会談の間に招き入れる。
「越後の長尾家の掌握する交易路にて商うものはこの笹団子になります。我等は青苧に手を出すわけではありませぬ」
饅頭屋宗二から長尾景虎に笹団子を献上させて食して貰う。
「なんと甘きものよ……」
「口直しに酒も用意がございます」
角倉吉田光治から長尾景虎に清水の神酒も献上させる。
「美味い、美味すぎるぞ。なんと豊饒で澄んだ味わいよ。これほどの酒、今まで味わったことなど無きことよ」
「この笹団子と酒の二つの商品を越後で商いまする。その協力の見返りとして運上金を長尾家に納めることになります。私は長尾景虎殿の上洛を助けるべく越後まではるばる参ったのであります」
「詳しく聞く必要があるようじゃが、まずはもう一杯所望いたす」
笹団子という新たな商品を販売し、越後の経済を活性化させるという話に長尾景虎は食いついた。
美味い酒が呑めそうだから食いついたという気がしないでもないが……たぶん気のせいだろう。
こうして長尾景虎と越後における商談に入れたわけだが、この越後に長尾家と協力して「越後屋」と呼ばれる現代の総合商社みたいなものを創ることになる。
ちなみに「越後屋」の屋号は、史実では三井財閥の呉服屋の屋号として名高い。越後屋の名は三井家の受領名である越後守に由来し、現代の百貨店の「三越」は「三井+越後」で「三越」だったりするが余談である。
今回連れて来た林宗和と建仁寺両足院の院主である和仲東靖の兄弟は饅頭屋こと林宗二の従甥(従兄弟の子供)にあたる。
林宗和が直江津に常駐して越後におけるメープルシロップの採取とメープルシロップで甘くした笹団子を作る責任者となる。
角倉吉田家の吉田光茂も吉田神社の酒造りからは離れ、直江津に常駐して酒の販売に力を入れることになった。
越後国内におけるメープルシュガーの採取と酒造はもう少し時間がかかるが、まずは流通に商品を載せることから始めるわけだ。
「越後屋」は淡路細川家(藤孝)と饅頭屋林家、角倉吉田家、それに越後長尾家と長尾家の御用商人である蔵田家が共同で出仕し、越後国内におけるメープルシュガーの採取に笹団子と酒の販売を行い、さらには青苧の流通の協力や上方から越後へ物品を送り込むことにもなる。
上方から越後へ運び込む物にはむろん「鉄砲」が含まれる。
長くなってしまった商談中に休息をかねて明智光秀による鉄砲の試射を行った。長尾景虎には公方様よりの下賜品として会談の場で根来産の種子島銃10挺を献上する。むろん俺の鉄砲であるが……
「金はいくらでも出す。100挺……いや200挺じゃ。すぐにでもこの越後へ持って来させるのじゃ!」
長尾景虎は鉄砲の有用性にすぐに気付いたのだろう、200挺持って来いとか無茶ぶりをかまして来た。すまんが我が淡路細川家がやっと120挺の運用なのだ。さすがにそれは無理というものだ。
代わりにと言ってはなんだが、連れて来た和仲東靖を紹介した。和仲東靖は昨年まで建仁寺の末寺である薩摩の大願寺の住職を務めており薩摩に顔が利いたりする。
建仁寺のルートを使って薩摩からも鉄砲を調達することを長尾景虎に提案した。建仁寺は越中に荘園を持っており、和仲東靖は見返りに寺領の保護を長尾家に求めるので、両者にとって良い話なのだ。
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【長尾景虎(3)へ続く】
勢いだけで書いてしまった気がする
次で終わるのか不安になって来た




