第六十四話 長尾景虎(1)
天文十九年(1550年)3月
「長尾平三景虎でござる」
「細川兵部大輔藤孝にございます……」
お互いが名乗りしばらく沈黙するが、景虎が再び開口する。
「遠路はるばる大儀でござった」
「景虎様みずからのお越しを感謝いたします」
「神五郎や新左衛門ではそちの相手は荷が重いようであるのでな。自らしゃしゃり出てしまった。兵部殿、余り吾の臣を苛めないでいただきたいものじゃ」
「苛めるなどとは……私は長尾家との友好を――」
「兵部殿。前置きは良い。そちの目的はなんじゃ? 吾に何を求めてはるばる越後まで参ったのじゃ」
「それはむろん長尾家の公方様への忠義にございます」
「忠義はむろん尽くそう。御所様(足利義藤)には我が長尾家を越後国主として認めてくれた恩義があろう……」
「むろんであります。公方様は長尾景虎殿による越後の鎮撫を期待しておいでです。国主の格たる毛氈鞍覆に白傘袋と塗輿の免状はこれにあります」
直江景綱に公方様直筆の御内書を渡す。受け取った直江景綱が長尾景虎にうやうやしく渡している。
「御所様御自らが筆を取ってくだされたか。ありがたき仕儀じゃ。この長尾景虎……御所様のため力を尽くす所存にござる」
「公方様は景虎殿を正統なる越後国主であると認め、従五位下信濃守への任官をお勧めしております。越後の統治の助けともなるかと存じますれば、それがしを通して幕府へ執奏するがよろしいかと」
ちなみに信濃守は景虎の父である長尾為景の官位であり、前例踏襲の意味合いもあるが、長尾景虎の史実における官位である弾正少弼にしなかったのは、武田晴信(武田信玄)への嫌がらせに他ならない。ただいま頑張って信濃を北侵している武田晴信には信濃守護の補任も信濃守もあげる気はサラサラないのだよ。
(あと現在の弾正少弼は六角定頼なので重複するという問題もある)
「ありがたいことだな。兵部殿も吾のために力を貸してくれるか」
「公方様はむろんでありますが、それがしも長尾景虎殿の武勇に大いに期待しておりまする。なにとぞ我が主のため長尾景虎殿のお力をお貸し願いたい」
「確かに兵部大輔殿は我が長尾家にお味方いただけるようであるが、なにゆえだ? なにゆえそこまで我が長尾家を厚遇いたす? 吾に力を貸せとはどのような意味合いじゃ?」
「ただいま公方様は勝軍山城にて三好長慶と対峙しております。幕府をあるべき姿へ戻すため、長尾景虎殿の武勇をお貸しいただきたいのです」
「それは吾に三好とやらを討てということか?」
「なにもすぐに上洛せよとは申しませぬ。越後国内をしかとおまとめ頂き、軍勢を率いて上洛できる体制を整えたのち、公方様のため、幕府のため、大義のために、逆賊の三好長慶を討伐していただきたい!」
長尾景虎の目を見ながら逆賊三好を討て! と訴えたのだが長尾景虎は即答をしなかった。噂のとおりの義の武将であるならばあっさりとウンと言ってくれても良いものだろうが……
「公方様が我が長尾家を高く評してくれることはありがたき事なれど、兵を率いての上洛となると、いささか難しき仕儀かと……」
直江景綱が消極的な意見を言ってくる。まあ普通はそうだろう。この乱世になんの得にもならないのにわざわざ兵を率いて上洛する馬鹿はいないだろう。
「私は長尾景虎殿の越後国内の鎮撫と上洛の体制を整えるお手伝いをしたく思い、この越後へ参りました……有体にいえば私は長尾景虎殿と商談をしに参ったのです」
◆
上杉謙信(長尾景虎)は義の武将であり領土を欲して侵略を行わなかったかのように言われるが、ただの義の武将なんてことはまったくない。
また上杉謙信は内政なんかできない戦闘狂いの脳筋野郎に思われているかもしれないが、実は織田信長並の経済ヤクザだったりする。
越後は非常に広い国なのだが1598年の検地においてはわずか39万石に過ぎない。現在では米どころとして知られる新潟県であるのだが、戦国期には寒冷地に適した改良された稲は無く、二期作・二毛作もろくにできない雪深い不毛な大地であったりするのだ。
さらに阿賀野川以北は揚北衆と呼ばれる独立志向の強い国人衆が割拠するグンマー並みの天外魔境であり、上杉謙信に服しているとはいえ半独立国のようなものでもある。
三方を山に囲まれ不毛な大地の越後ではあるのだが、越後には富となるものがあった。金山や銀山ではない。越後の富とは北国船が行きかう日本海交易路である。
【上杉謙信はそもそも佐渡を領国化しておらず、上田銀山の開発は1641の江戸時代である。だが長尾為景は佐渡の本間家とは友好関係にあり、関東管領山内上杉家との戦いでは佐渡より援軍も得ている。上杉謙信が佐渡の金をまったく得ていないとは正直考えられない。直接統治はしていなくとも佐渡の金は得ていたのではないだろうか】
さきに桶狭間の戦いを織田家と今川家が伊勢湾経済圏を巡って争った戦いであったと述べたことがあったが、上杉家と武田家の川中島の戦いも千曲川の交易路を巡る経済戦争だったりする。
武田信玄が上杉謙信という化け物が居たにもかかわらずなぜ北進政策を続けたのか、それは今川家と北条家というこれまた化け物が居たおかげで東海・関東に出られなかったということもあるのだが、先代の武田信虎の代から進出していた信濃が日本海の交易路と結びついていたためであるのだ。
日本三大河川のひとつであり日本一の長さを誇る信濃川は、甲斐・信濃・武蔵の国境にある甲武信岳を源流に千曲川の名で佐久平(盆地)、上田平、善光寺平(長野盆地)を結んで流れ、飯山を越えて越後に入り信濃川にその名称を変え、十日町から越後平野の現在の新潟市で日本海に辿りつく。
信濃川は飯山と十日町の間の信越国境が渓谷で険阻な急流であり河川舟運が困難となっている。そのため「越後の信濃川」と「信濃の千曲川」は経済圏が分断されているのだ。(同じ川なのに経済は分かれているのです)
信濃にとって「越後の信濃川」やその河口の新潟は交易路ではない。では信濃の千曲川の交易路はどこに繋がっているのか?
それは高田平野を流れる関川の舟運であり信濃の海の出口は、上杉謙信のお膝元である直江津なのである。
千曲川の舟運は飯山を北限としており、そこから陸路で飯山街道の富蔵峠(謙信道)を越えて新井(妙高市)に運び関川の舟運で越後高田、直江津と下り、北国船の行きかう日本海の交易路へと繋がるのだ。
この関川と飯山街道は「塩の道」でもあり、上杉謙信の「義」を騙るうえで有名な故事である「敵に塩を送る」などは本当にあったのか怪しいのだが、経済で活きる上杉家が「塩止め」と称される経済封鎖などをするわけがないのである。
【武田信玄による武田義信の廃嫡と今川家との婚姻解消により、武田・今川間が緊張し、今川氏真が北条氏康とともに甲斐への塩止めを行ったとされています】
武田信玄は自前の交易路を渇望していたと思われる。この時代に新兵器として現れた鉄砲は、鉄砲それ自体もそうであるが火薬の原料の硝石に弾丸の原料となる鉛など、すべて交易で手に入れなければならないものなのだ。自前で鉄砲を作ろうにも鉄も交易路がなければ手に入らない。極論すれば交易路がなければ何も手に入らないのだ。
(鉛はこの時代輸入が多く、良質な鉄はたたら製鉄の山陰から得る必要があった)
川中島の戦いは武田信玄が桶狭間の戦いによる今川家の弱体により、南進政策を取ることで終結した。千曲川と犀川を境界にすることで折り合いがついたということであろう。上杉謙信は信濃の交易路を守り抜いたとも言える。
(むろん一連の「川中島の戦い」が石高の高い善光寺平の領有争いと、春日山城の安全保障上の戦いであったという面を否定するものではありません。領有権・安全保障・経済の争いでありましょう)
上杉謙信は農本主義ではなく重商主義の戦国大名であったのだ。領地という「面」ではなく交易路という「点」と「線」を掌握し、領地によらない収入を確保する。この時代の交易路とは戦における兵站でもあり、上杉謙信のアホみたいな遠征を支えていたのは交易路という経済の掌握であった。
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【長尾景虎(2)へ続く】
すいません多分3回になるかと
今日の剣道の稽古で右肘が死んだ、イタイ(涙
連休中にいっぱい書きたいな




