第六十三話 ちょっと越後へ行ってくる(1)
天文十九年(1550年)2月-3月
2月に入って九州より悲報が飛んで来た。豊後・筑後の守護職である大友義鑑が負傷して死去したとの報である。
いわゆる「二階崩れの変」であり、大友義鑑は討たれたとも、襲撃の際の怪我が元で亡くなったともいわれている。
「二階崩れの変」が起こった原因は、大友義鑑が嫡子の大友義鎮ではなく溺愛していた三男の塩市丸に家督を譲ろうとしたことであるとされるが、もうなんかいい加減に聞き飽きたような話で呆れてしまう。室町時代は日本全国こんなのばかりである。(原因は諸説あります)
まあ、ともかく九州の大大名であり室町幕府と親密な関係を続けてくれている、貴重な幕府のズッ友である大友家の家督が大友五郎義鎮(のちの大友宗麟)に代わったということだ。
「大友義鑑が亡くなり、嫡子の大友義鎮が家督を相続したとのことだが、そなたは大友家をどう思うか?」
晩年の大友宗麟は老害といってもよいほど酷いバカなキリシタンかぶれに闇落ちした気がするが、若い頃は英邁といって良い君主だったと思われるので、とりあえず良いお付き合いを続けるのが得策であろう。幕府への対応も先代と同じく良かったはずだし、南蛮貿易の交易品なども貰えるかもしれないしな。
「新たに家督となった大友義鎮殿は大御所より一字拝領を受けており、幕府も認めた正統な嫡子であります。多少家督継承に問題はあったようにお見受けしますが、今後の関係性を良好とするため、幕府としては家督継承を歓迎する姿勢を見せるが良いかと思われます」
「具体的には何をすればよいのだ」
「御内書を書きましょう。内容は大友義鑑への弔意とこれまでの忠節を賞し、大友家の幕府への変わらぬ忠節を期待するような感じでどうでしょう?」
「そんなところであろうな」
お手紙作戦は金が掛からない良い作戦だからな。足利義昭じゃないが乱発気味でもかまわんのではないだろうか。
史実より大友家と仲良くしたら、立花道雪とか高橋紹運でも貸してくれないかなとか考えてしまう。
【注:立花道雪は戸次鑑連だし、高橋紹運なんかまだ2歳くらいです】
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しばらくして大友家の訃報に続き、越後からも訃報が届くのである。
「義藤さま、御報告したき議がございます」
「越後よりの使者と会っていたそうだな。その件か?」
「はい。越後から使者である神余隼人入道(実綱)が参りまして、越後の守護職でありました上杉定実が病により身罷られたと報告してまいりました」
「たしか越後守護上杉家は後継者が居ないとか言っておったな」
「上杉定実は奥州の伊達稙宗の次男(伊達実元)を養子にするべく動いておりましたが、越後国内でも反発が多く立ち消えとなり、後継者不在のまま亡くなりました」
【ヘタすれば伊達実元の子の伊達成実が上杉謙信の養子である上杉景勝の上司になっていた未来があったかもしれないのであるが、想像すると何か楽しい】
「越後守護職が不在となっては困るであろう、いかがいたせばよいのじゃ?」
「越後守護代長尾家の家督を継いだばかりではありますが、長尾景虎(のちの上杉謙信)は越後国内をその武威でよく治め、亡き上杉定実も長尾景虎の家督継承を後押ししていたそうです。守護が不在となりましたからには、守護代の長尾景虎に守護を代行させるがよろしいかと存じます」
「長尾景虎と申したか? 何やらそなたはその者を買っているようじゃが、どのような御仁なのじゃ?」
「長尾景虎は毘沙門天の化身が如くであり、戦の強さはまさに神懸っております。わずか十五歳で初陣を見事に飾り、返す刀で兄(長尾景康)の仇である上杉家の重臣黒田一族を滅ぼします。その声望は越後中にまたたくまに轟くことになり、曲者揃いの越後の国人衆らに推戴されて、軟弱であった兄の長尾晴景になり代わって守護代に就任するのです。祖父や父の代に混乱を極めた越後国内をわずか数年で平定し、長尾景虎が守護代になると国内は治まったそうであります。まさに生けるカリスマのような武将でありましょう!」
(実際は長尾景虎の治世も叛乱おきまくりの越後国内ですけどね)
「う、うん……何だか良くわからぬが、とにかく凄い御仁のようじゃな」
しまった。余りに上杉謙信が好きすぎて興奮の余り熱弁を振るってしまった。義藤さまがドン引きしておる。
「ゴホン。失礼しました。それでお願いがあるのですが?」
「ん、なんじゃ? ひ、ひざまくらは今はダメじゃぞ……」
「膝枕は非常に魅力的ではあるのですが、膝枕ではありませぬ。しばし義藤さまの側を離れることになり心苦しきことではあるのですが、私を越後守護代長尾家に使いとしてお送りいただきたいのです」
「そなた自らが行かねばならぬのか?」
「はい。長尾景虎という御仁を義藤さまの力とするためであります。大御所が病に倒れている時に申し訳ないのではありますが」
「……試みに聞くが、その長尾景虎という者とお主がこれまで高く評価して来た斎藤道三に織田信秀、誰が一番優れていると思うのじゃ?」
「優劣を語るには難しくありますが、その御三方と戦場で相対した場合に最も恐ろしく感じるのは……長尾景虎にございます」
「お主ほどの豪の者が恐れる男か……」
俺は豪の者ではないのだが……というかその三人が相手では俺ごときでは誰にも勝てないと思うぞ。
「許可はいただけましょうか?」
「分かった。好きにするがよい」
「なるべく早く戻ります」
「べ、べつにそなたが居なくても幕府は安泰じゃ。どこへなりとも行くがよいのじゃ」
「お土産を買ってきますのでお許しください」
◆
冬の日本海は荒れまくるので地獄である。真冬に佐渡島に行ったときにはあの佐渡汽船のバカでかいカーフェリーでも船酔いしまくって死にそうになったことがある。ジェットフォイルの欠航などは日常茶飯事だ。
江戸時代の北前船も冬には活動していなかったりする。
若狭小浜から鼠屋が3月(旧暦の3月なので4月)には船を出すというので便乗させて貰う。小浜から風待ちしながら海岸沿いの船旅であるが、順調な船旅を送れて越後の直江津には予定よりも早く着くことができた。
直江津は関川の河口の湊町で1223年の廻船式目にも三津七湊のひとつとして記され古くから栄えている。
直江津は越後の国府のあった越後府中(府内)の外港としても機能しており、この時代は現代の新潟市ではなく、上越市である越後府中が越後の政治・経済の中心であった。
越後守護代長尾家は府中長尾家(三条長尾家とも)と呼ばれ、越後府中の西方にある春日山城を本拠としている。
春日山城での長尾家との会見であるのだが、早く着きすぎてしまい当主の長尾景虎が不在であったため2日ほど待たされてしまうことになった。
「ブリにサザエにイカにエビ、どれも新鮮で良いものですな」
「すまんが光秀、捌いてくれるか」
「はい、喜んで!」
コレ幸いとばかりに越後府中や直江津に繰り出して、越後の美味い魚介類を買い込んで宿舎となった府内の守護館で宴会になだれ込んだ。
今回の越後下向に連れて来たのは金森長近と明智光秀だけである。勝軍山城に残して来た連中は江口の戦いで失った戦力を整えるために新たに雇った新兵の調練をやってもらっている。
今頃は米田求政や吉田重勝に鍛えられながら、不刹の地である比叡山の山中で動物を狩りまくっていることであろう。
率いて来た郎党は少ないが、代わりに饅頭屋宗二と角倉家の吉田光治らの商人達を連れて来ている。彼らには商隊を組んで来て貰っているので結構な大人数だったりする。
そんな連中との大宴会だ。ちなみに宴会のスポンサーは彼ら商人なのでタダメシ万歳である。
そして翌日は饅頭屋宗二と越後土産の作成(偽造)である。作っているのは笹団子だ。
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「笹団子」
笹団子はうるち米を製粉した上新粉ともち米を製粉した餅粉に乾燥したヨモギを混ぜて作った団子生地で餡を包み、それを笹で包んでイグサで結わえて蒸しあげた物になる。
新潟県のソウルフードであり、その発祥は戦国時代といわれ、上杉謙信が考案した兵糧食であったとか、宇佐美定満(定行)が考案した(北越軍談)とか、柿崎城主に仕えた菓子職人が考案した(北越風土記)とかいわれるのだが、まあ……ただの郷土料理であろう。
土産物としては非常に美味いものなので、新潟に訪れた際には是非食して貰いたい一品である。
――謎の作家細川幽童著「そうだ美味いものを食べよう!」より
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この時代に笹団子があったのかは正直微妙だが、甘い餡子の笹団子はまず無かったであろう。長野のソウルフードである「おやき」のように、餡子ではなく、山菜や野菜の煮物や漬物などを入れていたものと思われる。
メープルシロップで作った甘い笹団子は偽造であるが義藤さまへの越後土産であり、越後守護代である長尾景虎への切り札とするものなのだ。
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【ちょっと越後へ行ってくる(2)へ続く】
剣道の稽古に行かねばならぬので急ぎ更新した




