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第六十一話 義藤さまのヒミツ(1)

 天文十八年(1549年)12月



 先月のことであるが今川家と織田家が三河において激突した。三河安祥城(あんじょうじょう)を巡る戦いであり、今川軍を指揮する太原雪斎(たいげんせっさい)により残念ながら織田信秀(おだのぶひで)は敗れ、安祥城の城主であった織田信長の異母兄である織田信広(おだのぶひろ)は捕らえられてしまった。


 史実では今川家に捕らえられた織田信広と織田家で人質となっていたのちの徳川家康である松平(まつだいら)竹千代(たけちよ)との人質交換が行われることになり、岡崎松平家(安祥松平家)は駿河の今川家に取り込まれてしまうことになる。


 その松平竹千代であるが、なぜかここに居たりする。こことは勝軍山城(しょうぐんやまじょう)のことですけどね。


 徳川家康が今川家の掌中に渡ることを防ぐため、坂浄忠(さかじょうちゅう)先生を織田信秀の見舞いと称して尾張へ派遣したのだが、松平竹千代を幕府で引き取りたいという意向を織田信秀に伝えて連れて来てしまったわけだ。


 松平竹千代はまだ6歳くらいの鼻たれ小僧であるのだが、なんといってものちの徳川家康だからな。手元に置いておいて損はないだろう。究極の青田買いというヤツだなこれは。

(徳川家康が活躍するのは大分未来のことなので青田買いの意味はないと思うが……)


 厚かましくも今川義元は幕府に対して、今川・織田家の和睦の仲介などを依頼してきやがっていたので、松平竹千代のことは公にはしていなかった。だが、今川義元が和睦を破棄して安祥城に攻め込んだ今となっては隠す必要は最早あるまい。


 幕府の仲介した和睦を一方的に破った今川家を非難し、岡崎松平の家中には竹千代の成人まで幕府が後見することを約束し、今川家の岡崎への進出を牽制するのだ。ようするに織田家の側面援助だな。


 名目上は奉公衆の織田信秀の推挙により、松平竹千代を公方様の奉公衆へ取り立てるということになっている。

 家康の祖父である松平清康(まつだいらきよやす)亡きあとに勢力を失い、ただの国人領主に成り下がった岡崎松平家が公方様の直臣として遇されるわけなのだ。岡崎松平の家中にとっても悪い話ではないだろう。


【三河松平氏は政所執事(まんどころしつじ)の伊勢家の被官であり三河の御料所の代官であったという説もありますが、このころにはすでに伊勢家の被官の身分はないものと思われる】


 本当であれば安祥城の落城も避けたかったのだがそれはダメだった。織田信秀にはそれとなく安祥城に今川家が攻め寄せて来るであろうことは伝えていたのだが、信じてなかったな……あの野郎。


「これなるは三河岡崎の松平家の嫡子松平竹千代にございます。公方様におかれましてはなにとぞお引き立てを賜りたくお願い申し上げます」


「織田弾正忠(だんじょうのちゅう)の推挙であったな。(おもて)をあげるがよい」


「公方様の仰せである。松平竹千代、面をあげよ」


「ははーっ」


(みなもとの)左中将(さちゅうじょう)義藤である。直答(じきとう)を許すぞ」


「はっ、松平竹千代にございます。公方様の御尊顔を拝し(たてまつ)り恐悦至極に存じます」


 可愛く健気に挨拶する徳川家康とか面白いものが見られたな。これが狸爺になるとは信じられないが。


「三河からよう参った。その方を御部屋衆(おへやしゅう)へと取り立てることとする。我が側にあって勤めに励むがよい」


「あ、ありがたき幸せにございまする――」


 ◆


「まだ親が恋しい年頃であろうに可哀想ではないか」


 松平竹千代の謁見を済ませて、天守閣二階の義藤さまの私室でのんびりとお茶をしている。


「竹千代の父は今年の春にすでに亡くなっており、母親はたしかかなり以前に離縁して他家へ再嫁(さいか)している身であったかと」


【家康の父親の松平広忠(まつだいらひろただ)は1549年3月に死亡、母親の於大(おだい)の方は外交関係の問題から松平広忠に離縁され久松俊勝(ひさまつとしかつ)と再婚している】


「なんと不憫な……ならば我らが親代わりとなってしかと育ててあげねばならぬのう」


「それでは私が父親役を務めますれば義藤さまには母親役をお願いいたしまする。夫婦で頑張りましょう」


「め、めおととな!」――ボンと義藤さまの顔が真っ赤になる。


 相変わらず可愛い義藤さまである。見ていて楽しくてお茶が美味い。


「冗談はさて置き、竹千代殿には立派な教育係をつけますので御安心下さい」


 馬術は小笠原流に弓術は日置(へき)流を、国学や法学の師匠には清原家や吉田家をつけるし、史実で徳川家康を教育したとされる太原雪斎に負けないような英才教育を施してくれよう。


「ゴホン、それで竹千代の件は何の考えあってのことなのだ?」


「織田家の支援であります。岡崎松平家を今川家が乗っ取る口実を奪い、岡崎松平家を織田家の陣営とすることで、今川家の西三河への侵攻を防ぐためであります」


 戦闘クソ坊主の太原雪斎のおかげで織田信秀は今川家に圧倒されて、織田信長の代には尾張国内にまで今川家に進出されてしまう。尾張が安定しないと織田家や斎藤家から援軍が貰えず困るのだ。

 三好長慶(みよしながよし)と戦うためには斎藤道三(さいとうどうさん)や織田信長の支援がどうしても欲しいのだが、今は少し厳しい情勢であるか……


「すまぬ藤孝、少し調子が優れぬようだ。少し横になりたい」


 松平竹千代の件や勝軍山城の改修の件で打ち合わせを続けていたのだが、義藤さまが調子を崩してしまった。慌てて羽根布団を用意する。

 眠りたいというので、静かに私室をあとにした。


 翌日、義藤さまの具合を伺いに参上するが、まだ体調は回復していないようで義藤さまは起き上がれないでいる。朝食も用意したのだが食欲がないと言って食べてくれない。


「お腹が痛い。今は食べたくない……」


 食いしん坊将軍とは思えぬもの言いに何か病気ではないかと心配してしまうではないか。

 篭城してからの義藤さまの食事は自分が用意したものを一緒に食べているので、毒を盛られたとかいう心配はないだろう。あとは……食べ過ぎであろうか?(失礼なヤツです)


 義藤さまが心配なのでしばらくお側にいることにした。冬なのに暑いと寝言を言いながら布団をけっ飛ばしたりして、寝相の悪さを発揮してくれるので、おみ脚がお見えになってしまって眼福である。

 義藤さまが体調を崩している時にエロいことを考えるのは少し無神経過ぎるので、非常に残念で無念ではあるが布団を直すことにする。そこで布団に赤い血のようなものの跡を見つけてしまうのである。


「よ、義藤さま、どこかお怪我を?」


 寝ているところを悪いとは思いながらも心配で声をかけてしまう。


「ん……別にどこも怪我などしてはおらぬが――あっ!」


 義藤さまも布団の鮮血に気がついたのであろう驚きの声をあげた。


「義藤さま、急ぎ医者を呼んで参りますれば――」


「ま、まて、藤孝! これは……その……」


「で、ですが――」


「ふ、藤孝……お佐子(さこ)を、清光院(せいこういん)を呼んではくれまいか」


「叔母上を? わ、分かりました。ただいま呼んで参ります――」


 ◆

【義藤さまのヒミツ(2)へ続く】


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清光院(せいこういん)佐子局(さこのつぼね))と三淵家(みつぶちけ)


 清光院とは細川藤孝の父である三淵晴員(みつぶちはるかず)の姉である。三淵晴員は三淵晴恒(みつぶちはるつね)の娘を妻として、三淵晴恒の養子となっているので恐らくは義理の姉であろうと思われる。(実姉の可能性もある)

 三淵晴員の父である細川元有(ほそかわもとあり)は三淵晴恒の父である三淵晴貞(みつぶちはるさだ)の娘を妻としており和泉細川家とは元々婚姻関係にあったので三淵晴員は養子として三淵家に迎えられたのであろう。


 足利義晴は生まれてすぐに父の足利義澄を亡くしており、足利義澄の支援者であった播磨(はりま)守護の赤松義村(あかまつよしむら)に引き取られ播磨で育つことになるのだが、播磨に所領のあった奉公衆の三淵家は幼い足利義晴を播磨で支援していたものと思われる。佐子局は足利義晴の養育係をしていたのではないだろうか。


 11歳で上洛し細川高国に将軍として迎えられた足利義晴のもとで、佐子局は女房衆として近侍しており、政務にもかなり従事していたようである。佐子局は足利義晴を公私に渡り支えており、足利義晴にとっても幼少期から側に在り最も信頼を寄せていた人物であったのだろう。


 たぶんと言うか間違いなく三淵晴員よりも佐子局の方が有能であり足利義晴にとってはなくてはならない女家老みたいなものであったろう。三淵晴員や三淵藤英(みつぶちふじひで)、細川藤孝が将軍家の側近になったのも佐子局というゴットねーちゃんが居たからじゃないだろうか。


 佐子局は足利義晴が正室を迎えたころに出家して清光院を名乗り、八瀬(やせ)に隠居したのだが、たびたび足利義晴に呼ばれて政務を助けていたようである。

 佐子局は幼少期の足利義輝にも同行することがあり、足利義晴に嫡子の養育係も任され近侍していたものと思われる。


 佐子局という名称は室町期の女房衆によく見られる名であり、大館家出身の女房の名乗りとされる。清光院は大館家の養女になっていたと考えられている。


 ――謎の作者細川幽童著「どうでも良い戦国の知識」より

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取り急ぎ投稿したら文章がかなり変だったので修正

まあいつも文章は変なんですけどね

文章を書く勉強などはしたことないしビジネス文書ばかり

だったので、文章力はお察しです


変な文章の小説ですがいつも応援ありがとうございます

感想、誤字報告、ブックマーク、評価といつも力を貰っております

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