第九話 角倉吉田家
天文十五年(1546年)11月
この山城国において土一揆が発生し、極度に治安が悪化してしまった。
土一揆は「徳政」を求めているからだ。
徳政とはようするに借金の減免または破棄、荘園領主への年貢の免除、売買されてしまった所領の返還などを求めることである。
土一揆を起こした国人領主や惣村は、金融業者である土倉や荘園領主などに武力で持って押しかけ強訴したり、破壊行為をしたりするのだ。
そりゃあ治安が悪化するわけである……
京の周辺には西岡衆と呼ばれる国人領主達がいた。
今回の土一揆は細川氏綱方で、洛中を占拠し続ける細川国慶に、西岡衆が同調してのものであるとも噂されている。
治安の悪化を受け、俺はなるべく義藤さまの元へ出仕するようにした。
兵法の指南役以外にこれといって仕事がないので、そこにいる松井新二郎勝之と同じように護衛と称して突っ立っているだけであるが……別に蕎麦屋が忙しいから義藤さまの元に逃げたわけではないぞ。
「誰かある」
東求堂の中にいる義藤さまからお声がかかった。
「はっ、与一郎ここに」
(一度言って見たかったのよね)
見ると、新二郎が悔しそうに俺を睨んでいた。はっはっはー、早いもの勝ちなのだよ。
パンっ! 勢いよく東求堂の障子戸が開いた。
「なんだ、藤孝参っておったのか!」
とても可愛い笑顔で、義藤さまが出てくる。
「はい。恐れながら治安が悪化しておりますので護衛にでもと参上仕った次第であります」
「まあよい。ちょうど聞きたかったことがあったのだ。藤孝、こっちへ参るがよいぞ」
そう言って部屋の中に入ってしまった。しょうがないので俺も続いて中に入る。
「彼らは何が不満で一揆など起こしておるのじゃ?」
義藤さまの部屋に入って、開口一番、唐突に聞かれてしまう。
「土一揆にございますか? 義藤さまは西岡衆のことはご存知でありますか?」
「あまり良くは知らんのじゃが……」
「では西岡衆のことからお話しましょうか……ところで、先ほどは何用で人を呼んだのでありましたか?」
「あ、いや、少し小腹が減ってのう昼食にでもしようかと……」
恥ずかしがって、頬を赤くする義藤さまがとても可愛い。
「それなら食事でもしながら話しましょう、今日は新作の茶蕎麦を持って来ましたので、是非食してください」
◆
相変わらず国宝の東求堂の茶室「同仁斎」で蕎麦を茹でて食べるという、不届きなことをしながら二人でお話をする。
「西岡衆とやらは幕府の被官ではないのか? なぜ土一揆などを起こすのじゃ?」
という義藤さまの疑問に対して、西岡衆のことを説明する――
西岡衆とは、現代の京都のある山城国の国人領主達のことだ。
山城国は室町幕府のお膝元であり、他国と違って有力な守護による国人領主の組織化が行われなかった。
また、西岡衆は西岡被官衆とも呼ばれ、一応は幕府の被官ではあるのだが奉公衆などのように幕府機構のもとに組織化はされていない。
国人領主を分かりやすく言えば、織田信長の家臣で有名な、柴田家も前田家も佐々家も、元は国人領主だ。国人領主は国衆とも呼ばれたりする。
そして、国人領主の組織化とは、ようするに被官(家臣)にすることであるのだ。
結局、西岡衆は管領たる細川京兆家の被官となって働くものがいたり、政所執事の伊勢氏や公家の被官になるものがいたり、西岡衆の中で争ったり、あるときには団結して土一揆を起こすなど、幕府の、室町殿の統制下にはなく、独自の動きをするようになっていた。
「西岡衆は国人領主であります。幕府への思いは公方様の栄えある直臣である奉公衆とは違いましょう。ですが、極端なことを言えば日の本ほとんどすべての武士が思っていることはただの一つです」
「それは何じゃ?」
「一所懸命……それにつきます」
(一所懸命は一生懸命の語源になる。武士が自己の所領である一所を命がけで守ることであり、一生を掛けて守ることから、一生懸命の字に転じたともされる)
「それは所領ということか?」
「御恩と奉公という言葉もございます」
「ではお主も、わしがお主に所領を与えねば、付き従わぬということなのか?」
「そう思われますか?」
「いや……」
義藤さまが自信なさげにつぶやく。
『それ主将の法は、務めて英雄の心を攬り、有功を賞禄し、志を衆に通ず』
持ってきた「三略」の書の一節を読み上げた。
「三略の冒頭の一節ですが、人の上に立つ将となるならば、優れた人材の心をつかみ、功績があれば正しく報酬を与え、自らの理想の思いを周囲の人々に知らしめなければならない。という意味になります」
伊勢新九郎長氏(最近の説では伊勢盛時)、いわゆる北条早雲はこの一節を読んだだけで、兵法の極意を掴んだとされる。
義藤さまに北条早雲バリのスーパー武将になれとは言わないが、幕府の将軍として、組織のリーダーとして、人の心を掴もうとする努力はして欲しいものだ。
「三略か。孫子とともにお主が薦めていた書であるな……正しく報酬をとは、やはり所領ということでよいのか?」
義藤さまが三略を受け取ってながめ、俺に聞いて来る。
「我が淡路細川家としては、(足利)義政公に家名と家格を貰い、また御料所の代官なども頂いております。御家としてはすでにご恩を受けているかと存じます。ですが、その御恩も時が経ち何代も人が変わればその「ご恩」は旧恩となり、恩義も薄れてしまうものでしょう。さらに奉公を求めるならば新たな新恩なり、求める相手の欲している『もの』を与えなければ、人はついて来ないものなのです」
「わしがそなたに奉公を望むならば、何を与えればよいのじゃ……」
義藤さまが元気のなくなってしまった声で俺に聞いて来る。少しイジメ過ぎたかな。
「お忘れですか? わたくしめは義藤さまに意識不明で倒れている所を助けてもらった『恩』、結果的に一日か二日ではありましたが、記憶を無くして行くあてのない私をこの東求堂においてくれた『恩』、そのときに食事を頂いた『恩』、兵法指南役としての役儀を頂いた『恩』がありましょう。それに義藤さまの『藤』の一字を拝領した『恩』など、既に数多く頂戴しております」
「――は?」
ありゃ義藤さまが呆けてしまった。ポカーンとする顔もとても可愛いが……
「私には義藤さまに多くの新恩がございますれば、特に必要とは思いませんが? まあ何か頂けるというなら貰って差し上げますぐぁ――!」
そこまで言って、義藤さまに首を絞められてしまう。
「そういう冗談はよせ! 今後そういう怖い冗談を言うなら――」
「わがりまじだ。首をはなじでぐだざい。もーいいばぜんがらぁ」
ゲホンゲホン。やっと首を絞めるのをやめてくれた。
「ま、まあ。まずは西岡衆の求めるところをお考えになっていただければと思います。そしていずれは日の本の武家が公方様(将軍)に何を求めているのかを考えていただきとうございます。さきほどは極論で所領とお答えしましたが、ひとくくりに所領といってもそう単純ではありません。それに求めるものも所領だけではありません。人は誰しも心を内に秘め、その望みを果たしたいと考えるものであります」
「そなたにただ教わるだけではダメということなのだな。わかった少し考える」
――マジメな顔をして三略を読み出した義藤さまの邪魔をしないように部屋を出る。
俺が教えたスクワットに熱中している新二郎に、帰りの挨拶と義藤さまが読書中であることを告げ、静かに東求堂を離れた。
ですが、もっとも嬉しい「恩」は、お側に置いて頂き、その笑顔を私に向けてくれることなんですがね……そう思いながら俺は帰路を歩くのであった――
◆
結局、土一揆に対して幕府は徳政を発布した。
それにより土一揆は収束し、治安は無事に改善に向かうことになった。
今の幕府には対処療法しかできないのであろう。
今回の西岡衆が土一揆を起こしたことに関しては、その根っこは結構単純なものである。
細川国慶の洛中侵攻に西岡衆は手を貸した。
手を貸したからには俺にも分け前をよこせやゴラァ! ということである。
しかし国慶は分け前を与えられなかったのだ。
細川国慶は洛中を治めるのに精一杯というか、治めることができなかったのだ。
それは当たり前のことだった。
洛中を治める権限もなく、国慶が何を言おうが何を約束しようが、結局の所は空手形なのだから。
そんな国慶に西岡衆に分け前を与えることなどできないわけだ。
だから西岡衆は分け前を自力で取りに行った。
管領たる細川晴元や幕府は、洛中から逃げ出しており、土一揆を押さえ込むことができない有様であったのだ。
そのような状況だから、今なら土一揆を起こせば徳政が認められる可能性が高い。
そう思って西岡衆は蜂起したのだ。
一応洛中を支配する細川国慶としても、西岡衆の協力を失いたくないから鎮圧などしない。
また、土一揆が起こって信用を失くすのは細川晴元政権だから問題はないのだ。
西岡衆による土一揆が起こった原因は、洛中を守るべき室町幕府と、その幕府を支配する立場の京兆家の細川晴元がグダグダなことなのだ……
◇
◇
◇
洛中の治安が改善したので、あらたな金儲けにでも精を出そうかと考えていたら、いつもの吉田兼右叔父と兼見くんから俺はまた相談を持ちかけられた。
「与一郎、蕎麦以外にも何か他にも儲けられる物はないかのう?」
ストレートだなおい。
参拝者を増やすとかじゃなくて、儲けたいとズバリ来たか。
もうなんか、兼右叔父は完全に守銭奴になっているよなぁ……まあちょうど、商売のネタを考えていたから丁度良いけどな。
「そんなこともあろうかと、じつは鰻重も蕎麦と一緒に売り出すことを考え準備しております」
「おお、鰻重か、あれはたしかに美味かったでおじゃる」
坂浄忠先生たちにも出したが、吉田家の皆さんにも鰻重を振舞っていた。兼右叔父の感想のとおり評判は良かったものだ。
「与一郎、ぜひ鰻重の販売はすすめて欲しいが、実は節分祭りがあるのだ。蕎麦と鰻重で十分とは思うのだが、ほかにも参拝者と祭りの人手を増やす良いものがあれば助かるのだ」
兼見くんも金儲けに積極的だな。
「節分というと2月3日か……それくらい先の話なら、何か考えるけど?」
「何を言ってるんだ与一郎。節分が2月だと? まだ記憶がおかしいままなのか?」
「へ?」
ああ、旧暦で考えると節分っていつになるんだ? 正直よく分からん。
「いいか、節分というのはだなぁ――」
節分祭りとは、ようするに年越しの行事みたいなものと考えて良いようだ。
大々的にやりたいから、大晦日から正月三箇日の間にやるというわけね。
って、準備期間が一ヶ月しかねえ(吐血)。
「節分祭は今まで以上にお客が見込める。うちとしてもこの際、大きな祭りとしてやりたいのだ」
「わしからも頼むぞ与一郎」
今更だけど神職がこれで良いのか? 金儲けしか考えてないぞおい。
「分かりました。準備の猶予があまりありませんが、何か考えます」
お世話になっている吉田家に懇願されては何か考えねばなるまい。
結局、俺は金儲けの必殺技に手を出すことにした――そう、清酒作りだ。
◆
質の良い酒をつくることが出来れば、この時代の儲けは凄いことになる。
応仁の乱以前の京では、1千軒を越える酒屋が洛中洛外に軒をならべていたという。
「柳酒」という酒の銘柄の元祖ともいわれる酒があり、それはほかの酒の2倍の価格で売れ、贈答品としてとても珍重されたという。
この柳酒を売る酒屋一軒だけで、1年に700貫もの税を納めることもあったらしい。
売上げではない。税だけで700貫である。
つまり、良い酒が造れれば、儲けはかなりデカイということなのだ。
応仁の乱における洛中の酒屋衰退後は、僧坊酒が席巻する時代となった。
菩提泉に代表される南都(奈良)の寺院で作る僧坊酒や、越前の豊原酒、近江の百済寺樽などの僧坊酒が京の町に流入して、かなり売れまくって坊主丸儲けといった感じであるらしい。
もともと寺院では酒の消費量が多く、ならば自分たちで作ってしまい売ってしまおうということで生まれたのが、「僧坊酒」になる。
般若湯なる、隠語まで生まれるわけだな。
腐れ坊主どもよ、不飲酒の戒律はドコにいったのだ?
酒で儲けた金を元手に土倉と呼ばれる金貸し業でさらに財をなし、酒造りから土倉業へステップアップするのはこの時代のトレンドでもある。
酒屋から豪商となる商家が現れたり、寺院も土倉業で財をしこたま溜め込んでいるのだ。
なんというか本当に腐れ坊主しかいないな……どこかの第六天魔王じゃないが、寺なんか焼き討ちされてもしょうがないと思うぞ。
戦国時代で金儲けをするならまずは酒造りなのだが、一から酒を造る暇もなければ、悲しいことに人手も足りない。
そんなわけで、とりあえず酒を仕入れることから始めることにした。
「買い出しに出るゆえ供を頼む」
中村新助に声をかける。
「へえ、どちらまで行かれますか?」
「正月に酒を売るんだ。嵯峨野まで仕入れに行くから、馬を頼む」
「へえ、かしこまりました」
淡路細川家の家人である中村新助とともに酒の仕入れのために出かける。
土一揆の蜂起で治安が悪化したため、義父が俺に供をつけてくれるようになったのだ。
身分は中間であるが、俺の家臣第一号みたいなもの(義父の家臣を借りてるだけ)なので、大事にしようと思う。
向かうは桂川が流れ、天龍寺などがある洛西の嵯峨野だ。
この時代、嵯峨野には酒屋と土倉が軒を連ねている。
1393年に室町幕府は足利義満のもと「洛中辺土散在土倉并酒屋役条々」なる5箇条の法令を出し、酒屋役・土倉役という税金を酒屋と土倉に課した。
室町幕府はもともと直轄地である御料所が少なくて、年貢収入のほかに現金収入を求めたためである。
御料所とはのちの豊臣秀吉の倉入地や江戸幕府の天領に相当するものだ。
だが後者に比べると圧倒的に少なかったりする。
室町幕府の将軍権力が弱い原因の一つでもあるのだ。
(室町幕府がスペランカーになった要因)
嵯峨野にある臨川寺は足利尊氏から厚く崇敬された高僧の『夢窓疎石』が開山した寺院になる。
そのため幕府は臨川寺を保護し、境内の酒屋・土倉は幕府から税免除の特権を与えられた。
税金がかからないため、嵯峨野には酒屋・土倉が軒を連ねることになったわけだ。
洛中にも酒屋はあるが、わざわざ嵯峨野にまで酒を仕入れに向かったのには別の理由もある。
土一揆は治まったとはいえ、まだ洛中には細川国慶が居座ったままなのだ。
洛中で一応幕臣の俺がノコノコと買い物もできないだろう。
めんどうだが、わざわざ洛中を避けて嵯峨野へ向かわなければならないのである。
酒の仕入れ先は、義父の細川晴広が紹介してくれた「角倉」という屋号の店になる。
嵯峨野に行ってみて分かったのだが、角倉屋はただの酒屋ではなかった。酒造り、酒卸、酒小売に土倉業を営み、嵯峨野一帯の酒屋を傘下に収め、洛中の帯座の座頭職でもある豪商であったのだ。
将軍の側近である義父の紹介はハンパじゃなかった……
目指す角倉屋は臨川寺のすぐそばにあった。
俺は店に入り義父からの紹介状を見せ、吉田社の節分祭で酒を販売するため、仕入れを行いたい旨を伝えた。
義父の細川晴広からの紹介状はなかなか効力があったようで、大旦那の吉田宗忠、若旦那の吉田与佐衛門光治がわざわざ挨拶に出てきてくれた。
まだ13歳の若造にはもったいない待遇であると思う。
「亡き伊豆守様にはお世話になりました」と大旦那は養祖父の細川伊豆守高久とも知り合いであったことを教えてくれた。
大旦那いわく、角倉は倉の名前から取った商売上の「屋号」で、吉田が苗字であるという。
吉田の本姓は佐々木氏で近江源氏の一族であり、淡路細川家の本家である佐々木大原家とは、遠いが同じ佐々木一族であるのだ。
大旦那の吉田宗忠殿はかつて幕府の御典医を勤め、医者としても商人としても、内談衆であった祖父の細川高久にお世話になったと感謝されてしまった。
ちなみに吉田神社の吉田家は卜部氏なので、佐々木氏の角倉吉田家とは別系統の吉田になる。
吉田と吉田でややこしいことこの上ない……
大旦那の吉田宗忠殿が御典医だったと聞き、漢方薬についての話もしたのだが、宗忠殿の次男である吉田宗桂殿も幕府の御典医であるという。
できれば会って話をしたかったが、なんとも大内氏の遣明船で明に渡るとかで、すでに京を離れ大内氏の本拠地である周防の山口へ旅立ってしまっており残念ながら不在であった。
ちなみに吉田宗桂は吉田意安の号でも呼ばれる。
遣明使の副使として、そして正使として、2度も「明」(中国)に渡った天竜寺の策彦周良につき従い、吉田宗桂も2度「明」に渡っている。
明では医学を学び明国皇帝の嘉靖帝に薬を献じたとも言われている。
その吉田宗桂の次男が、京の豪商で「京の三長者」とも呼ばれ、朱印船貿易で財をなし、大堰川(保津川・桂川)や高瀬川の開削で有名な「角倉了以」になる。
角倉吉田家の一族には角倉了以のほか、その子の角倉素庵や江戸時代の数学者吉田光由などもいるが、これは角倉吉田本家があってこその活躍である。
だがこれは未来の江戸時代の話なので今は関係ない。
「では、夕刻までには吉田社に納品させて頂きます。父上(晴広のこと)にもよろしくお伝え下さい」
酒の納入についての商談を若旦那の吉田与佐衛門と終えて、無事に帰路についた。
なるべく出来たばかりの新酒で価格は安めのものを卸してもらうことにした。
価格もずいぶんと勉強してくれたものだ。
ついでにといってはなんだが、味醂なども安く仕入れることができた。
角倉家は海外貿易品も手に入るということなので、これからはいろいろ相談してみようと思う。
なんだか随分と円滑に商談を行うことができたわけだが、養祖父の細川高久と養父の細川晴広の紹介のおかげであるな。角倉吉田家とはこれからも良い商売づきあいをしたいものだ。
さて帰って鰻屋の準備と清酒造りだ。また、忙しくなりそうだ――
角倉了以が生まれるのは1554年なので、
本編では活躍できないのが残念です