第五十九話 第一回室町幕府連歌会in勝軍山城(1)
天文十八年(1549年)9月
「藤孝……和歌とはよいものじゃのう……」
義藤さまが虚ろな目をして問い掛けて来る。
ここ数日、一色藤長に付き合わされて歌を聞かせられていたようだが、どうやらすっかり洗脳されてしまったようだ。だが俺は忙しいのでとりあえずほっとこう。
「はあ、そうですか」――生返事で答える。
「ああ、歌は良いものだ……藤孝、聞いておるのか?」
「歌は良いものですねえ」――むろん適当に答える。
「うむ。わしも歌を作ってみたのだが聞いてもらえるか?」
「はあ」
「では詠むぞ。――ボエェェェェェ(比喩表現)――」
いくつか自作の歌を詠んでいたようだが義藤さまの歌は酷いもので、中二病のポエムか、剛田タ○シのリサイタルのような出来である。
「どうであるか?」――ニコニコ聞いて来るのだが、正直いって迷惑以外の何物でもない。
「はあ、大変結構でした」
「む、なにか適当に答えている気がするぞ。それに藤孝、お主はさっきからわしの傑作の歌を聞きもしないで何を書いておるのじゃ! しかとわしの歌を聞かぬか!」
「すいません。書状を書くのに忙しかったもので」
「書状?」
「はい、尾張の織田信秀殿と美濃の斎藤道三殿から兵糧支援の申し出がありましたので、そのお礼の書状になります」
「ほう、我らを支援してくれるのであるか。それはありがたいことであるな」
「それ以外にも奥州の葛西晴胤殿への書状や、豊後の大友家に周防・長門の大内家、あとは越前の朝倉家宛の書状も書いております」
「何をそんなに書状を書いておるのだお主は?」
「何をと言いますが、各地の有力者との連絡は幕府にとっても重要なことでありましょう」
「だがお主はその家らの申次ではあるまい。お主が書く必要はないのではないか?」
義藤さまのくせにたまには正論を言ってくるな。
「葛西家はこれまで幕府に対して連絡をとる際に、管領たる細川京兆家を仲介しておりました。こたびも典厩家の細川晴賢殿が申次となっておりますが、できれば今後は直接葛西家と連絡を取りたいと考え、私が手紙を書いております」
【ちなみに後年、細川藤孝は足利義昭の時期に葛西家の申次になっています】
「京兆家から外交の主導権を奪おうというのか? 細川晴元が怒るであろうに」
「細川晴元は三好長慶の件でそれどころではありませんので好機かと」
「またズル賢いことを考えておるようじゃの」――ヒドい言われようだ。
「よろしくはありませなんだか?」
「考えがあるのであろう、思うがままにするがよい。じゃが大友家の申次は大館晴光であったろう。お主が取って代わるわけにはいくまい。幕臣同士で仲違いしては困るぞ」
「大友家や大内家への手紙は言うなればお願いなのですが……」
「お願い?」
「公方様が鉄砲隊を組織しておりますので、火薬の材料である硝石を求めているとお伝えしようかと思っています」
「わしの鉄砲隊だと? それにわしが硝石を求めているとはどういうことだ?」
「我が淡路細川家で組織しております鉄砲隊は義藤さまの盾となる鉄砲隊であります。我が鉄砲隊は公方様の鉄砲隊と同義とお考えください」
「ふむ。お主の鉄砲隊の働きは承知しておる。よかろう我が鉄砲隊の強化はわしも望むところよ。大館晴光にはわしから一言申し添えよう。それにわしも御内書を書こう」
【御内書とは将軍の出す私的文書であったのだが、時代がたつにつれて幕府の公的文書化したものである。お手紙将軍こと足利義昭が後年に御内書を書きまくったりしています。ちなみに本来の将軍の公的文書は御教書になります】
「それは助かります。御内書を拝領する大名衆も喜びましょう」
義藤さまは最近、俺の叔父で奉公衆の飯河秋共から書を習っている。飯河秋共は一両斎妙佐の名で書道の賀茂流の能書家であるので、義藤さまの書の腕前も大変上達していて嬉しくある。
「そうか喜ぶか。だが西国や奥州に書状を送るのは大変であるな」
「大友家や大内家には在京雑掌がおりますれば。その者に渡すだけで事が済みますので」
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「在京雑掌」
「雑掌」とは元々は公家や武家に仕え荘園管理や訴訟などの雑務を行うものなのであるが、ここでいう「在京雑掌」とは室町時代や戦国時代において室町幕府のお膝元である京に滞在して、守護や戦国大名のために対幕府の外交を担ったり、京の情報などを集めたりしていたものになる。
室町幕府というものは本来「守護在京」であり、守護は在京することが義務付けられていた。室町幕府は守護の連合政権であり守護も幕府の政権運営に参画していたのだ。
(守護の領国に居たのは守護代や又守護代だった)
本来の室町幕府において守護は京に居るものであったので、在京雑掌などは必要なかったのだが、「守護在京」にも例外はあった。越後守護の上杉家や周防・長門守護の大内家などは対関東、対九州のために在京が免除されていたのである。
そのため上杉家や大内家は洛中に「在京雑掌」を置き、幕府との交渉や京の情報収集を任せる必要があった。
だが応仁の乱で「守護在京」の原則はぶっ壊れる。洛中の戦いが地方にまで広がり、守護が任国に下向して京に帰って来なくなり、在京する守護は細川家だけという有様になってしまうのだ。(京兆専制につながる)
そのため、上杉・大内両家以外の守護なども在京雑掌を置くようになる。在京雑掌は自身の被官であるのだが懇意の寺院や僧が雑掌僧としてその役務を担うこともあった。
【在京雑掌、雑掌僧(に類する者)の例】
周防大内家:安富、内藤、吉田、阿川氏、松雪軒、正法寺など
越後上杉家:神余氏(昌綱、実綱、親綱の世襲)
山内上杉家:判門田氏
豊後大友家:東福寺の宝勝院(斯立光幢、蘭圃光秀など)
伊予河野家:梅仙軒霊超(岩栖院主で徳大寺実淳の子、近衛稙家叔父)
肥前有馬家:大村純前(大村純忠の養父)
安芸毛利家:東福寺住職の竺雲恵心(安国寺恵瓊の師)
若狭武田家:吉田宗忠(京の商家、角倉吉田家)
甲斐武田家:武田信虎(追放された武田信玄の父、実質的な雑掌)
奥州伊達家:坂東屋富松(京の商家、熊野先達)
熊野先達とは熊野詣の案内人で、座を組んで熊野までの通行手形の発行や宿泊施設の手配などを商いしていた。京都において熊野三山を統括していたのは熊野三山検校で聖護院門跡が兼務している。
天文の乱を調停した道増は聖護院門跡であり、坂東屋富松は葛西氏などの陸奥の諸勢力や関東の諸勢力の連絡も行っている。
この時期の奥羽や関東と幕府の連絡役は聖護院や坂東屋など本山派の修験道(山伏)の勢力が仲介していたと考えられる。
在京雑掌は幕府の正式な窓口である申次と事前交渉や下交渉、根回しなどを行い、守護補任や一字拝領の交渉などで主家に有利になるよう交渉するわけである。
皆も戦国大名になったら在京雑掌を置いて幕府と交渉をやってみよう。交渉が捗るし、最新の京のニュースも手に入るよ。
――謎の作者細川幽童著「どうでも良い戦国の知識」より
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「在京雑掌とはなんだ?」
義藤さまに在京雑掌の概略などを説明する。
「――そのようなわけで在京雑掌を置いている守護などとは我らも容易に連絡を取ることができるわけです」
「ほう、その者らは我ら幕府と連携したいという意思が強いということでもあるのだな……」
「そうなります」
斎藤道三や織田信秀に在京雑掌を置くように依頼してもよいかもしれないな。幕府との交渉を重視してもらう為にも各地の有力者には在京雑掌を置いてもらいたいものだ。まあ、それも三好長慶との戦いが終わって洛中支配を回復してからになってしまうがな……
しばらく義藤さまとお手紙タイムであった。御内書を受けることは名誉なことであり、相手も喜ぶと知った義藤さまはニコニコして書いていた。
だが、思い出してしまった――
「む? それよりも歌じゃ! お主ちゃんとわしの歌を聞かぬか! 書状を書くのもよいが、わしは歌を詠みたいのじゃ」
ちぃ、覚えていやがったか。だがいい加減義藤さまの公害のような歌を聞くのは勘弁したい。
「義藤さま、良い機会ですので和歌の勉強をしましょう」
「む? わしの歌ではダメだというのか?」
「はい。プロの私からすればまだまだですな」
「ぷ、ぷろってなんじゃ???」
「この古今伝授を受けた細川藤孝が歌の心というものを指導してくれましょうぞ。しばらくは講師を呼んで歌の特訓です。覚悟していただきましょうか、カーッカッカッカ」
(古今伝授はまだ伝授されておりません)
「ふ、藤孝が何かおかしくなってしまった、あわわわわ――」
◆
【第一回室町幕府連歌会in勝軍山城(2)へ続く】
今回は説明回になってしまうかなぁ
在京雑掌と古今伝授からとある方向に向かうための
準備回になってしまいます
ドコに向かうかは勘の良い人分かると思いますが……
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