第五十八話 天守閣をつくろう(1)
天文十八年(1549年)7月
前回のオチ――江口の戦いに敗れて京に逃げ戻って、義藤さまにご褒美で膝枕してもらっていたら、調子に乗りすぎてヒザ蹴りを喰らってぶっ飛ばされた。だが、しっかりとふとももの感触を堪能したので後悔はしていない。
あと大典太光世の下賜は丁重に断ったけど、大御所が何か褒美ぐらいは貰っとけとしつこいので、光世作の短刀を貰いました。これは脇差で使うことにする。(こいつも重要文化財ですが)――
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おかしい……あの日以来俺は結構頑張っているはずなのだが、結局は三好長慶が江口の戦いに勝ってしまい、天下人の道を歩んでいるではないか。
こんなことで歴史を変えて義藤さまを救うことなんて出来るのだろうか?
昨日、義藤さまに膝枕をして貰って、今為すべきことを為すのだとか決意したはずなのだが、どうやったらフ○ーザみたいな三好長慶に勝てるのかサッパリ分からないぞ。ああ、未来が見えないわ……
だがまあ最終形態に変化した三好長慶が攻めて来ようが、この「勝軍山城」は簡単には落とさせはしないのだよ。
大規模に改築することになったので「北白川城」の城名を「勝軍山城」に改めることを正式に大御所が決めた。縁起を担ぎたかったみたいだな。(北白川城は瓜生山城、勝軍地蔵山城など色々別名がある)
名を改めたこの勝軍山城には今出川御所を退去した公方様や大御所様に近衛一家の皆様に奉公衆と細川晴元に三好宗三など6千を越える兵が入城した。
6千を越える兵で篭城とか補給がマジで大変なのであるが、近江から補給することが可能なので補給路の確保は一応問題ない。この当時に京と近江を結ぶ道としては、白鳥越、山中越、如意越などいくつかの街道がある。
「白鳥越」(古路越)は、古くからある道で最も北に位置している。一乗寺や北白川から入る比叡山地の尾根道で近江の穴太に出る道であったと思われる。後年に「志賀の陣」と呼ばれる戦いで浅井・朝倉の連合軍が織田信長に対して一乗寺山城や一本杉西城などを築いたといわれる。
「山中越」(今路越)はいくつかルート変更があったようで、荒神口から北白川に入り山中村を通り志賀峠を越えて崇福寺にいたり、穴太の南の志賀里に出る道であったが、崇福寺が廃れたため、この当時は山中村から北へ向かい白鳥越に合流していたものと思われる。
(山中村から東の宇佐山城に出る山中越の最短ルートは織田信長が整備させたものでこの当時はまだ開かれていない)
「如意越」は東山慈照寺あたりから大文字焼きの如意ヶ嶽山中を通り大津の三井寺に出る道でかつては三井寺の別院の如意寺が山の中にあったのだが応仁の乱で壊滅したらしいので、如意越もこの当時は廃れていたと思われる。
ようするにこの当時は「山中越」から「白鳥越」に出るルートが京と近江を結ぶ主要街道であり、その街道を抑える位置に勝軍山城はあるのだ。京を三好長慶に占領されたとしても、近江からの補給が期待できるので篭城が長期間に及んだとしても大丈夫であろう。
一乗寺の国人の渡辺出雲守告や山中の国人の磯谷久次も支援してくれることになっているし、思いっきり山の中の城なので大軍は非常に展開が難しく、勝軍山城を長期間包囲することはかなり難しい。アホなことさえしなければ数年は持ち堪えられる自信がある。
補給ルートとなる近江といえば六角家であるが、六角義賢は山科の地を1万の兵で守っている。京から近江へ通じる別の道である三条街道(東海道)を押えているのだ。
当初、六角義賢も将軍山城にともに入城する意思を示していたのだが、将軍山城の補給路となる大津、坂本に対して三条街道のルートで迂回して三好長慶が攻めた場合の危険性を説いて山科に駐屯してもらうことになった。現在は山科本願寺の跡地に城を築いている。
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城自体の改築も大規模にやっている。史実で大御所の足利義晴はこの少しあとに慈照寺(銀閣寺)の裏山に「中尾城」を大規模に築城するのであるが、そのリソースもブチ込んで勝軍山城の大規模改修をしているのだ。
問題はなぜか知らないがこの改築の総奉行に俺が任命されていたりすることだな。
城攻めが上手なれば城の縄張りも得意であろうとか、そんなことを大御所に言われて任命されてしまった。細川晴元や三好宗三も兵部殿であれば問題なかろうと賛意を示している。正直いって細川晴元に信頼されるとか全力でキモいのだが……まあせっかく総奉行に任命されたので、趣味全開で思いっきりやっている。
城の防御面で改築するにあたり工夫を凝らしたのが大手門だ。門を二重にし、最初の門からは90度曲がった所に二つ目の門を置き、その間にはスペースを作って周囲を土塁で囲んでいる。敵が第一門を突破した場合にそのスペースに入り込んだ敵を上方から一方的に矢や鉄砲で攻撃できるよう工夫を凝らしているのだ。
……はい、ただの枡形虎口のパクリですがなにか?
「殺し間へようこそ」というヤツだな。虎口の実際の作業は面倒くさいので図面で概念を説明して明智光秀にブン投げた。史実では築城の名手とか言われているらしいから問題ないだろう。
城壁となる築地塀にも隠し狭間や石落しなど(いわゆる銃眼です)工夫はしているし、櫓の壁には漆喰に珪藻土を使っているので耐火性能もバッチリである。
土塁も土止めとなる角や主要なところには、部分的に石垣を採用している。まだ寺社専門にやっていた穴太衆をさっさと金の力でひっぱって来て石垣作りにあたらせているのだ。石垣造りは金森長近に丸投げでやらせている。
(穴太衆は織田信長の安土城の石垣を積んだことで有名になった現在の滋賀県大津市の琵琶湖西岸に住んでいた石工の職人集団で、自然のままの石を加工しないで積む「野面積」を得意とする。この当時は比叡山延暦寺など寺社の石工をやっていたと思われる)
あとは純粋な軍事目的でない城の改装もやっている。籠もる兵が増えたこともあり、本丸や二の丸などの拡張もしなければならなかったのだ。
前関白とか征夷大将軍とか大御所とか京兆家当主とか、なにかやたら偉そうな人々も増えているので、御殿やら住まうための場所の改装もしなければならない。
改築などは謎の宮大工集団に応援を頼んで急ピッチでやっている。
本丸御殿や二の丸の改築は大御所の注文がうるさいので実際の作業は幕府の作事奉行である結城左衛門尉国縁(結城忠正)がヒマそうにしていたので現場監督として丸投げした。
いろいろやっているが俺がこの築城で最も力を入れているのは公方様がお住まいになる場所だ。瓜生山の山頂に弁慶新五郎と一緒に建てているのだが、三階建ての望楼式の櫓のような建物、ようするに後世で言うところの天守閣を建築してしまっているのだ。
本来、天守閣は城主が住まう場所ではないのだが、義藤さまの別室というか別宅を作るついでに趣味全開でやってしまった。
瓜生山の山頂からは西を望めば洛中が一望できる。それは逆に言えば、洛中から瓜生山の山頂を仰ぎ見ることが可能ということだ。
そう、この公方様が住まう天守閣は、洛中に住む人々が仰ぎ見た場合に与える心理的影響まで考慮して設計された将軍様専用の天守閣なのである。(築城かったるいから土木用レイバーとか欲しいなぁ)
天守閣の元祖としては、1560年の松永久秀が築城した多聞山城の高矢倉(多聞櫓)や、1558年築城の古市城、さらには大田道潅が築城したとされる初期江戸城の三階櫓「静勝軒」など諸説あったりするが、この1549年に建てている天守閣は間違いなく元祖と呼ばれる代物になるであろう。
ふはははは、圧倒的ではないか我が城は。枡形虎口や石垣に防火壁、そして天守閣など、この戦国時代において安土桃山時代や江戸時代に普及したテクノロジーを先取りしまくった城を造っているのだよ。力攻めで落とせるとは思わないで欲しいものだ。
さあ見せてもらおうか三好長慶の城攻めとやらを!
落とせるものなら落としてみるがよい!
この勝軍山城に細川藤孝がいるかぎり、やらせはせん! やらせはせんぞぉぉぉ!
……だが三好長慶は攻めて来なかったのであった。(なんでやねん)
勝軍山城の城作りで趣味に走る回でした
天守閣は男のロマンです
現存天守とか見に行くと血がたぎりますよね
あとは「みんなで幸せになろうよ」な回です(ネタ的に
今日もおかげさまで更新ができました
ブックマークが増えてくれているので嬉しくて涙がでます
感想もいつもたくさんありがとうございます
反応があると非常に嬉しくてさあ次を書こうという気持ちになれます
できれば週末中に後編あげたいなぁ




