第五十六話 富田の戦い――VS三好長逸(1)
天文十八年(1549年)5月
河内平野(大阪平野)にはかつて河内湾といわれる海が広がっていた。
東からは淀川が、南からは大和川が流れ込みその土砂が堆積してその海は埋め立てられ平野となったのであるが、この時代の例に漏れず治水が不完全で水浸しもいいところであった。
淀川下流は整備された現代とはかなり様子が違い流路が複雑になっていた。大水のたびに流れを変え、川筋は幾重にも別れ、ぐねぐねに蛇行して流れていたのだ。
行基や和気清麻呂などの偉大な先人が太古の昔から何度も開削工事を行うなど治水に努めてきたのだが、結局のところ淀川の流れが安定するには、大坂城を築くことになるあの男の登場まで待たねばならなかった。
その淀川の北には平行するような形で安威川・神崎川・三国川という名前が変わるややこしい川が流れており、意味が分からないぐらいにもうそこら中が水路だらけだったりする。
(神崎川は和気清麻呂が開削し安威川と三国川を繋いだ人工の川)
この時代の細川家が支配する摂津の国は下記のように分けて称されている。上郡・下郡は細川京兆家の所領で欠郡は細川典厩家が一応治めることになっていた。
上郡:芥川山城、高槻城、三宅城、安威城など摂津東部
下郡:越水城、伊丹城、池田城など摂津中央部
欠郡:榎並城、中嶋城、石山本願寺など神崎川以南の摂津南部
(摂津西部の有馬郡などは細川家の支配地ではなく、細川家への牽制のため赤松氏の庶流の摂津有馬氏が分郡守護となっている。ちなみに京に近い方が「上」になる)
今回三好長慶と三好宗三とが争っている河内十七箇所という御料所があった場所は河内の国になるのだが、摂津欠郡の東部に広がっており三好宗三は近くの榎並城を本拠として河内十七箇所を支配していた。
この榎並城や河内十七箇所は四方を北の淀川や東の寝屋川、南を新開池・深野池という大きな池というか湖に囲まれ、西も淀川の旧本流である三国川に囲まれる川中島の地勢であり、摂津の上郡や下郡からは神崎川・淀川を渡らないと達することができなかった。
とにかく淀川下流は川中島や輪中のようなものが複数存在し、水路だらけで非常にやっかいで面倒くさい地形をしているのだ。
さらに残念なことに三好家には淡路水軍を率いる安宅冬康なんて武将もいる。三好長慶と十河一存と遊佐長教が大軍で包囲し、さらには水路だらけの地形のところに淡路水軍まで控えているのだ。
榎並城を救援するということは、無謀を通り越して馬鹿というかメガトン級の大馬鹿としか思えないのである。
さっさとあきらめて試合終了をお願いしたいところだ。安西先生だってきっと許してくれると思うのよね……
だが三好宗三はむろん諦めずに榎並城に籠もる嫡男の三好政生の後詰めをがんばろうとする。
年明けに丹波から一庫城を経由し、伊丹城で伊丹親興と合流。さらに欠郡の中嶋城にいた細川典厩家の細川晴賢とも合流して榎並城にほど近い淀川の対岸にある柴島城を攻略し榎並城に迫った。
(典厩家は分裂しており、細川氏綱派の細川藤賢と、細川晴元派の細川晴賢がいます)
だが越水城の三好長慶が尼崎で安宅冬康と合流して、中嶋城・柴島城から三好宗三を追い出し、逆に中嶋城を根拠地に河内十七箇所からの遊佐長教と十河一存らとともに榎並城の包囲を完成してしまう。
三好長慶方の大軍に阻まれた三好宗三は榎並城を救援することができずに、伊丹城に撤退するほかなかった。2月下旬の頃までの戦況である。
3月以降は戦力で劣る三好宗三は榎並城を包囲する三好軍本隊には手を出すことができなくなり、伊丹城を根拠として残念ながら摂津下郡での小競り合いに終始することになってしまう。
4月の下旬になり、細川晴元が六角家からの援軍を率いて同じく丹波から摂津の一庫城へ入城してもそれは変わりがなかった。
細川晴元の参陣により勢いを増した三好宗三も伊丹勢とともに細川晴元の動きに呼応して、三好長慶の本城である越水城と三好長慶が在陣する中嶋砦の連絡を遮断するため尼崎を焼き払うなど一応頑張りをみせるのだが、結局は三好長慶方の大軍には遠く及ばない戦力であり榎並城を救援することなどは出来なかったのである。
三好方の大軍に囲まれた榎並城はすでに篭城すること半年を越え、落城することが必死な状況を迎えつつあったのだ。
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「一番手柄は竹内加兵衛よ、見事な先駆けであったぞ」
大将の三淵晴員が真っ先に城に取りついた竹内秀勝を褒め称える。
摂津欠郡の榎並城の包囲とか、摂津下郡の小競り合いとかとは関係なく、摂津上郡に居る我ら幕府軍はのんきに戦勝祝いなどをやっていた。
攻め落とした高槻城で行われている戦勝祝いの宴は大盛りあがりだ。
まあ盛り上がるだろう。だってコイツらは高槻城攻めがプロレスだったことを知らないからな。
大将格である三淵晴員や細川晴広の親父コンビにも当然内緒だ。
調略という名の買収は俺と実行者の米田求政と明智光秀ら少数の者しか知らなかったりする。
竹内秀勝の一番槍の手柄もわざわざ手柄を取らせるために先陣に配置したものだ。
久我家の被官である竹内季治の弟である竹内秀勝に手柄を上げさせ褒美を与えることは竹内家の主人である久我晴通と仲良くするための手口だったりする。
それにこの竹内秀勝は一般的な知名度はまったくないのだが、後年にあの松永久秀の一番家老になり、文官としても武官としても有能なヤツだったりする。
竹内秀勝を優遇しまくって青田買いで先にこちら側に引っ張ってしまおうという考えだ。のちの松永久秀を弱体化させ、久我家とも仲良くなれる良い作戦だとは思わないかね?
竹内秀勝と革嶋一宣は公方様に奏上して奉公衆への取り立てをお願いする予定だ。
革嶋家は源氏の佐竹一門であり、竹内家も源氏の平賀氏の後裔で久我家の被官であり、西岡衆の中でも両家は家格も悪くはないので奉公衆に推挙しやすいためだ。手柄もあげたことで奉公衆とするに不足はないであろう。
我ら幕府軍の戦いはここまではかなり順調であったのだ。
だがそんな我らにまたもや細川晴元からの嫌な依頼が届くことになる。
細川晴元の内衆である香西与四郎元成が上郡方面を攻めるので合流して芥川山城を攻めよという要請であった。
だがその香西元成からの急使が高槻城にやって来るのである――
◆
「若殿、すでに香西殿は敗れ、三宅城に撤退したとのことであります」――マジかいな。無駄足とか勘弁してくれ。
香西元成は下郡から上郡に入り三宅城を攻め落として、さらに芥川山城攻めのために我ら幕府軍と合流するため高槻城へ向かっていた。
だがその道中で三好長慶方の待ち伏せに遭い、我らに救援を請う急使を送って来たのだ。
さすがに見殺しには出来ないので高槻城に半数の兵を押さえとして残し、我らも急ぎ出陣して来たのであるが……間に合わなかったということか。
救援すべき香西元成はすでに敗走しているのだ。こちらもすぐに高槻城へ撤退したいところではあるが、残念ながら物見の報せを受けた米田求政が不幸の言葉を述べてくる。
「香西勢を打ち破った敵兵が我が軍勢に向かっております。いかがいたしますか与一郎様?」
「敵の兵数と率いる将が分かるならまずはそれを教えてくれ」
「失礼いたしました。物見らの報せからすると、敵勢はおよそ3,000余り。敵大将は三好日向守。芥川孫十郎、入江駿河守、安威弥四郎などが参陣しているとのよしにございます」
こちらはおよそ1,300なので敵兵は倍以上ですかい――倍する敵を相手に野戦を挑むとか馬鹿のやることだ。とっとと逃げるとしよう……と言いたいところなのだが、敵の大将は三好日向守か。
三好日向守といえば三好長逸のことであろう。こいつは紛うことなき敵だ。
三好長逸は後年の「三好三人衆」の一人で「足利義輝」を殺害した張本人の一人といってもよいだろう。
(恐らくはこのころは三好弓介長縁の名ですが、三好長逸でいきます)
三好長逸が率いる軍勢はこの上郡の国人達であるな。芥川山城を攻めるつもりであった香西元成に対して、三好長逸がその芥川山城の兵などを率いて先手を打ったということか……三好長逸はやはり食わせ物であるな。
「与一郎様、我らも陣払いをすべきかと」
米田求政が当然のことを言ってくる。敵は倍だからな逃げたとしても恥にはならないかな。だが……
「戦わずに逃げるのかね?」
「お嫌ですかな?」
「いや、できればBGMを聞きながらワイルド撤退をしたい気分だよ」
「ですが撤退はなさらないと?」
残念ながらBGMとかワイルドとかいう単語は米田の兄貴には華麗にスルーされた。米田の兄貴は慣れたもので俺の意味不明な言動にはもはやツッコミを入れてくれない。
「我らがいる富田村周辺は丘になっており、安威川の川原にいる敵兵を迎え撃つには地勢がよい。それに敵勢には芥川孫十郎に入江駿河守がいるが、彼らの戦意はそう高くはないだろう。やりようによっては互角に戦うこともできると思うのだがどう思う?」
「わかとのー、我らの戦意は悪くはありませんよ。何もせずに撤退するにはこの戦意はちともったいないところでありますなー。退くなら一戦交えてからでも遅くはないと思いますぜ」――金森長近はやる気マンマンだ。
「私が日置流でもって鍛えた弓隊は伊達じゃありません」――吉田重勝も戦いたがっている。だが伊達者はまだ生まれても居ないのだ。そのセリフは大分早いと思うよ。(伊達者の語源は伊達政宗という説があります)
「兵部様、我が鉄砲隊の威力を野戦で試すのも悪くはないでありましょう」――明智光秀もやる気マンマンで顔に迷彩ペインティングなぞしている。
「我らは与一郎様の決断に従うまでのこと。撤退でも迎撃でもご随意に」――米田求政も冷静なようでいて興奮しているようだ。撤退したい顔じゃないぞソレ。
駄目だこいつら早くなんとかしないと……脳筋ばかりじゃないか。まあ俺も同類か。
はっきりいって、足利義輝公の仇を前にただ逃げるとか冗談ではないのだよ。
「皆の者、ここで敵を迎え撃つ。一戦し敵を退けたのちに堂々と引き上げるぞ」
おうっ!×たくさん
こうして、後年に「逃げ兵部」と呼ばれることにもなる細川藤孝の野戦におけるデビュー戦「富田の戦い」の火蓋が切って落とされることになるのだ――
◆
【富田の戦い――VS三好長逸(2)へ続く】
この時代の摂津とか地形が複雑過ぎるんだよーん
「攻め兵部」に「逃げ兵部」あとは何にしようかしら




