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第五十三話 勝龍寺城と山崎城(2)

【勝龍寺城と山崎城(1)の続き】

 ◆


 幕府軍が勝龍寺(しょうりゅうじ)城に入城した翌日には、鶏冠井(かいで)城と物集女(もずめ)城を落としたことが恫喝になったようで、さらに西岡衆が兵を率いてやってきた。

 乙訓(おとくに)調子荘(ちょうししょう)を領し近衛家の被官でもある調子(ちょうし)彦三郎武吉(たけよし)と乙訓郡久我荘(こがのしょう)を管理し久我(こが)家の被官でもある竹内(たけのうち)宮内少輔(くないしょうゆう)季治(すえはる)が来てくれたのだ。


 まあ近衛家と久我家の被官とか面倒でしかないのだが、せっかくなので恩を売っておいて近衛家と久我家の印象を良くするのも手かもしれない。


 ほかに和泉細川家の被官となっている志水(しみず)対馬守(つしまのかみ)重久(しげひさ)(清実とも)もすでに味方であるので、これで西岡衆の主だった者のほとんどが幕府軍の元に結集したことになった。


 いまだに西岡衆の中で幕府軍に参集していないものに寺戸城(てらどじょう)主の竹田(たけだ)左京進(さきょうのしん)仲広(なかひろ)などが居たが、すでに竹田仲広は幕府軍の物集女城攻めの際に寺戸城を放棄して逃亡していた。

 これで西岡の平定は名実ともに完了し、いよいよ摂津との国境である大山崎へ進軍することになる。


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【参考 西岡衆一覧】

 革嶋(かわしま)越前守一宣(かずのぶ):革嶋城主、子孫は細川・明智家臣の後に帰農

 築山(つきやま)兵庫介貞俊(さだとし):築山城主、細川家被官、子孫は熊本藩の在京家臣

 神足(こうたり)掃部春広(はるひろ):神足城主、子孫は熊本藩家臣

 能勢(のせ)市正光頼(みつより)今里(いまざと)城主、子孫は足利義昭に仕え二条城討死

 中小路(なかこうじ)五郎右衛門:開田(かいでん)城主、子孫は細川家臣のち藤堂家臣

 志水(しみず)対馬守重久:志水落合(しみずおちあい)城主、子に志水清久、子孫は熊本藩家臣

 調子(ちょうし)彦三郎武吉:調子城主、近衛家被官、子孫は調子村領主

 竹内(たけのうち)宮内少輔季治:久我家被官、のちに堂上家(公家)となる


 鶏冠井(かいで)孫六:鶏冠井城主、三好家被官<滅亡済>

 物集女(もずめ)太郎左衛門尉:物集女城主、子孫は細川藤孝に謀殺<滅亡済>

 竹田(たけだ)左京進仲広:寺戸城主、三好家被官<逃亡>

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 細川頼勝(ほそかわよりかつ)殿や有吉立言(ありよしたつのぶ)の見送りを受けて勝龍寺城を出陣し西国街道を通り西の大山崎(おおやまざき)の町を目指す。

 勝龍寺城から大山崎までは5kmもないので半刻ほどで着いてしまう。

 物見の報告で安全を確認しての出陣であったが、報告のとおりに三好長慶の勢力は大山崎には居なかったため、無事に宝積寺(ほうしゃくじ)に着陣する。


 宝積寺から天王山(てんのうざん)にある山崎城にも兵を出し山崎城の接収も無事に完了することができた。

 山崎城は細川晴元の城であるので、山崎城を接収することは事前に相談済みであったりする。

 細川晴元と三好宗三(みよしそうぞう)との評議では、我らが幕府軍はこの山崎城に陣を張り、援軍としてくる六角定頼のために侵攻路を確保し、可能であれば摂津東部の芥川山(あくたがわやま)城や高槻(たかつき)城などの三好方に圧力をかけることになっていた。

 無事に戦略目標を達成することができたので一安心である。


 城下の大山崎の町は昨年の12月に将軍の名で関役(せきやく)諸役(しょやく)を免除しており懐柔済みではあるので、一応幕府軍には協力的である。

 山崎城を維持するためには地元との関係は大事であるからな。


 大山崎の油座とは伯父の清原業賢(きよはらなりかた)を通して、てんぷら用の油の取引もあり懇意にはしている。

 業賢伯父はのちほど大山崎まで来て、油座やその母体の離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)とも交渉をしてくれることになっているので地元対策は問題ないであろう。


 接収した山崎城は後年には羽柴秀吉(はしばひでよし)が一時期本拠地ともした城ではあるが、当然の如くこの時代では()()()い城である。

 一応数ヶ月はこの山崎城に居座り続ける予定なので、簡単な改修ぐらいはするが、ガチガチに防備を固めるわけではない。

 まあ、万がいち三好長慶が本気出してこの山崎城に攻めてきたら全力で逃げるわな。

 勝てない戦をするつもりはないので無駄に篭城とかするわけではない。


 摂津の芥川山城には三好一族の芥川(あくたがわ)孫十郎長遠(諱は未確定)が在城しているが、幕府軍と西岡衆だけで芥川山城を落とすのは無理があるだろう。

 それに芥川孫十郎は三好長慶を裏切ることもあったはずなので無理に攻めずに調略を仕掛けてもよいかもしれない。

 ここから先は持久戦でよいだろう。


 あとはこの先長丁場になると思われるので兵糧の確保が問題だな。

 現地調達とかやって大山崎の町と喧嘩はしたくないので小荷駄(こにだ)を呼び寄せなければならない。

 ここは補給に失敗して左遷されたアムリッ○アのキャゼ○ヌとかラグナロック作戦のゾンバ○トみたいに責任を取らされることにはなりたくないので万全を期して俺自らが行く必要があるだろう。

 山崎城にて評議を開いて、父の三淵晴員から兵糧を運ぶための小荷駄を呼び寄せる許可を貰った。

 

「小荷駄に護衛が必要でありますのか?」


「補給は戦の(かなめ)であるぞ源三郎、腹が減っては戦ができぬというではないか」


「はあ、ですが西岡の地は平定済みでありますので、何も与一郎様自らが出向かずとも大丈夫ではありませぬか? それがしか五郎八(ごろはち)にでも下知をくださればよいかと」


「それでは()()()()


「は?」


「い、いや。小荷駄の護衛もむろん大事であるが、西岡衆のために知行安堵(ちぎょうあんど)の許可を公方様にいただく必要もあってだな……」


 西岡衆に恩賞を与えて、ガッチりと仲間にしておきたいのだ。


「左様でありましたか、公方様に()()()()があるのでございますな」


 米田の兄貴は空気が読めるんだか読めないんだか……


「そ、そうなのよ、公方様に非常に大事な用があるのだよ。はっはっは。公方様に逢いたいから京に帰りたいとか、決してそういうわけではないのだ源三郎――」


 こうして山崎城の守備に明智光秀の鉄砲隊と吉田重勝の弓隊を残し、()()()()()()()言い訳を作って、愛しい義藤さまの顔を見るために俺は京へと帰るのであった。



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 おまけ突発シリーズ

 謎の作家細川幽童著「どうでもよい源氏の知識」より

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「和泉上守護細川家と有吉立言」


和泉(いずみ)上守護(かみしゅご)細川家)

 半国守護とも称されるが和泉国の半分だけの守護ではない。

 全国唯一なのだが和泉国は守護を二人置く体制であり、和泉上守護家と和泉下守護家が同時に守護に任じられ、その二人の守護が和泉国全域に統治権を持つ守護職であり、ともに堺に政庁を構え和泉国を共同統治していたとされる。


 和泉上守護家は細川頼春(よりはる)の三男である細川頼有(よりあり)を家祖とし、京兆家の当主となった細川頼元(よりもと)の兄の家系になる。

 細川一門として宗家の京兆家を支え、室町二十一屋形(やかた)の一つとして屋形号を称するなど高い家格を誇った。

(屋形号は室町幕府による許可制になり屋形号の許可がないと当主を御屋形様(おやかたさま)とは呼べなかったりする)


 細川藤孝の叔父である細川元常(もとつね)は両細川の乱において、一貫して細川澄元(すみもと)・晴元派に属して戦っており、細川高国に敗れて和泉守護職を失うこともあったが、大物崩れで細川晴元が勝利してからは和泉守護職として復帰した。


 作中の時点では細川元常は弟とされる細川晴貞に和泉守護職を代行させ、細川晴元と在京することが多かったが、三好長慶の叛乱に対しては、細川晴貞(はれさだ)とともに和泉国で三好長慶方に寝返った和泉守護代の松浦守(まつうらまもる)と戦っている。(諸説あります)


 細川藤孝と和泉守護家の関係なのであるが、今までの通説というか熊本藩の公的記録でも細川藤孝はこの和泉上守護細川家を継承していたとされ、江戸時代の「寛永(かんえい)諸家(しょか)系図伝(けいずでん)」の編纂(へんさん)時点では細川元常の父である「細川刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)元有(もとあり)」の養子とされていた。

 だが細川元有は1500年に討死しており、藤孝を元有の養子とするには年代的にも世代的にもかなり無理があった。

 そのため次の「寛政重修(かんせいちょうしゅう)諸家譜(しょかふ)」の編纂においては熊本藩は細川藤孝の養父を「細川元常」に変更したりしている。


 ようするに江戸時代の熊本藩ではすでに細川藤孝の養父が()()()()()()()()()()()()という、かなりいい加減な状態だったりする。

(おおむね細川藤孝からまともに話を聞いていない細川忠興(ヤンデレ)のせいだと思います)


 近年の研究で、細川藤孝を養育したのが淡路細川家の「細川伊豆守(いずのかみ)高久(たかひさ)」と「細川刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)晴広(はるひろ)」であるとの新たな説が出され、細川藤孝は和泉細川家ではなく、淡路細川家の養子であったとされるようになり、細川藤孝は和泉守護細川家とは関係ないんじゃ? という感が強くなってきているのだが、はたしてそうであろうか……


(余談ですが淡路細川家・和泉細川家という二つの細川家と細川藤孝の関係性を考察することもこの小説の主題のひとつであったりします)


有吉立言(ありよしたつのぶ)

 有吉氏の家伝によると、有吉立言の父である佐々木(ささき)立英(たつひで)の代から和泉上守護細川家に仕えている。

 佐々木立英は近江の出身で細川元有が近江へ来た際に武芸でもって召抱えられたという。

 細川元有の死後、立英はその嫡子の細川元常にも仕えたが享禄(きょうろく)4年(1531年)の細川高国と細川晴元の戦いである大物崩(だいもつくず)れ(天王寺の戦い)で討死している。


 佐々木立英が討ち死にした際に子の万助(有吉立言)はまだ幼かったため和泉細川家の所領があった伊予で育ち、成長して14歳になった万助は天文11年(1542年)に、細川元常の元に出仕したとされる。

 細川元常は万助の仕官を喜び、戦死した佐々木立英の武勲を褒め、細川元有の「有」の一字を与え、「有吉」の家名を名乗らせたとされる。


 有吉立言は細川藤孝にも早くから仕え、足利義昭を救い出した細川藤孝に同行しており、六角義賢が三好三人衆に寝返り足利義昭が近江から逃れる際には琵琶湖を渡る舟の手配をするなど活躍している。

 信長の上洛戦や本国寺の戦いにおいても細川藤孝に付き従い多くの手柄を上げ細川藤孝の重臣となっていく。


 有吉立言の嫡子である有吉立行(たつゆき)も細川忠興の傅役(もりやく)となるなど、有吉家は肥後熊本藩の家老三座を代々務めることになり、明治期には男爵ともなるのである。


 ――謎の作者細川幽童著「どうでも良い戦国の知識」より

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【参考 和泉上守護細川家系図】

挿絵(By みてみん)

画像をクリックして、飛んだ先で「画像最大化」を押してさらに拡大すればなんとか見えると思います。(手間かけてすいません)

すいません解説回でっす

画像加工が相変わらずヘタですいません


第五十三話が解説回になってしまったので

次話は事件を回収しつつはっちゃける予定です(爆


次話もヒマを見てはスマホで5千字ほど書いてるので

あとはそれをうまく話しになるように繋げるだけ

まあそれが時間かかるんですけど

週末のうちに上げたいなぁ

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― 新着の感想 ―
[良い点] 小荷駄隊が、に、やんちゃする可能性あるから、それなりのを差配するのは当然
[一言] キャゼ○ヌが左遷されたのはアムリッツァの時ですよ。 そして補給の失敗の原因はフォークとロボスの杜撰過ぎる計画です。
[良い点] 更新ありがとうございます [一言] アスターテはキャゼ○ヌが無能なのではなく、金髪の小僧(変換出来ず)が規格外なのではー それでもキチンと責任が問われる組織は健全だと、黒髪の魔術師は曰い…
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