第四十九話 三好長慶挙兵(1)
天文十七年(1548年)8月-10月
8月末からは農繁期である。
正直戦どころではないし、この時代において農繁期に戦を始めるバカはそう多くはない。
俺も稲刈りに脱穀、二毛作の裏作の準備など所領の農作業に追われていた。
大垣では又代官をお願いした茶屋家とともに千歯抜きなどを運び込み、稲刈りと脱穀の指導を行い、合間には金生山の石灰鉱山の開発も進めている。
茶屋明延は大垣の責任者に弟の中島主膳正と中島源左衛門の二人を送り込む力の入れようであり、その二人と相談しながら大垣での蕎麦屋や鰻屋の営業の準備に、固形石鹸の製造販売の準備なども行っていた。
尾張からは従兄弟の平野長治が大垣に訪ねて来ており、長治とも同じく尾張での蕎麦屋、鰻屋の開店指導に石鹸販売の準備と慌しく打ち合わせを行った。
せっかく大垣に出てきたので平野家を通じて織田信秀・信長父子とも外交交渉を行い、医師の坂浄忠先生を美濃・尾張へ使わすことなども決めていた。
南近江・美濃・尾張が安定しているので商いが広げやすくなっており、斎藤道三や織田信秀とは酒の販売の便宜をはかってもらうための交渉も行っている。
酒の販売自体は角倉吉田家が行うのだが、事前交渉は俺がやらねば話が進まない。
北部山城の所領でも状況は同じでこちらでも農作業に追われることになる。
さらには古着のクリーニングやら石鹸製造に培養法による硝石作りの準備なども行っており、兵の調練などもやらねばならなかった。
また小出石村を商いの中継地にし、若狭の組屋と鼠屋との商いのための交渉もやっている。
珪藻土やオカヒジキに海産物の仕入れ、古着や酒と石鹸にメープルシュガーの販売などのためだ。
砦では兵糧や保存食の備蓄も始めたし、冬に向けてのメープルシロップ採取の準備も行わなければならない。
ぶっちゃけると細川藤孝は破綻していた――
商いだけでも蕎麦屋に鰻屋、メープルシロップの製造、もみじ饅頭の製造販売、固形・液体石鹸の製造販売、古着の仕入れにクリーニング、石灰鉱山の開発に石灰の輸送、オカヒジキの仕入れ、珪藻土の仕入れに乾燥剤の製造販売、七輪の製造販売、薬の仕入れに販売、土倉業(サラ金)などなど。
これに加えて大垣や山城北部の所領の管理に農作業と兵の調練もあり、外交や情報にも気を配らねばならない……
こんなもん一人でできるかボケェェ!
あきらかに商売を広げ過ぎており「馬鹿じゃねーの?」状態である。
いくら「転生者」で知識があろうがこんなに手を広げまくって、全てがうまく廻るわけがねえのだ。
未来の知識があろうが体は一つしかないし、結局のところは雑務に追われ、最も大切なもののケアをすることができなかったのであーる!
農繁期が終り、溜まりまくった業務にようやくメドをつけ(ケリはついていない)、想定どおりの三好長慶の挙兵の報を受け、2ヶ月ぶりに洛中に戻った俺は愕然とするのである。
幕府は細川晴元支援に大きく傾いてしまっており、さらには『細川藤孝』を非難する声が幕府の大勢を占めることにもなり、そしてまったく予想すらしていなかった展開を迎えるハメになるのだ……
◆
少し時はさかのぼる。(キーングクリムゾーン)
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2ヶ月前の今出川御所の一室にて、俺は義藤さまに細川京兆家が崩壊するであろうその理由を熱くるしく語っていた。
「三好長慶が挙兵し京兆家が崩壊するとその方は言うが、にわかには信じがたいことである。しかと説明をしてくれまいか?」
「はっ。三好長慶と三好宗三の長年に渡る対立もあり、細川晴元が三好宗三を庇ったおりには、間違いなく三好長慶は兵を挙げまする。そして、細川晴元と三好長慶が争った場合には、まず間違いなく三好長慶が勝ち、それにより京兆家は崩壊します」
「三好長慶は京兆家の一被官に過ぎぬではないか、わしには京兆家がそう簡単に敗れるとは思えないのだが?」
「義藤さまは京兆家が支配する地をご存知でありますか?」
「それぐらいはむろん知っておる。京兆家は摂津、丹波、讃岐、土佐の守護職であろう」
「そのとおりであります。付け加えるとその京兆家の四カ国に加え。細川一門ではさらに阿波、備中、淡路、和泉の守護職をほぼ独占しておりました。この京の近国である畿内や流通の要である瀬戸内などの守護であり、さらには伊予や河内、山城などにも京兆家の支配は及んでおります。これらが細川家の力の源泉であります」
「京兆家はさらに管領でもあったわけだしな。細川一門が我が幕府における最大の守護大名であることは誰もが認めるものであろう。そのような京兆家が簡単に滅びるなどということは、誰も信じられないものと思うぞ」
「たしかに細川一門は有力守護大名が力を失うなか、強大な力を持ち続けておりました。ですが細川一門もお家騒動(両細川の乱)などにより、最早力を失っているのです」
「そ、そうなのか?」
細川一門はすでにこの時点でボロボロなのである。
三好長慶はトドメを刺したに過ぎない。
「まず細川家の本国と言ってもよい摂津でありますが、摂津の西部は越水城を本拠とする三好長慶が押えております。また池田家など多くの摂津の国衆が細川晴元から離反したため、伊丹家などの少数をのぞき摂津の8割方は三好長慶の御味方となっている有り様です」
摂津国はおよそ35万石で動員兵力は8,000人から1万人強と思われるが、三好宗三の失策である池田家のお家騒動によりそのほとんどが三好方となってしまっている。
「そ、そうなのか?」
「はい。次に丹波でありますが、丹波では守護代の内藤家と事実上の丹波守護とも称された波多野家が実力者でありますが、守護代内藤国貞は細川高国派であり、細川晴元と敵対する細川氏綱を支援しております。細川晴元派の波多野家はこの8月に当主で実力者と言われた波多野秀忠が亡くなっており、残念ながら細川晴元派としての動きは悪くなるものと思われます」
波多野秀忠のあとはちょっと残念だと思われる波多野元秀に代替わりしてしまっている。
丹波はおよそ26万石で動員兵力は6,500人から8,000人程度であるが、波多野家の代替わりにより京兆家の勢力は2,000人程度あれば良いほうである。
「波多野秀忠とな?」
義藤さまは波多野家を微妙に知らなそうだな……
「四国の讃岐においては、讃岐の国衆の本家は京兆家内衆として在京するものが多くありましたが、そのほとんどは今までの細川家のお家騒動で力を失っております。分家に任せていた讃岐本国は(両細川の乱で)高国派、晴元派に分かれて争っておりましたが、晴元派の三好家が高国派を圧倒しております。讃岐は三好家とその一門になった十河家が抑えており、細川晴元が讃岐から兵を集めることは困難でありましょう」
讃岐から渡海してまで細川晴元を支援しようとする者などは皆無と言って良いだろう。
讃岐は12万石強で動員兵力は3,000人から4,000人強だが、その大半は三好方である。
「ほ、ほう……十河家なあ」
こいつ(将軍です)……完全に十河家とか知らなそー。
「土佐などは土佐守護家が高国派として京に出張ってしまってから十数年がたっており、すでに守護として細川京兆家の統治は及ばなくなっております。さらに土佐守護家を出自とする玄蕃頭家の細川国慶の残党などは細川氏綱を支援しております」
土佐では土佐守護代家の細川益氏や小守護代の十市細川家などはかろうじて生き残ってはいるのだが、もはやその勢力は土豪レベルであり畿内の争いなんぞに関与することは最早不可能である。
そのうち長宗我部のエサだな……
「ほう、土佐のう」
さすがに我が主でも土佐がドコかぐらいは知っていると思いたい……
「細川一門で京兆家に次ぐ家格を誇る阿波守護家の治める阿波は、細川晴元の弟の細川持隆が守護として在国しておりますが、恐らくは阿波守護家の家中の大半は三好家に牛耳られており、動くに動けない状態と思われます」
そして数年後に阿波守護家は三好之虎(一般的には三好義賢)に下克上を起こされ傀儡となってしまうんだったかな。
阿波は18万石で動員兵力は4,500人から6,000人であるが、ほぼ全てが三好家のものであろう。
「畿内最大の港町である堺を擁する和泉は和泉守護で私の伯父の細川元常様と細川晴貞殿(叔父)が細川晴元派として健在ではありますが、和泉守護代の松浦守は三好長慶と同調しているという噂もございます」
和泉守護細川家は一貫して澄元派であり、一門として細川晴元を支えてきたのだが、守護代の松浦守は細川元常から離反して三好長慶の挙兵に同調するはずだ。
和泉は14万石で動員兵力は4,000人から5,000人だが、伯父の兵力は2,000もないであろう。
(堺のある和泉や瀬戸内に面した国は経済力で石高以上の動員が可能と思われる)
「そなたの伯父たちは細川晴元に同調しておるのか?」
「ええ、伯父の元常は細川澄元・晴元父子を一貫して支援しており、実は大御所とは敵対する陣営でもありました」
「そ、そうなのか?」
「話を続けます。淡路を治めておりました淡路守護細川家は三好長慶の曽祖父である三好之長によって滅ぼされており、三好家の侵攻により淡路の国衆は三好長慶の弟で安宅家の養子になった安宅冬康などのように、ほとんどが三好家の勢力下にあるといって良い状況です」
細川藤孝は淡路細川家の養子になっているが、細川晴広の淡路細川家は家名だけで、滅びた淡路守護細川家とは全く関係がない。
淡路は6万石程度で2,000人程度の動員兵力だが、その大半は三好家の影響下だ。
「そなたは淡路細川家の嫡男であるが、淡路には所領などはないのだな?」
「はい。淡路に所領があるなどとは聞いたことがありませぬ」
(淡路細川家なんてまだ誰も研究していないので、どこに所領があったのかサパーリ分かりません。まかり間違って淡路に所領があったらごめんなさーい)
「ふむ」
「最後に備中ですが、本来の備中守護細川家は既に絶えており、京兆家の分家である細川野州(房州家)家がその後を継いでおりますが、当主であった細川晴国殿が細川晴元に敗れたのちは、ほぼ滅びたようなものです。細川晴元も備中にはほぼ影響力がありませんので、備中は細川一門の手から既に離れております」
土佐と同じく、備中も最早考える必要はないであろう。
そのうち毛利家のエサだな。
「その方の話を聞いておると京兆家が、細川晴元が治めている国が無いように聞こえてくるのだが?」
「はい。細川京兆家がまともに支配できている領国なんて既にもうないのであります」
「え、そう……なのか?」
「はい。細川晴元の影響力が残っているのは摂津・丹波・山城の一部と河内十七箇所程度であり、まともに治めておる領国など最早ありませぬ。本国と言ってよい摂津を池田騒動で失ったことにより、その兵力は最大でも1万人にいけば良い方で、おそらくは無理でありましょう」
「では三好長慶はどうなのじゃ?」
「三好長慶は摂津の大半に加え、阿波・讃岐・淡路の四国衆からの援軍だけでも15,000人程度の兵力を擁しておりましょう」
「三好家の方が兵が上ではないか」
「それだけではありませぬ。三好長慶は主家である細川晴元と争うことになれば、晴元に敵対する細川氏綱を擁する畠山尾州家や丹波守護代内藤家、和泉守護代松浦家とも結び、その勢力も加えると兵は25,000人以上に達するものと思われます」
「は? 25,000だと……」
三好長慶率いる25,000人と細川晴元率いる10,000人で、三好長慶が負けるわけがないのである。
俺は理路整然と三好長慶が勝利するであろう理由を述べ、義藤さまを説得した。
間違いなく負けるであろう細川晴元を幕府が擁護することのないよう、幕府が三好長慶を支援する立場を取るよう義藤さまにお願いしたのだ。
「細川晴元ではなく三好長慶と結ぶように大御所と話をすればよいのだな」
「はい。室町幕府の将軍というものは勝ち馬に乗ればよいのです。このたびの細川晴元と三好長慶との争いで、京兆家の専制体制から幕府は解放され、三好長慶には大義名分を与えて恩を売ることができます。大御所はもともと細川晴元のことはそれほど信頼していないと思われますので、こちらの各地から集めた報せと、晴元方と長慶方の予想される兵数を記した書状などをみせていただければ、大御所や幕府の重臣の説得は容易いことでしょう」
「うむ」
「細川晴元は間違いなく負けるであろうことを、なにとぞ大御所様にお伝え願います」
「分かった。任せるがよい」
チョロイ、チョロ過ぎるぜい。
三好長慶と連携すれば室町幕府の再興なんざ簡単ではないかー、はっはっはー。
史実とは違って将軍である足利義藤が細川晴元との手切れを勧めてくれれば、元々信頼関係もなく1年前には手を切った相手でもあり、間違いなく負ける細川晴元を支援するような馬鹿なことなどはしないであろう。
そんな楽観的な気分で洛中に義藤さまを残して商いと領地経営の雑務にあたる為、俺は各地を飛び回ってしまったのである。
そう、俺はあまりにも簡単に考えすぎていたのであった――
体調を崩しておりまして更新が遅くなりました
申しわけないです




