第七話 米田求政(1)
天文十五年(1546年)10月
蕎麦屋で儲かったというか自由に使えるお金ができたので、少しこの先のことを考えようと思った。
それで、気がついた。
将来のことも大事だが、その前に怪我とか病気とか凄く怖いのではないかと。
病気になったらドコに行けばいい? 医者や病院はドコだ?
ここは自己責任かつ自己解決しなければならない、デンジャラスでエキサイティングな戦国時代なのだ。
信頼できる病院などあるのか?
国民皆保険制度の整った現代の日本は――遥か彼方の未来の話だ。
戦国時代に病院などはない……だが、一応医者はいる。
この時代の医者といえば、有名なのは曲直瀬道三に田代三喜、永田徳本などであろう。名医の名前ぐらいは知っていたが、さすがに今ドコに居るかまでは分からない。
名医は居なくとも信頼できる薬さえあればなんとかなるかもしれない。
徳川家康が自分で薬を調合していた話しなどは有名だ。
(家康は毒殺を恐れていたともされる)
武家や公家の教養に医学、薬学があった時代だ。
公卿の山科言継も医薬に造詣が深かったとされる。
山科言継が書き残した一級の史料である「言継卿記」には、医薬の知識を持つ幕臣なども登場していたりする。
この時代の薬で手に入るものといえば、現代社会でも流通している「漢方薬」であろう。
西洋医学などは「ザビエル」すらまだ来日していないので望むべくもない。
(フランシスコ・ザビエルの来日は1549年)
少し体調が悪くて熱が出るかも――という時に君は何を飲む?
俺は葛根湯をよく飲んでいた。
葛根湯は風邪の引き始めには最強じゃね?
とも思っている。(あくまで個人の感想です)
戦国時代で健康オタクになるために、まずは葛根湯などの信頼できる漢方薬を探すことから始めたのであった。
「葛根湯? 薬? ああ薬なら知り合いに医家がいるから聞いてみるがよい」
デカイ神社の吉田家なら薬も手に入るかな? と思って、とりあえず俺を奴隷のようにこき使ってくれている、優しい従兄弟の吉田兼見くんに葛根湯があるか聞いてみたのだ。
「知り合いに医者がいるなら助かる。どこかで会えたりできないだろうか?」
「どこというか、さっきからそこで天ぷらを食っているぞ」
「は? 客に居るんかーい!」
「ほら、あそこで天ぷらを食べているのが坂浄忠先生だ。代々の医師の家の生まれで御典医として朝廷に仕え、盛方院の号と法印の位を持つ名医だぞ」
「良かったら紹介してくれないか?」
「ああ、いいぞ。先生とうち(吉田家)とは家族ぐるみの付き合いだからな。というか浄忠先生は俺の妹の婚約者だ。浄忠先生ー! 少し良いですかー?」
兼見くんが気軽に坂浄忠先生に声をかけている。欲しいと思った時に欲しい人材に会える――相変わらずこいつら(公家で従兄弟です)のコネがハンパねえ。
坂浄忠先生に兼見くんが親しげに話しをしている。そして手招きをされた。
蕎麦屋を手伝っていたのだが、あとは店長の南豊軒叔父さんに任せて挨拶にいくことにした。(藤孝は蕎麦打ちから逃げだした)
「細川与一郎藤孝と申します。兼見殿の従兄弟になります。以後お見知りおきの上よろしくお願いいたします」
「これはこれは丁寧にどうも。拙僧は盛方院の坂浄忠と申します。見てのとおり医家をやっておる。細川殿はこの黒うどんと天ぷらを考案されたとか、凄く美味くて驚いておりますわい。いやあ噂を聞いて食べに来た甲斐がありましたわ。腕の良い料理人にお会いできて光栄ですわい」
坂浄忠先生は、この時代の医者の多くが僧侶であるのと同様に法体である。
決して、頭が眩しいとか、口が裂けても言ってはならないぞ。
「いえ、私は武家であります。今は公方様(足利義晴)のご嫡男である義藤様にお仕えしております」
「それはそれは。して、何か拙僧に聞きたいことがあるとか?」
「はい、実は薬について興味がありまして、坂先生は葛根湯などの薬が記載されている医学書などをご存知ないでしょうか?」
「葛根湯の記載している医学書であるか? 我が父の坂浄運は明国に留学して張仲景の医学を学んでおりましてな。その折に傷寒論や金匱要略などを持ち帰って来ておる。葛根湯などはたしかそれに詳しく記載されておりましたな」
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「傷寒論と金匱要略」
中国の後漢末期、三国志時代の人「張仲景」が記した「傷寒雑病論」から前半部分の傷寒論と後半部分の金匱要略に分かれて成立した医学書になる。
江戸時代の医学の一派である古法派により再注目されることになり、江戸時代から現代漢方薬にまで繋がる基礎となったすげー書物なのだ。
成立年代は、なんと西暦210年代となり、まさに三国志の時代なのが驚きである。
――謎の作家細川幽童著「なんとなく医学を知ろう♪」より
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「なんとご存知でありましたか。その傷寒論には他にも良い薬が記載されておりませんでしたか? 是非とも後学のためにご教授願いたいのです」
「それなら清原家の喜賢殿が相国寺を還俗して、今は私の元で医学を学んでおります。傷寒論や金匱要略もたしか書き写していたかと思ったな。喜賢のもとへ参ればすぐにでも見られるのではないですかな。私も喜賢にこれから会いに行くところじゃったので、一緒にまいりましょうか」
なんとも渡りに舟である。身近な所に医学書を持つ者が居たのだった。
◆
坂浄忠先生と一緒に、俺と同じく洛中から避難して吉田家に居候している叔父の清原喜賢の部屋へ向かった。
「おお、師匠に与一郎じゃないか、いかがされましたかな?」
「ちょいとちょいとな、評判の黒うどんを食しに来てのう。そこで与一郎殿に傷寒論と金匱要略を教えることを請われてな、すまんが出してあげてくれんか?」
浄忠先生が喜賢叔父さんに頼んでくれて、医学書を見せて貰えることになった。
「与一郎、これが傷寒論と金匱要略になるぞ」
「おお、ありがたいです。こんなにもすぐに読めるなんて感謝しかありません」
さっそく目を通してみる。概念的な部分は俺には分からないので、そういう箇所は読み飛ばしていくのだが、それでも知ってる漢方薬がかなり載っていた――これは使えるぞ!
「ところで与一郎、傷寒論なぞに興味を持つなんて、医薬の道にでも進む気になったのか?」
喜賢叔父が医学書に興奮する俺を不思議に思ったのか、聞いてくる。
「医薬の道は叔父さんにおまかせします。若様にお仕えすることになりましたので。ですが、教養として医学、薬学を身に着けることは悪くないかと思っております」
「そういえば、与一郎は昔から色々なことに興味を持っては熱中していたからなぁ」
「そうなんですか?」
「なんだ自分のことなのに覚えてないのか、ああ、そう言えば昔のことを思い出せないのであったな、すまぬ」
「なんとなんと、与一郎殿は物忘れにかかったのかね?」
「はい。どうにも昔のことが思い出せません。ですが知識までは失っておりませんので大丈夫です。それにどこで学んだのかは覚えていないのですが、医学の知識でおもしろいものを知っております。少しお見せしましょう」
(むろん現代での医学の知識だけど、それは内緒だ)
井戸から水を汲んできて、その水を沸騰させてから冷まして塩を混ぜていく。ちょうど良い塩分濃度になるように調節して――できたかな?
そしてその塩水を目にたらすのである――やべえ染みる、目が痛いわ。
もう少し薄めてからまた試す――今度は目に染みない、これならOKだ。
「浄忠先生に喜賢叔父さん。これは塩水でありますが、少し目にたらしてみませんか?」
「そんなことをすれば目に染みて痛いではないか勘弁してくれよ」
喜賢叔父さんが嫌がる。もちろん浄忠先生もだ。
「それが大丈夫なんですよ。ほら」
薄めた塩水を目にたらしてみせる。
「……これが不思議なことに目に染みないのです」
「塩水とかいってただの水なのではないのか?」――と叔父さんが塩水をなめた。
「薄いけど一応しょっぱいな。でも目にたらしたら痛いだろうに」
「大丈夫ですよ。ちょっとやってみてください」
嫌がる叔父さんの目に無理やりその水をたらすが、叔父さんは「イタクナーイ」とびっくりした。
それを見た浄忠先生も試してくれる。やはり「イタクナーイ」と驚いた。
「で、与一郎この塩水はいったいなんなのだ? 医学の知識と言っていたが……」
「これは完全に煮沸させてから冷ました水に天然の塩をまぜて作ったものになります。生理食塩水といって、実は人の体液とほぼ同等のものになるのです」
「人の? 人の体液であると?」――坂浄忠先生が驚いている。
「ひとの大部分、人体の半分ぐらいは実は水分なのですが、その人の水分と今作った生理食塩水の成分は同じような物なのです。それで目にたらしても痛くなかったりします」
「ふむふむ。それでこの塩水は何かに使えるのかね?」
浄忠先生が生理食塩水に興味を持ってくれたようだ。
「まずは脱水時の水分補給、怪我の周囲の洗浄、焼けどの部位の洗浄、目の洗浄、そして……鼻の中の洗浄です」
「鼻の中の洗浄だと?」――二人はそろって驚きの声をあげるのであった。
◆
【米田求政(2)につづく】




