父親は乗り越えねばならないものだからな
「行くぞ、朝霞」
と朝、廣也が玄関先で言う。
「ええっ?
おにいちゃん、もう行くの?」
絶対遅刻したくない朝霞は早めに出るが、廣也の学校の方が駅から近いし、
「歩幅が違う」
とか言って、いつも廣也はギリギリまで家でダラダラしているのだが。
「うるせー。
いいから、早く来い」
と廣也が言うので、仕方なく、後をついて出た。
だが、兄の背を見て歩いているうちに、なんとなく懐かしくなってきた。
「おにいちゃん」
「なんだ」
「登校班みたいだね」
「じゃあ、一太も拾ってくか」
「……嫌がられると思う」
と言ったが、何故か佐野村が門の前にいた。
「おはよう、佐野村。
今さ、おにいちゃんと言ってたんだよ。
登校班思い出すねって」
そう言い、朝霞は当時とは比べものにならないくらい大きくなった佐野村を見上げて笑う。
だが、佐野村は、
「俺は思い出さない。
何故なら、この班長と妹は俺を迎えに来てはいないからだ」
と言い出した。
「いっつも、班長が遅いから、俺たちが迎えに行ってたんですよね~、班長っ」
といきなり、古い話で嫌味をかまされた廣也は、あ~、わかったわかった、と耳をふさいでいた。
電車に乗った廣也は混雑した車内を見回し、
「これだけ混んでれば、どこに誰がいるかわからないな」
と何故か安心したように言い出す。
「いや……混んでる分、一度近くで密着したら、離れないですからね」
と言う佐野村と二人、よくわからない話を始めるが。
まあ、二人がいてくれて助かったな、と朝霞は思っていた。
確かに、満員電車の密着度はすごい。
見知らぬおじさんとか、よその学校の男子生徒とか。
あまり近いと緊張するのだが、今日はドア近くで二人に囲まれているので、安心だ。
だが、そう思った瞬間、電車が揺れ、誰か探しているのか、顔を背けて、よそを見ていた佐野村の上体が傾いで、朝霞にぶつかった。
いてて……と言うと、
「あっ、すまんっ」
と佐野村は言ったが。
「いや、いいよ。
佐野村だし。
ありがとう。今日は二人がいてくれるから、なんだか満員電車が楽」
と笑うと、佐野村は黙った。
また、よそを見て、
「……おう」
と言う。
一方、兄は、
「そうだろう? おにいさまがいると、助かるだろう?」
とかなり恩着せがましい。
……感謝の念も薄らぐな、と思っているうちに駅に着き、人波に運ばれるようにして、改札口へと向かった。
駅を出て廣也が笑う。
「なにも心配することなかったな」
と。
「なんの心配?」
「これだけ混んでれば、そうそう出会わな……」
と振り返った廣也は、
「何故、そこにいる、十文字っ」
と真後ろを見て叫ぶ。
「同じ道だから」
と十文字は、そこに道があるから、という風に言ってきた。
「何故、朝霞のあとをつけているっ」
「同じ学校だから。
そして、やはり、お前の妹だったのか、鬼龍院」
変わった名前だから、そうじゃないかと思っていた、と言う十文字に、廣也は、
「そうじゃないかな、と思いながらも確かめないのがお前だな……」
と呟いていた。
っていうか、私がおにいちゃんの妹って、学校でも噂になってますよね? 女子の間では、と朝霞は思ったが。
まあ、この人、噂話などに興味はなさそうだな、と思う。
特に女子の噂話に関しては。
「それから、俺はかなりの確率で、お前の妹の後ろにいるが。
この女、決して後ろを振り向かないぞ」
「……なにか崇高な感じに聞こえるが、違うな」
と廣也が呟いていた。
なんだかんだで、もともとは仲がよかったらしい廣也と十文字は、道が分かれる場所まで、話しながら歩いていた。
「ところで、お前、なんで、学校に内緒で、バイトなんてしてんだ?
金に困ってるわけじゃないだろう」
「……今、困ってるわけじゃないが。
これから困る予定だから」
困る予定ってなんだ?
と思い、朝霞が見ると、
「家を出ようかと思って」
と十文字は言う。
「なにか壮大なわけでも?」
と朝霞が訊くと、十文字は、
「……壮大なわけなどあるか。
ただ、親とソリが合わないだけだ。
ワンマン社長なうちの親は、もちろん家でもワンマンなんで。
年々、親の言動にイライラしてきて。
だが、毎度ぶつかるのもおとなげないし。
いっそ、家を出ようかと思って、今、金を貯めてるんだ」
と語り出す。
「あ~、俺もよく父親とケンカになりますよ。
父親と俺が似てるからだって、お袋は言うけど」
と言う佐野村に、廣也が、
「まあ、ある程度の年齢になると、ぶつかるよな。
うちは、父親がおっとりなんで、あんまり揉めることはないけど」
と言うと、
いや……と十文字がなにか言おうとした。
しかし、二人の話は勝手に進んでいく。
「まあ、息子ってのは、父親を乗り越えようとするものだからな。
その年の男だったら、普通の反応なんじゃないか?」
いや……とまた、十文字がなにか言いかけたのだが、そこへ今度は朝霞が被せるように言ってしまった。
「そういえば、ゲームや漫画でも、真の敵の正体は、大抵、父親ですもんね」
「人の話を聞け、この莫迦兄妹。
――と、もうひとり」
「……俺の扱い悪いな」
と佐野村が呟く。
「朝霞風に言うと、俺のその真の敵とやらは母親だ。
っていうか、お前のゲームや漫画と一緒にするな、朝霞」
と十文字に言われた。
このボケが、という感じで言われたのに、朝霞は、うかつにも、どきりとしてしまっていた。
いきなり、二回も朝霞と呼び捨てにされたからだ。
「あっ、お前、いつの間に、うちの妹を名前で呼び捨ててんだっ」
と廣也が文句を言う。
「いや、鬼龍院って呼んだら、お前とどっちだかわかんないだろ」
「じゃあ、妹さんとか、朝霞さんとか、朝霞ちゃんとか呼べよっ」
意外に素直な十文字は、朝霞を見つめ、
「じゃあ、朝霞ちゃん」
と呼んできた。
何故、ちゃんを選んだのかと言うと、単に最後に、廣也が言ったのが、『朝霞ちゃん』だったからだろうが。
「……やめてください」
と青ざめて朝霞は言っていた。
「なんだかわからないが、鳥肌が立ったな」
と廣也も言う。
十文字も子どもの頃は、友だちのことをなになにちゃん、と呼んでいたのだろうが。
今、そのクールで無愛想なイケメン顔で言われると、なんだか寒い。
「……わかった、朝霞でいいぞ」
なんだかわからんが、すごい破壊力だ、と廣也は呟いていた。
「っていうか、お母様だったんですね、ワンマン社長って」
と朝霞は苦笑いして言う。
「壮大なスペースオペラの果てに出会った黒幕は、実の母だった」
と呟く廣也に、
「いい加減、その設定から離れろ。
だが、そんな感じだ」
と十文字は言う。
どんなお母様なんだか。
かえって気になるな、と朝霞は思っていた。
「でも、先輩」
余計なことかと思いながらも、朝霞は言った。
「人生でわずかな時間ですよ、親と暮らせるのは」
家族とも、と朝霞は兄を見る。
「だから私は我慢します。
いきなり兄が夜中に部屋に入ってきて、私の大事なゲームや漫画を奪っていっても」
「待て」
と廣也が割って入る。
「我慢してるのは俺だぞ。
それに、お前が小さいころ、漫画雑誌の発売日に自転車で早売りのクリーニング店まで乗せていってたのは誰だ」
おにいさまでございます、と朝霞が廣也を拝んだところで分かれ道に来た。
「いい兄貴だな」
と一緒に廣也を振り返りながら、十文字が言う。
「ありがとうございます。
意外とそうなのかもしれません。
でも、先輩の気持ちもわかりますけど。
親に頼らず一人暮らしって、やっぱり大変だと思いますよ」
まあ、余計なお世話だろうが。
いつも忙しく家事をこなしている母親を思うと、学校へ行きながら、バイトもしつつ、あのようにするのは大変だろうなと思ってしまう。
「……わかってる」
と少し考える風な口調で言った十文字に、朝霞は空気を変えようと、笑って言った。
「そうだ。
先輩が一人暮らししたら、差し入れにいってあげますよ。
あ、でも、レトルトとかは、火や水がないと作れないですよね」
「待て。
お前の頭の中で、俺はどんなところに住んでいる?
そして、差し入れって、手作りじゃないのか?」
いや、別にお金がないので、山の斜面に穴を掘って住んでいるとかではなかったのだが。
電気代や水道代が払えなくて、止められてそうだな、と思ったからだ。
だが、そのとき、ちょうど階段が見えたので、朝霞はそのまま佐野村とともに、行こうとした。
「あ、先輩。
我々、三階なんで、じゃ」
「お前、ほんっとうにマイペースだなっ。
鬼龍院とそっくりだっ」
と後ろで十文字が文句を言っていた。
朝霞が階段を上がっていると、佐野村が言ってくる。
「お前、一人暮らしの男のところに、差し入れに行くとか簡単に言うなよ」
「なんで?」
と振り向き問うと、
「いや、なんででも――」
と佐野村は言葉をにごす。
そう、と言った朝霞は、
「わかった。
じゃあ、おにいちゃんと行くよ」
と言って、
「……いや、それはそれで嫌がられそうだけどな」
と呟く佐野村と、教室の手前で別れた。