ブリザードのような冷たさだ……
月曜の朝、朝霞が廊下を歩いていると、みんなが振り返り、そのうちの数人が挨拶してくる。
「おはようございます、朝霞様」
と恥ずかしそうに、同じ学年の女の子も言ってきた。
「おはよう」
と朝霞が微笑み返すと、きゃー、と言って、友だちと赤くなって走り去ってしまった。
……何度も言うようだが、私はこのようなポジションにあるべき人間ではない。
兄は慣れているようだが、私は違う。
だが、ほんとうに、人の期待を込めたキラキラした眼差しを裏切るのは苦手だ。
朝霞さんは、漫画やゲームなんて見ませんよね~とか言われると、人の期待を裏切るのも悪いかと思って、なにも言えなくなってしまうし。
そうだ。
そもそも、小学校のときだって、学校上がってすぐに、
「朝霞ちゃんって、勉強できそう」
と何気なく言われて。
それで、期待を裏切るのも悪いかと思って、勉強して、常にそこそこの成績を保っていたんだった。
うう、人の期待でがんじがらめになっているっ!
と朝霞は苦悩していた。
今回だって、ただ、ヤマが当たって、新入生代表になったってだけで、悪目立ちしちゃってこんなことにっ。
「私、ただ成績がよかっただけなのにっ!」
と小声で苦悩していると、後ろから、
「どつくよ、あさかー」
と声がした。
振り向くと、仁美が立っていた。
笑顔で、
「中間テストも近づいてきたこの時期に、なにぶん殴りたいようなことで苦悩してんの」
と脅される。
……すみません。
「別に悩むことないじゃない」
と横を歩きながら、仁美は言う。
「もう二ヶ月になるのに、まだバレないなんて。
きっと、そのままのあんたで、みんなの思う朝霞姫の像とそんなに離れてないってことなのよ」
いや、そんなはずはないのだが。
慰めてくれる仁美に感謝していると、彼女は言ってきた。
「だいたい、あんた、昔から姫って言われてたじゃん」
「えっ?」
「オタク姫って」
……姫と呼ばれていたのは、トロくて、なにもできないからではなかったのですか。
なんか違う、と朝霞は顔を覆った。
なんか違う。
みんなの期待と、と思って。
「小学校のとき、あんた日記で熱く語ってたじゃん。
見たいアニメが海を越えた隣の県でしかやってないとかで。
海沿いまでお父さんに車で乗せてってもらって、車のテレビでむりやり電波拾って見たって。
あれで、オタク姫と陰で囁かれてたんだよね」
……消えてなくなりたい、と朝霞は更に撃沈した。
そして、何故、日記で熱く語っていたことをみんなが知っているかと言うと、先生が、帰りの会のときに、みんなの前で、読み上げたからだ。
仁美が笑い、
「先生が、この情熱はすごいって感心してたねー」
と気持ちよく忘れていた古傷をえぐってくる。
「……殺そう。
この友を。
今なら許される気がしてきた」
ひっ、と仁美は息を呑み、
「誰も許さないよっ。
っていうか、あんた、今の姫の幻影を振り払いたいんでしょうが。
あのときみたいに、熱くゲームや漫画について語ってみたら?
大丈夫。
みんなドン引くよっ」
と言ってくる。
慰めてくれているのだろうが、友よ。
私は普通になりたいので、ドン引かれたいわけではない。
「なんとか中間地点で収まらないものだろうか」
と呟くと、
「いや、無理じゃない?
なにそれ、県境の海まで走るとか。
私でもやらないし」
と声がした。
「マキちゃん」
と振り向いた朝霞は言った。
昨日、ゲームソフト店で出会った女生徒、坂上マキが立っていた。
「なに、この女。
何処から湧いて出て来たの?」
敵の匂いがするわ……とマキを見て、仁美が呟く。
すごい嗅覚だ。
お互い知らないはずなのだが、実は、二人は、佐野村をめぐっての恋のライバルなのだ。
いや、佐野村の何処が、そんなにいいのかわからないのだが……。
たぶん、近すぎて。
佐野村から見ても、私のことなど、なんにもよくは見えてないんだろうな、と思ったとき、マキが朝霞に言ってきた。
「まあ、私には関係ないわよ。
あんたが姫扱いされようと、佐野村があんたを好きだろうと」
えっ? と仁美がマキを見る。
「いや、佐野村関係な――」
と朝霞が言い終わる前に、マキが言う。
「佐野村はあんたが好きなんじゃない?
見てればわかるわよ。
でも、関係ないわ。
あんたが佐野村を振ってくれればいいのよ。
私がそこにつけ込むから」
「なに言ってんのよ。
そこにつけ込むのは私よっ」
と本音をボロボロもらしながら、二人が揉め始める。
「朝霞が、十文字先輩と付き合えばいいだけよ。
先輩相手なら、佐野村も諦めるわよ」
とマキが言う。
いや、あなた、昨日、いくらイケメンでも、あの人はない、と王子を貶めてましたよね……?
と朝霞が思っている間に、マキは、
「そうだっ。
私が十文字先輩と付き合えるよう、言ってあげるよっ」
と言いざま、ちょうど階段の辺りに現れた十文字の許に走っていってしまう。
「せんぱーいっ。
携帯の番号とアドレスとチャットアプリのID教えてくださいーっ」
ひーっ。
なんで人のときにはあんなに積極的っ、と朝霞は固まる。
は? と言った十文字にマキは、
「朝霞が知りたいそうなんで」
とズバッと笑顔で言っていた。
ひいいいいいいっ。
朝霞姫はやっぱり王子か、と周囲の声が聞こえてくる。
ちょうど教室から出て来た佐野村も聞いていたようだ。
「別に教えてやる必要はない」
と冷ややかに十文字が言うのが聞こえてきた。
低くてよく通るイケメン声なので、小さくても此処まで声が届くのだ。
ブリザードのような冷たさだ……と朝霞は凍える。
マキが、えーっ? と不満の声を上げたあとで、なにか言おうとしたが、
「知ってる」
と十文字はマキにではなく、遠くにいるこちらをまっすぐ見つめて言ってきた。
「俺の番号は鬼龍院が知ってる。
訊け」
みんなは小首をかしげていたが、朝霞にはわかった。
兄が知っていると言いたいのだろう。
いや……あの兄に、先輩の番号を教えてくれとか言おうものなら、なにを言われることやら、と朝霞が怯えている間に、十文字はさっさと階段を上がって行ってしまった。
朝霞も遅れて階段を上がり、自分の教室に行く前に、チラと二年のフロアを覗いてみたが、もう廊下に十文字の姿はなかった。