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『悲しいこと』-ジャーナリング-

作者: 文月優

こんばんは!やっと涼しくなってきましたね。私の住んでいる田舎では鈴虫のリンリンという可愛らしい鳴き声が聞こえてきます。コオロギの鳴き声?も聞こえてきて、秋が来たなぁと嬉しく思っています。やっと涼しくなりますね。冬は苦手ですけれど、私は秋が大好きです。皆さんはどの季節が好きですか?興味が尽きません笑。


※画面右上のトラックバックの下、表示調整から行間を広くすることができるようです。お手数お掛けして申し訳ないのですが、見にくい場合はお試しください。

 悲しいこと、それは何だろう。人が死ぬのはもちろん悲しい。人が傷つくことも同じだ。では人が喜ぶことはどうなのか。これは喜びの方向性による。人が喜ばしいことを見たり感じたりして喜ぶことは心地良い。しかし人が傷ついたり、傷つけられたり、殺されたりしているのを見て喜ぶことを見ることは悲しい。それは何故なのか。人は本来幸せに生きることが保障されるべきではあるが、倫理的に許容できない喜びを喜びとして認めることはできない。なぜならそれを認めてしまうと他人を傷つける社会を一部のそれで喜びを感じる人のために認めてしまうことになり、残虐行為ですら誰かの娯楽のために認めてしまうことになるからだ。そもそもの話、人は他人から傷つけられることを当然と考えてよいのか。生物学上争わない生物は存在しないと考えられるが、人間は知性をもつぶん残虐性が発揮された時の残虐度は生物においてとても高いと考えられる。そして人間の欲求は一度で満たされるものではなく、機会を得るごとに要求は高くなっていく。このことから残虐行為のレベルもエスカレートしていくことが考えられる。残虐行為は他人を害すことが前提に考えられるので、これが社会で常態化すると社会的弱者が上位者から残虐行為の対象とされたり、また社会的に不遇なものが生け贄のように扱われたりする地獄絵図が完成する。このような社会ではいくら人が喜びを感じているといえども、それは狂気に浸食された喜びというべきものであり、これはその社会にすむ人々の倫理的平和を育むものではなく、失敗した社会というべきものである。この社会では弱者に人権はなく、またその弱者は人として扱われることはない。このような極端な社会は悲しいものだが、ここまで極端ではなくても悲しい社会は存在する。多数が正しいとされ少数が間違っているという社会はどうだろうか。その社会が機能するには少数の犠牲が必要不可欠で、この少数の犠牲が許容できない場合、社会体制すら維持することができない、という社会だ。社会的強者と社会的弱者の壁はほぼ一方通行で、社会的強者が弱者に落ちることはあっても、弱者から強者へとあがることができない社会。この場合は社会的弱者は生活していくうえで常に脅威を感じている。そして死も身近にいる。政府はこの社会的弱者を必要な犠牲と見なしているので、見て見ぬふりをする。自国民ではあるが、その人達の意見は無視され、集会を開こうものなら、政府は容赦なく弾圧する。社会的強者は弱者を搾取し、弱者を生きるぎりぎりの水準の給料で働かせ、自分たちは富を独占する。この状態を変えることは自分たちの権力の減少に繋がるので、政府に働きかけてこの動きを状態化させるよう迫る。このような社会は社会的強者にとっては喜ばしいものかもしれないが、社会的弱者にとっては悲しいものだ。では他に悲しいことはあるか。それは弱い立場にある人が無視されたり、本人の実力不足だとされたり、羽虫のように扱われる社会だ。この資本主義社会は相対的なもので、椅子は定数ではなく、給料も変動し、物価も変動する。全てが変動する社会でたまたま運が良かった者が運の悪かった者を罵倒するのは理に叶っているといえるのだろうか。もちろん努力もあるだろうが、運の要素も強いと私は考える。理論上、椅子の数は限られており、優秀だからといってその椅子以上の数が獲られるわけでもない。また年齢が上がることによって用意されている椅子の数も、良い待遇も減っていくことは中高年の嘆きを見ていたら用意に想像がつく。つまり若い時にはそれほど意識しなかったことが、中高年、定年以上になったらシビアに現実に現れてくるのだ。これは高齢者の貧困問題として社会問題化しているが、私はこれを当人の責任だとして一方的に決めつけることは国益を損なうことに繋がると考えている。本来機能するはずの生活保護も水際作戦や住居不定の者は受けられない、などの落とし穴により本来受けるべき多くの人が受けられないでいる。本来生活保護は憐れみの心から始まったものではない。これは社会で浮浪者や極貧のものが増えると国家転覆を謀る者が現れたり、伝染病が蔓延したり、治安が不安定になったりと諸々の問題が発生するので、これを防ぐためという合理的な理由が有る。だから憲法にも記載されているし、これは本来国民なら受け取ることができる正当な権利なのである。確かに税金から支出されるが、支出されない場合の現実的、文化的損害に比べれば些細な問題である。これを問題にするのであれば法人税、配当にかかる税金が不当と言えるほどに安いのにも説明があって然るべきではないのか。また不正受給の問題もそうだ。世間やマスコミがこれを騒ぎ立てた2009年。この時の全体における不正受給者は10%未満であり、これを騒ぎ立てることによって大勢の生活困窮者にいらぬ疑惑がかかり、生活保護の水際作戦という非合理的な行動にお墨付きを与えてしまった。この数字が膨大だからといって簡単に切り詰めようとする。そうすると何がおこるか。そう、死人がでることになる。そして貧困世帯においては健常者は少ない。ゆっくりと療養が必要なものに無理に社会にでるように促したりする、または生活に必要なお金をごっそり減らしたりすると生活できないだけでなく、更なる精神的苦痛を与えることになり、子供がいる場合は鬱屈した感情が子供に向かうことになる、とは考えられないだろうか。子供に向かった場合、ただでさえ子供の精神状態はぎりぎりと考えられるのに、更に悪化する。すると健全に育った子供と比べて社会に上手く適合できる確率も下がっていき、貧困から抜け出すことがより一層難しくなる。必要な物も切り詰めて生活して、ご飯も満足に食べられず、教科書すら満足に買えない。それどころか同世代の子供と遊ぶために必要なゲームはもちろん、クラブ・サークルに必要な物を買うためのお金、さらには給食費まで払えない。この苦痛を受けている子供に今度は家庭の居場所すら奪うとは狂気の沙汰と言えないだろうか。ここは合理的理由から批判をぐっとこらえて、合理的に考えられた更なる支援と暖かい見守りが必要なのではないか、と私は考える。負担が重い、と我々が考えるのは本来取るべき所からしっかりと税金を取っていないからで、消費税やその他間接税、そして所得税など我々に直接影響を与える税金ばかりが増税されるからではないのか。また国民健康保険料も高いらしいが、法人や課税逃れをしている人、配当で莫大な利益をあげている人、海外に所得を移転している人、資産家の遺産、不当な生業から不当な利益を得ている人に適正な税金をかけるだけでも今の状況は幾分改善されると考える。逆にこれをせず間接税だけに頼り切っていると、国民の不満の声が高まるのは当然で有り、弱い者に対する不寛容の声も時が経つにつれ大きくなっていくと考えられる。その先に行き着くのは、前にも述べたような社会ではないだろうか。


途中まで読んでくださった方も、最後まで読んでくださった方も等しく感謝申し上げます。今回は『悲しいこと』を題材に心に浮かんだことを書いてみました。至らぬ点だらけではありますが、今の私の意見ですので御意見・ご指摘も楽しみにお待ちしています。良い世の中になることを祈っています。

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― 新着の感想 ―
[良い点] そうなんですよね。社会のシステムは『悲しいこと』で成り立っている一面がありますよね。 文月優様の洞察力は鋭いです。 読みやすいです。ありがとうございます。 [一言] 大学を卒業して就職………
[良い点] とてもよく考えられた文であるところです。筋道の立て方、問題の投げかけ方、とてもよかったと思います。 [気になる点] 文自体と関係は薄いと思いますが、表示調整を読者にお願いするよりも、改行し…
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